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パンクブーブー

パンクブーブー("PUNK BOOBOO")はよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属の日本のお笑いコンビ。通称、「パンブー」。2009年M-1グランプリ、THE MANZAI 2011優勝者。(さとう てつお、 - )(くろせ じゅん、 - )メンバーは元々吉本興業福岡事務所(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー福岡事務所 以下「福岡吉本」と記述する)に所属し福岡での活動を経て上京、東京吉本の所属となる。佐藤は6期生、黒瀬は8期生として福岡吉本でデビュー。佐藤は約6年間、黒瀬は約4年間福岡吉本に在籍していた。パンクブーブー結成前までは、佐藤は「モンスターズ」、黒瀬は「バレッタ」という別のコンビで活動していた。初対面は黒瀬を含む福岡吉本8期生の歓迎会で、佐藤はその二つ上の先輩として彼らと顔を合わせた。お互いの第一印象は佐藤→黒瀬「ダサイ奴」(黒瀬曰く、「当時は重ね着さえすればお洒落だと思っていた」といい、「重ね着の黒瀬」というあだ名がつけられていたらしい)、黒瀬→佐藤「寡黙で雰囲気のある、ちょっと怖い先輩」であり、とりたてて好印象というわけではなかった。それからしばらくは特に大きな接点のないままであったが、パチンコ好きで目押しが得意だった2人は深夜パチンコ番組のレギュラーに選ばれ、それをきっかけに親交を持つようになる。ちなみに、この番組のMCを務めていたのは、後に佐藤の義兄となるコンバット満。その後、ほぼ同時期にお互いのコンビは解散。上京を考えていた2人は自然と行動を共にするようになる。そして、たまたまボケとツッコミだったということから、「東京で相方を探すのは大変」「とりあえず2人でやってみようか」という流れになる。偶然と成り行きが重なった形で、2001年4月に佐藤と黒瀬でコンビ結成。結成時について2人は「フワフワした感じで組んだ」と語っており、「『才能に惚れた』『こいつとなら自分が目指すお笑いが実現できると思った』『お笑い芸人としての将来を誓い合った』等の素敵で感動的なエピソードは一切無い」と語っている。ちなみに結成当初のコンビ名は、「ブーブー・ザ・パンク」だったが、程無くして現在のコンビ名「パンクブーブー」に改める。コンビ名の由来は、それぞれの解散してしまったコンビを車に例え、「車(ブーブー=コンビ)がパンクしてもくっついて力を合わせればまだ走れる」という意味。ただ、M1GPでは後述のようにそのコンビ名が原因で、スポンサーがカー用品店だっただけに扱いに苦慮していたというエピソードもある。当時の福岡吉本では所長の方針で、「事務所の許可なしに芸人自身の判断で東京の事務所へ移籍することは認めない」というものがあり、どうしても上京したい芸人は「一度吉本を辞め、東京吉本のオーディションを受けて入り直す」というのが慣例であった(佐藤の同期で彼らよりも先に東京進出したヒロシやスパローズが、上京の際に吉本を離れたのもこのため)。上京にあたり、パンクブーブーもこれにならって一度吉本興業を辞める。東京に来たときには、吉本にこだわらず東京の芸能事務所のオーディションに参加していた。それから間もなく、東京に転勤になったその福岡吉本所長(二人を事実上解雇した張本人)から謝罪を受け、「吉本の新しい劇場(ルミネtheよしもと)がもうすぐ完成するから、もう一度吉本に来い」と誘われる。結果、再び吉本入りを決意。ルミネの誕生と共にルミネの舞台に立ち続けている数少ない芸人でもある。結成から2年後の2003年、NHK『爆笑オンエアバトル』に初出演し、番組記録タイとなる高得点をマーク(詳細は後述)。一躍、コアなお笑いファンの注目を集める存在となる。その後も当番組に継続出演し、屈指の強豪として知名度を上げ、当番組を支える一組となった。第2回、第3回お笑いホープ大賞で決勝進出。第2回大会の決勝では珍しくコントを披露したが、ネタの途中で女装していた佐藤のパンツが見えてしまい、それを見た黒瀬が笑ってしまって後半のネタがおかしくなり優勝を逃した。2009年、『M-1グランプリ2009』で優勝。九州出身の芸人、且つ吉本所属の関東漫才師として初の受賞。また、大阪を除く吉本地方事務所出身者としても初の優勝。2010年10月7日フットボールアワーのオンラインを担当したが、麒麟のオンライン2回、フットボールアワー1回担当したのは覚えていたがオリエンタルラジオのオンラインを担当していたことを忘れていた。2010年10月19日ペナルティーのオンラインを担当した。2010年、『M-1グランプリ2010』にて、準決勝で敗退するも敗者復活を勝ち上がり決勝進出。最終結果は3位。2011年、M-1グランプリの後継番組となる『THE MANZAI 2011』に、歴代M-1王者の中で唯一出場し認定漫才師に選ばれる。2回の本戦サーキットでどちらも1位を獲得しトップ成績で決勝進出。2位の磁石に10ポイントという大差を付けていた。12月17日、THE MANZAI 2011決勝戦で優勝を果たし、2009年のM-1グランプリと合わせて2冠を達成した。『THE MANZAI 2011』の優勝商品である「フジテレビの番組レギュラー権」として、2012年1月9日よりパンクブーブー初の冠番組『ミタパンブー』が開始。『おかっちM.C. THE MANZAI 応援宣言!』の後番組で、月-木曜日の深夜24:35-24:45に放送される帯番組となる。2012年8月8日、三田友梨佳(フジテレビアナウンサー)「恋のミタパン」シングルと同時に、彼らもシングル「恋のパンクブーブー」を発売、同日フジテレビ夏のイベントお台場合衆国のCD発売イベントで揃ってデビュー曲を披露。M-1グランプリでは、第3回 - 第4回、第6回 - 第8回はいずれも準決勝で敗退。第9回(2009年)で初の決勝進出を果たした。事前番組や本戦の紹介VTRでは、決勝進出者にパンクブーブーの名が発表されたとき、周りの準決勝敗退の芸人たちが大いに沸きあがってメンバーを祝福している姿が映っている。あまりにも祝福の声や拍手が止まないので、まだ2組発表が残っていた発表者は「まだ(発表が)残っていますので静かにしてください」と注意を勧告した。それは決勝進出者発表が終わった後も続き、M-1グランプリ2009舞台裏ドキュメントでは、場所を移しているにもかかわらず、他の芸人へのインタビューの一部がうまく聞き取れないほど2人への祝福の声と拍手が大きく響き渡っている。ただ、あまりにも大泣きする黒瀬に、最終的には皆鼻白んでいたという。1回戦は8番手で「隣の住人」というネタを披露。審査員全員から90点以上を獲得し、笑い飯に次いで暫定2位につけた。審査員のオール巨人からは「彼らはしゃべりも上手いしネタも上手いし、そのワンフレーズワンフレーズで一番面白い要素がたくさん入っているような気がします。ネタを作るのにね、ものすごく苦労して作ったんだと思います。最後にグーッと盛り上がって終わるのが漫才は一番いい。ただ、(ネタに)入るときにアガってるな、というのはこれは仕方ないんですが。相当上手いというか楽しめました」と高評価を受けた。最終決戦では2番手で「陶芸家の弟子」というネタを披露。結果は審査員全員から票を得て優勝した。メンバーは予てから「自分達は大一番に弱い」と公言していたが、笑い飯が個人最高得点の100点を獲得したのを見て「自分たちの優勝はない」と感じ、「それならばいつも通りやろう。とにかく爪痕だけでも残そう」と決めた結果、完全に緊張感が抜けて漫才ができたとM-1優勝後のよしもとオンラインで語っている。黒瀬に至っては最終決戦のネタ中に「『バカッ』を最後に放り込んでやろう」と思いながらやっていたほど余裕があったという。逆に、もし笑い飯がスベっていたら、あるいは笑い飯より出番が先だったら重圧と緊張で(優勝は)無理だっただろうとも語った。ライバルの最高のネタが、彼らの優勝を後押ししたという結末になった。最終決戦の結果発表まで、優勝は笑い飯だと思っており、黒瀬は発表前に隣にいた笑い飯・西田に「優勝ですね」と言ってしまった。そのため優勝決定の瞬間に喜びの表情を見せることもなければ、抱き合うことも涙を流すこともなく、ただ驚いて呆気に取られているだけの表情を晒すことになった唯一の優勝者となってしまった。佐藤に至っては肩を攣ってしまった。表彰式で感想を求められたメンバーは「決勝決まって泣いてた相方が全く泣いてない」(佐藤)「全然意味が分からない」(黒瀬)とコメントした。大会実行委員長・審査委員長だった島田紳助は、「本来笑い飯はこの大会で優勝しているべきだった」と前置きした上で、「M-1で優勝するためには、M-1用の戦い方をしなければいけない。格闘技に例えるならボクシングの最終ラウンドの様に、ゴングがなった瞬間からラッシュをかけなければいけない。その戦い方が完璧に出来ていたのはパンクブーブーだけ」「『ネタ時間1分』というルールだったとしても笑い飯を除けば(ネタの傾向がスロースターターのため)パンクブーブーの優勝になっていたと思う」という内容の感想を語っている。大会後のよしもとオンラインの放送で石田明(NON STYLE)は、「パンクブーブーさんのネタを聞いた瞬間、負けたなって思いました。それくらい、『うわ、凄いなぁ…!』って思いましたね」と語っている。決勝当日は多くの芸人が会場のテレビ朝日に向かうメンバーを見送りに行ったといい、吉田大吾(POISON GIRL BAND)の話では、パンクブーブーの優勝が決まったとき、敗者復活会場にいた東京吉本の芸人は全員大喜びしていたという。佐田正樹(バッドボーイズ)のブログでは、彼らの優勝に、ルミネの楽屋が大歓声に包まれた様子が描かれている。阿部浩貴(アップダウン)のブログでは、「ルミネで皆が(パンクブーブーの優勝を)喜び、祝福していました。本当に、皆から愛されているコンビだと思いました」というコメントが綴られている。ライブ等でリアルタイムでM-1を見られない芸人仲間のために、舞台袖から嬉々として2人の優勝を報告した芸人もいたという。メンバーよりも周囲が狂喜したという数々のエピソードから、「史上最も舞台裏を沸かせた王者」とも呼ばれている。2人も、マンスリーよしもとPLUS3月号にて、「自分たちが優勝した喜びよりも、周りがこんなに喜んでくれたっていう感動のほうが大きかった」と語っている。また、「周りに支えられてきたのを実感して、自分たちだけの優勝と思えなかった」とも述べている。『M-1グランプリ2009』以前に開催された吉本のイベント「M-1前哨戦」でも実は優勝している。そのイベントでの漫才を見た真栄田賢(スリムクラブ)は感動、パンクブーブーの今年の優勝を確信しその思いを伝えにいくが、「毎年泣かされているんだ、俺らがM-1王者になれるわけがない」と佐藤は自嘲するだけだったらしい。そこで真栄田の提案で賭けをすることになり、佐藤は「自分たちが決勝進出できない方」に1万円、真栄田は「優勝する方」に1万円を賭けた。結局『M-1グランプリ2009』はパンクブーブーが優勝、スリムクラブも準決勝にまで進み敗者復活戦にも参加した。パンクブーブーの優勝後に初めて2組が会ったとき、「賭け負けたよ、不思議な感じだけどお前の言うとおりになったな」「お前らの敗者復活のネタ、笑い飯と一緒に見ていたけど面白かった」と佐藤は言って、賭けに負けた1万円と「次のM-1はお前らが優勝するに1万」の合計2万円を真栄田に渡したという(真栄田の沖縄国際映画祭ブログより)。M-1グランプリ2009への準備もまだ始まっていない6月ごろから「聞いたぞ、今年のM-1はネタがハイレベルで仕上がっているそうじゃないか」と色々な芸人から言われ、面食らってその出所を尋ねてみるとケンドーコバヤシだったという。しかしそのホラは現実のものとなり、メンバーはそう言ってくれたことは嬉しいし感謝していると述べている(マンスリーよしもとPLUS 3月号より)オートバックスのCMの放送が他のM-1王者に比べて格段に遅かった。優勝直後のよしもとオンラインで黒瀬は「CMの話になると、オートバックスの人みんな首捻ってた。あのコンビ名と顔どうするよ?って」と語っており、『パンクブーブー(パンクした車)』というコンビ名が主な原因らしい。芸人仲間からは、「オートバックスのCMが決まりそうなのにコンビ名が『パンクブーブー』だなんてある意味奇跡」「その間の悪さや運の悪さもパンクらしい」といわれていたという。大村朋宏(トータルテンボス)曰く、「チャンピオンになったからといってすんなり厚遇されないのもパンクらしい」。このコンビ名は、毎年M-1に臨んでいた当人たちの間でも度々問題視されており、一時期は「鬼切(おにぎり)」というコンビ名への改名を考えていた。優勝後も暫くは予め入っていた仕事をこなす日々で、M-1での栄光とは程遠いエピソードも多い。同じく後期M-1優勝者のサンドウィッチマン・NON STYLE・笑い飯にも共通している。翌年度のM-1グランプリにも連覇を目指し参戦。準決勝では上位8組が決勝進出というルールの中、9位で敗退。その後、準々決勝以上の進出者が参加資格を有する敗者復活戦に出場。準々決勝での順位が下の組からネタ披露するというルールだったため、9位のパンクブーブーは大トリでの出番だったが敗者復活を果たし、二年連続決勝戦進出を果たす。決勝1回戦では、前年度までとはスタイルを大きく変えた「勘違い漫才」を披露。6人の審査員から94点以上を獲得し、敗者復活枠としては歴代1位の(668 / 700点)を記録。前年度優勝を争った笑い飯と同点に付け、会場は大きくどよめいた。審査員の島田紳助からは「現段階ではダントツ」、大竹一樹からは「さすがチャンピオンですね。敗者復活を差し引いて、その期待値をさらに超えてくる」と高評価を受けた。大会ルールにより、ファーストラウンドを1位で通過。最終決戦では3番手で登場。しかし、一本目とほぼ同じパターンのネタだったために食傷気味になったのか、最終審査では一票も獲得できず、笑い飯に前年度の雪辱を晴らされる結果となった。スリムクラブにも抜かれ、最終結果は3位。審査員の渡辺正行は、表彰式後の審査員総評で「ネタのパターンを変えてくれば良かった」とコメントしていた。ちなみに渡辺は自身のブログにおいて「2本目はスリムクラブも笑い飯も同じぐらいの面白さだったため、パンクブーブーが笑いの量的に抜くことを審査員全員が期待していた。(省略)しかし、あまりにも同じパターンだったから観客に次の展開が分かってしまう。(省略)はっきりスベった感があった。同じギャグのパターンだけが目立った。」という内容の感想を述べた。メンバーは最終決戦のネタについては「結果は裏目に出たが後悔はしていない」という趣旨の発言をしている。M-1終了後のよしもとオンラインで黒瀬は「二本目のネタについては申し訳ない」と語りながらも、「二本とも同じパターンでいくことは2人の間で決めていた」と語った。佐藤もM-1終了後の自身のブログ内で、「どうしても二本とも同じパターンにこだわりたかった。去年は今までの集大成で優勝しました。だから漫才師としてさらに上を目指すにはどうしても今年作った新しいパターン、そして僕らならではのパターンにこだわって、最後まで貫きたかったという理由でのネタチョイスでした」という趣旨を述べ、二本目のネタは、この一年間で新たに蓄えた力、新しい漫才スタイルのみでどこまで進むことが出来るかという「漫才師としての挑戦」であり、「それを貫いた上での連覇」こそが、自分たちの目指していたものだったと語った。その後のテレビ番組や取材では佐藤が「まさか2本目があんなにスベるとは思わなかった」(黒瀬が「スベってはねぇわ!」と突っ込むことが多い)、「どうせスベるなら『チンポジ』(詳しくは笑い飯の項目を参照)とでも言っとけば良かった」などとネタにしている。また、『M-1リターンズ2010』では番組スタッフから「佐藤は出番直前に家族の写真(夫人と当時誕生したばかりの息子の写真)を見て本番に臨んだが、2009年度は出番直前までエロ画像を見ていた」ことを暴露された。黒瀬はこの事実をこのときまでまったく知らなかったため、かなりショックを受けていた。THE MANZAI 2011では、予選を断トツで通過し、決勝1回戦では、昨年のM-1グランプリで披露したネタと同じ、佐藤の話がことごとく想像を裏切っていくパターンの漫才である「本当にあった怖い話」を披露し、国民ワラテン1位で1票、9人の審査員のうち8人から票をもらい、合計9票獲得し、ファイナルラウンドへ駒を進める。その後、ファイナルラウンドではネタ種を変え、従来のコント漫才で「新聞の勧誘」を披露、結果5票を獲得し、初代王者となった。ちなみに、結果として、昨年のM-1グランプリ2010で審査員の渡辺正行(THE MANZAI 2011でも審査員を務めていた)が表彰式後の審査員総評でコメントしていた「ネタのパターンを変えてくれば良かった」と言う批評が的中した形となった。高評価の代名詞・オーバー500獲得回数11回の最多獲得記録保持者であることから、番組内では「ミスターオーバー500」という呼称で呼ばれ、番組史に残る強豪挑戦者としてその名を挙げられることが多い。しかし、通常回では番組屈指の強豪として高く評価されていた一方で、強豪挑戦者のなかからチャンピオンを決定するチャンピオン大会では成績が振るわないことが多かった。2008年4月のナレーションコールでは「無冠の帝王」と紹介されており、実力の高さと勝負弱さ、不運を併せ持ったコンビであった。2003年6月の長崎県・長崎市での収録で初挑戦。陣内智則、ダイノジ、いつもここから、はなわ、スピードワゴンといった強豪がひしめいていたこの大会に、無名のニューフェイスとして参戦。視聴者1位バトルで2人の語ったところによると、これがコンビとして初のテレビ出演だったらしい。当然知名度も前評判も皆無に近い存在だったが、結果、初挑戦にして537KB(100人中98人が投票)という高得点を獲得し、その放送ではトップ通過、「初挑戦における最高キロバトル」として陣内智則に並ぶ歴代1位タイを記録。2人曰く「オンバトはチャンスだったが、他にも出たがっている吉本の若手は沢山いたので、落ちてしまうと次がないかもしれないと恐怖も感じていた」という。また、2人は九州出身で、収録地が長崎であったため、そういう点でもかなり気合が入っていたと語っている。ただ、「格好や髪型がモテようと必死」「(ネタの中で)地元の駅名出すし、ネタ終わりでお辞儀を七回くらいするし、媚び媚びなのがミエミエ」と、初登場時のVTRを改めて見た2人は「恥ずかしい」と感想を述べている。大量のボールを獲得した姿に他の芸人も驚き、結果発表前、ダイノジやスピードワゴンからは「絶対に合格(オンエア)したよ」と励まされていた。ちなみにこのときパンクブーブーを励ましていたスピードワゴンは、461KBという高得点を獲得しながらも彼らに押し出されるような形で6位オフエアとなり(5位のはなわとはボール1個差であった)、2人の快挙の裏で「オフエア最高得点記録」という珍記録を打ち立てる羽目となってしまった。この初挑戦時には「初挑戦における最高キロバトル」記録保持者である陣内も出演していたが、陣内がこの記録を出した放送では佐藤がパンクブーブーを結成する以前に組んでいた「モンスターズ」が出演している(モンスターズは7位オフエア)。また、「今よく着ている青と白のストライプのジャケット(通称・ローソンジャケット)を初めて着て出たのがオンバトの第1回、長崎大会でした」と黒瀬は語っている(ぴあ2010年3月号より)。初挑戦直後、オンエアバトルを特集した雑誌のなかで2人は「新星」として紹介されているが、そのなかで、「今後の目標は(今回の好成績が)まぐれ、って言われないように頑張ること」と語っている。その言葉を実証するかのように、2人はその後もトントン拍子に高得点を連発し、番組初の3回連続でオーバー500を成し遂げるが、4回目の挑戦でオフエア。5回目の挑戦で再びオーバー500を獲得し番組初の4回のオンエア全てがオーバー500という記録を達成。年間合計キロバトル数は2084KBとなり「年間獲得キロバトル」の歴代最高を記録(この記録は番組終了まで破られなかった)、初登場年に年間ランキング1位に輝くという大偉業も成し遂げたが、チャンピオン大会はセミファイナルで惜しくも6位敗退となった。その後も安定した実力で高得点を重ね、名実共にオンエアバトルの新たなる強豪となる。この年行われた第7回チャンピオン大会にも順当にエントリーし、去年敗退したセミファイナルを1000KBオーバーで一位通過。チャンピオンへの期待が高まるなかファイナルへ臨むが、その大会で披露した「電車の車掌」のネタは今までのネタとは一線を画する、北斗の拳をモチーフにした破天荒なネタで、(ネタが飛石連休とかぶってしまった影響もあるものの)、362KBという低得点でファイナル最下位を記録することとなった。本人たちも出番終了後のコメントで観客や視聴者に対して謝罪している。オンエアバトルDVD内での二人の談によれば、とても賞レース向けとは思えないそのネタに当時のマネージャーから「お前らオンバト出たくないのか!?」と激怒されたという。また、雑誌のインタビューで黒瀬は「いろんな人からクソみたいに怒られた」とも語っている。これについては2004年5月号でのお笑いタイフーンのインタビューで、「言われるのは点数ばかりでネタを覚えてもらえない」「あのまま高得点とり続けても、何も変わらないと思う」「(これからは)僕らが本当に面白いと思う部分をいろいろ試していかないと(芸人として)突破できない」「だから今年はオンバト落ちるかもしれないが、それでも構わない」などと話していた。また、「ファイナルに行ったら1位を狙わず、何それ?っていうようなバカコントをやりたい」「今までと違う、スベッてたけど印象に残った、っていうのをやりたい。それが実はオンバト1回目に受かったときからの目標だった」と明かしており、また後に発売された爆笑オンエアバトル公式本7のインタビューで佐藤は「その時は目立ってやろうと考えてた」とコメントしている。この年の彼らは上記の「車掌ネタ」の他にも通常回で度々挑戦的なネタを行ってきており、6月19日に放送された岡山県収録では番組内で初めてコントを披露し見事オンエアを獲得した。また、11月27日に放送された北海道・北見市収録では最初に漫才に入ってから途中でショートコントに切り替わるというかなり異色のネタを披露(オチもかなりメチャクチャだった)したが、こちらも見事オンエアを獲得した。このネタも上記の「車掌ネタ」程ではないが、各方面から非難を浴びたという。余談だが、10月2日の放送で漫才「お化け屋敷」というネタを披露している際に、黒瀬自身が「もうすっかり夏じゃないですか…」と発言し、季節外れも甚だしい内容になってしまうという珍事が起きてしまった事がある。ネタの方向性の変化もあり(初期の勢いある漫才から、現在の正統派漫才への過渡期だった)、オフエアこそならなかったものの獲得KBは大きく減った。佐藤の格好から、「ピンクはげ時代」とも呼ばれている。ちなみにこの年は、M-1グランプリの予選も三回戦で敗退している。愛・地球博で行われた収録では389KBでのオンエアと自身最低KBでのオンエア記録を作ってしまい、この年度はオーバー500も1回しか取れず、年間ランキングもギリギリの20位であった。本当は井上マーと同率20位であったが、年間最高KBが唯一のオーバー500のおかげで出場できた(年間最高KBの差のせいで出場できなかった井上マーは2008年度に3年越しの出場を果たしている)。チャンピオン大会セミファイナルでは6位敗退。2006年3月の第8回チャンピオン大会終了後は1年以上出場がなかった。この空白の時期においては詳細は不明であるが、雑誌インタビューのなかで「2006-2007年は本当にヤバかった」「(なかなか売れない苛立ちから)廃業や移籍も考えた」と語っている(月刊エンターテイメント3月号より)。その後、2007年6月に復帰しオーバー500を獲得。その後も高得点で3連勝を飾ったが、チャンピオン大会出場ラインである4勝目を賭けた戦いで、未勝利のアルコ&ピースに抜かれてしまいオフエア。連勝が11で止まったばかりか、4勝目を獲得できずにチャンピオン大会出場を逃がした。それでも、翌年度にリベンジを果たすと高得点を続け、2008年11月13日の放送でオーバー500獲得回数が10回となり、アンジャッシュを上回り番組歴代単独1位となった。番組終了時点で、番組唯一のオーバー500回数2桁を獲得した芸人である(2位はタイムマシーン3号の9回)。この年もチャンピオン大会に進出。セミファイナルを1000KBオーバーで通過しファイナルに進出するが結果は4位だった。ただ、このときに披露した「電気店へのクレーム」「陶芸家に弟子入り」のネタは、約一年後に臨むことになるM-1グランプリ2009で披露した2ネタのベースになったものである。故に、M-1優勝に繋ぐ敗戦だったという見方もある。番組のシステムが変わったこの年度はは7月の長野県・東御市で収録された第4戦に出場。517KBという高得点を獲得するもしんのすけとシャンに敗れ、チャンピオン大会出場はならなかった。しかし視聴者投票で1位に選ばれ、視聴者投票1位バトルに進出。M-1グランプリのファーストステージと同じ「近隣住民のクレーム」をやったが結局4位敗退。この年に3連覇を果たしたトータルテンボスは番組ホームページのインタビューで、「本当はパンクブーブーと戦って倒したかった」と語っている。その直後に刊行された爆笑オンエアバトル公式本12内で、番組からの卒業を発表。約7年に及ぶ番組での活動に幕を閉じた。この7年間という活動期間は強豪挑戦者としては屈指の長さであり(当番組は売れれば卒業できるシステムであるため)、実力は高かったが、番組外ではなかなか評価されてこなかったという証でもある。2回ネタがかぶったことがある。1回目は前述の第7回チャンピオン大会ファイナルで、飛石連休と電車の車掌ネタでかぶってしまい、結果は振るわなかった。2回目は2005年10月のレギュラー放送で流れ星と童話・赤ずきんちゃんネタでかぶってしまうが、このときは逆にかぶってしまったことをネタにして笑いを取り、オーバー500を獲得した。またこのことについて爆笑オンエアバトル公式本7内のインタビューで「あれはありがたかった。僕ら後半なんで逆に利用させてもらった」と語っている。なお佐藤は「モンスターズ」時代に2回(戦績1勝1敗 最高380KB)、黒瀬は「バレッタ」時代に1回(戦績0勝1敗 最高217KB)、それぞれオンエアバトルに挑戦している。M-1王者がオンエアバトルのチャンピオン大会に参戦したのはアンタッチャブルに続いて2組目。まだ無名だった福岡時代から佐藤の評価は高く、博多大吉は「福岡吉本にこんな天才が入ってきた」と驚愕し、博多華丸曰く「あれは早く世に出るべきだと誰もが言っていた」という。またコンバット満曰く、福岡吉本の屋台骨を支えていた当時の博多華丸・大吉は、舞台で他の後輩の出番のときには余裕から笑顔を浮かべていたが、佐藤が舞台に立つと完成度の高さに笑みが消え、その姿に緊張感が漂っていたらしい。コンバットは佐藤を「華丸・大吉に初めて危機感を抱かせた男」だと語っている。佐藤はモンスターズ時代にオール巨人にネタ見せする機会があり、その際「君は少し時間がかかるかもしれない」と評されたとのこと。それを「時間をかけさえすれば大丈夫」と前向きに捉え、その言葉を励みに努力を重ねてきたという。2010年1月31日の「行列のできる法律相談所」(日本テレビ系)にてこのエピソードを披露した際、司会の島田紳助は「"時間がかかる"ということは"可能性がある"ということ」と述べている。しかし福岡時代から高い評価を得ていた佐藤とは対照的に、福岡時代の黒瀬について博多華丸・大吉は「思い出が全然記憶にない」「当時の相方(上荒磯)のほうが器用で、印象に残っている」と述べている。そのため、「東京に行ってから大きく成長した」と評されている。陣内智則はジャイケルマクソン(2010年6月9日)にて、「こいつら(パンクブーブー)は、芸人の間で、面白いってずっと言われてきていた」と語っている。M-1グランプリに於いても早くから決勝進出有力候補だったことが、M-1グランプリ2009本戦での今田耕司や品川祐のコメントで判明している。毎年M-1に挑むも準決勝敗退を繰り返していたが、その実力を認めていた他の芸人たちからは厚意や激励を受けていた。今田耕司や博多華丸・大吉は、二人の優勝の数年前から「お前らは絶対にM-1を獲る」と太鼓判を押し、世界のナベアツは「なんとしてもM-1とろうぜ」と励ましながら、自分のライブにパンクブーブーを継続出演させていたという。有田哲平(くりぃむしちゅー)も、M-1優勝最有力の芸人として、早くから彼らに注目していたという旨をしゃべくり007(1月25日放送)にて語っている他、内村光良(ウッチャンナンチャン)も、イロモネアのゴールドラッシュのコーナーにてまだ無名だった2人が参戦したとき、「漫才の腕前を更に上げられまして…」というコメントをしている。勝俣州和も爆笑レッドカーペットにて彼らのネタを絶賛し、2008年の時点で「今年のM-1はパンクブーブーがくると思う」と明言していた(その後2010年8月1日の同番組内で、その当時の彼らのVTRを見、「この時点で完成されている、M-1を獲ったのは当然だ」とも称賛している)。M-1グランプリ2009決勝進出者発表を間近に控えたお笑い雑誌の優勝予想者アンケートでは、世間的な知名度は決して高くなかったにも関わらず、第5位に食い込んでもいる。非常に緊張しやすくなかなか実力を発揮できないことでも有名だったらしく、M-1本選では今田耕司がパンクブーブーについて「緊張しい」「噛まないか心配だった」とコメントしており、M-1グランプリ2009完全版DVDでも、博多華丸・大吉とタカアンドトシがそれとほぼ同趣旨の発言をしている(さらにその際、黒瀬も「みんなから言われた」と同調しており、M-1優勝後のよしもとオンラインでは「自分たちはすぐに緊張するので大舞台に弱い」とも認めている)。トータルテンボスは、パンクブーブーの実力を早くから認めており、2007年のM-1グランプリ終了後、大村朋宏は『ヨシモト∞』に出演した際のトークで「サンドウィッチマンかパンクブーブーが敗者復活戦の勢いをもってきたら危ないと思っていた」とコメントしている。藤田憲右は2008年12月8日付けの自身のブログにて2008年のM-1グランプリでパンクブーブーが準決勝敗退となったことを惜しむと共に、彼らが躍進に値する芸人だと認めて励ましの言葉を贈っている。さらにその際に、「今年(2008年)の敗者復活でも来年(2009年)でもいい、もし彼らが決勝の舞台に立てば、初出場で優勝という結果が待っているだろうと思います」という予言めいたコメントを記している。トータルテンボス2人とも、2009年のM-1グランプリにて決勝進出を果たした際、自身のブログで賛辞を送っている。M-1グランプリ2009終了後、オール巨人はブログ内でに「ネタが非常に面白く、2人とも力がある。優勝は当然の結果だと思う」と賞賛している。現在の出演番組過去のレギュラー番組その他の出演番組ほか多数過去のレギュラー番組その他の出演番組

出典:wikipedia

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