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中山雅史

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー選手である。JFL・アスルクラロ沼津所属。ポジションはフォワード。日本プロサッカー選手会名誉会長。ゴン中山の愛称で知られる。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。日本代表としてフランスワールドカップ、日韓ワールドカップにも出場。Jリーグ(J1)最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持ち。2つのギネス世界記録とJリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。また、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者だった。妻は女優・タレントの生田智子で、2004年に第1子(女子)が生まれた。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員である。静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にする。その大会では準決勝まで駒を進めるが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPK負けしベスト4。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍する。1986年、筑波大学体育専門学群に進学。当初静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーに回されるが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻る。1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時まだ実業団であったチームに加入したため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。1992年に発足したオフトジャパンでは試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍し、第2回ダイナスティカップやアジアカップの初優勝に貢献する。1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ在籍にもかかわらず、1994年アメリカワールドカップ予選のメンバーにも選ばれ、最終予選では途中からスタメンに定着して獅子奮迅の活躍を見せる。また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意溢れるプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。アジア最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められ引き分けた、いわゆる『ドーハの悲劇』の際に、交代してベンチに座っていた中山が地面に頽れた様子は、ワールドカップ行きの切符を逃したこの試合・出来事をテレビ番組などで振り返るときに必ずといっていいほど流されるシーンとなった(ただし本人はこの時地面に頽れたことを「まだ試合終了の笛がなっていないのに諦めてしまった」と後悔している)。またこの年、ジュビロ磐田はジャパンフットボールリーグ1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たす。1994年のJリーグ開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し、4月末に戦線離脱を余儀なくされる。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎や福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振る。1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。前年の怪我のために離れていた代表にもキリンカップで復帰したが、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「ボールを持たない時の動きの質」に開眼。第2ステージでは自身Jリーグでは初のハットトリックも記録するなど活躍してステージ優勝に貢献。直後に1998年フランスワールドカップ最終予選の最終局面で代表へ復帰して今度は日本代表の予選突破に貢献。日本の本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、岡田武史監督から2トップ組む三浦知良と共に交代を命じられ、呂比須ワグナー及び城彰二が投入された。更に鹿島とのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献する。1998年に フランスワールドカップに日本代表として出場。グループリーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている(「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤り)。同年のリーグ戦では4月15日の対C大阪戦(長居)での5得点(Jリーグのリーグ戦における「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対広島戦(磐田)で4得点、4月25日の対福岡戦(水前寺)で4得点、4月29日の対札幌戦(磐田)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点(現在でもリーグ戦の最多得点記録)を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。これ以前の記録は、1938年11月16日にイングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒であった。2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。2002年、当初は候補合宿に招集されるなど2002年日韓W杯代表入りが有力視されていたが、リーグ開幕から不調(ワールドカップによる中断までわずか1得点)で、直前の海外遠征のメンバーから外された。更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測・報道が多数を占めたが、世間一般からの「中山待望論」(直前のカップ戦ではアウェイゲームにも関わらず相手サポーターからも「ナカヤマ・ニッポン」コールが起こった)に加え、ベテラン抜きだった直前遠征で結果が出せなかった代表に足りない「精神的支柱」としての意味もあり、秋田豊とともに2002年日韓ワールドカップ日本代表に選出され、選出されなかった中村俊輔が付けていた背番号10を背負った。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手 となった。クラブではリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産し、自身は16ゴールを上げ、この年のリーグ戦では日本人のみなら得点王の高原に次ぐ得点をとった。そして、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰するが、リーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。2005年5月1日の柏レイソル戦(柏の葉)前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハ)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールという記録を達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良(2006年に当時J2の横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している)、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任する。2008年3月15日のガンバ大阪戦(静岡スタジアムエコパ)でもロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップ清水戦(日本平スタジアム)で、後半43分にCKをヘディングで決めて、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える(中山は40歳8か月2日)で、快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。この得点以降公式戦で得点をあげていないため、これがキャリアでの最後の得点となった。2009年シーズンは出場機会が激減。高齢となったこともあり、11月9日に磐田から戦力外通告を受け、スタッフとして残留するよう要請された。しかし、現役続行に強い意欲を示す中山はこれを断り、移籍先を探した。ヤマハスタジアムでの最終公式戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、ラモス瑠偉が持つJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節は出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。退団発表後、熊本、横浜FC、コンサドーレ札幌(以上J2)、町田、長崎(以上JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまで現役にこだわり続ける姿勢を表明した。2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術をした。2011年は、昨年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両膝関節炎になってしまい、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌がJ1昇格が決まり、中山自身にとっては来季は3シーズン振りのJ1となることが決まった。オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた。また、この際に複数の選手たちと共に被災地訪問もしている。2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された。11月24日の横浜FM戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した。シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め、4日に現役引退を発表した。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退のことについて紹介している。引退後は、マネジメント会社ARSと契約し色々なバラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターを担当したりしている。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日、スカパーでの試合中継時に行っている。2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当していて、ゲーム内にも自身が登場している。複数の会社による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している。10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された。2015年9月5日に現役復帰を目指して、ジュビロや日本代表でコーチをしていた山本昌邦が代表を務めるJFL・アスルクラロ沼津の練習に参加した。2015年9月14日、練習参加していたJFL・アスルクラロ沼津で現役復帰することが発表された。10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンは試合には出場しなかった。J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島の佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させていただき、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした。3人姉弟の末子で長男。強い姉2人に対抗するため必然的に負けず嫌いの性格になった。サッカーを始めたのは小4で少年サッカー団に入った時だが、遊びレベルでは幼稚園の頃からサッカー遊びも野球もしていた。子供の頃から故郷の山や川で遊び回っていたことが、後年中山の身体能力の高さの土台となった。中学時代はサッカー部・合唱部・陸上部を掛け持ちしていたが、大会で最初に敗退したのはサッカー部だった。一方合唱部ではテノールのパートリーダーを務め入賞したこともある。地元の名門進学校でサッカーの名門校でもある藤枝東高校には一般入試で進学(当時藤枝東高校には推薦入試制度はなかった。併願で静岡学園も受験し合格している)。一緒に受験した他中学のサッカー部員に「あの中山と一緒か?!」と恐れられたという。同級生にはスピッツのリーダーでベーシストの田村明浩がいた。2学年上に俳優の別所哲也がいた。藤枝東高校では2年生の時点で背番号10を背負うエースだったが、静岡県高校選抜では武田修宏の存在もあり、ディフェンダー(センターバックやサイドバック)としてプレーすることが多かった。この頃のサイドバックとしての経験からプロ選手になってからもクロスボールの精度は高く、味方へのアシストも多い。筑波大学への推薦入学を決めた中山に父・儀助が付けた唯一の条件は、サッカーを辞めた後の人生のための教員免許取得だった。教育実習に行った茨城県内の中学校には、10年後にチームメイトとなるカレン・ロバートの兄がいた。筑波大学在学中に中学校・高等学校教員(保健体育・体育)一種免許状を取得している。大学の同期生井原正巳は等身大のライバルにして同志。セブンイレブンでのアルバイト仲間であり、お互い相手には隠れてトレーニングを積んでいたという。筑波大学在学中に野村證券から入社勧誘を受け、サッカー選手になっていなければ野村に勤務していたと思うと発言している。ゴンの愛称は大学時代につけられたもの。当時、海外遠征中の不摂生で太ってしまった中山の顔立ちがTV番組「オレたちひょうきん族」でビートたけしが演じたキャラクター「鬼瓦権造」に似ていた、というのが由来で、大学時代の先輩である鋤柄昌宏が名付け親。中山が大学時代生活していた寮の狭い部屋には不釣合いに大きなタンスがあったため(中山によれば、それ自体は事実)、「タンスに…」の連想から「ゴン」のあだ名が付いたという異説もあるが、これは後付け的説と言われる。ファンはしばしば中山隊長とも呼ぶが、これは筑波大学時代にユニバーシアード代表でキャプテンを務めた際のチームメイトがそう呼んだことがきっかけとなっておりザ・ビートルズの楽曲「イエローサブマリン」のメロディで「中山隊長ゴンゴール」がチャントとなっている。ファーストネーム、またはそれに由来する愛称「隊長」等で呼ばれるサッカー選手、千葉の坂本将貴など多いが、彼の場合世間一般では「ゴン」「ゴン中山」「(ゴン)中山隊長」などの愛称のほうが通りが良く、日本ではよほどのマニアックなファンでもなければファーストネームの「雅史」のみで呼ぶことはまずない。ドイツW杯抽選会ではゲストは(通称を登録名としている人物以外)全員ファーストネームで呼ばれ、そこでは彼も「Masashi」と呼ばれた。選手仲間、マスコミ関係者などからは「中山さん」「ゴンさん(ちゃん)」(彼より年上もしくは同輩のサッカー関係者からは敬称なし)と呼ばれることが多い。同じチームに所属していた外国人選手の中には彼の実名が「Gon」だと勘違いしていたケースもあった。2002年ワールドカップの日本代表に選出された際、トルシエ日本代表監督(当時)が「日本には『Gon』がいる」と発言したのを通訳者が聞き間違えて「『God』(神)」と誤訳したが、これはくしくも監督と日本サポーターの真意通りの表現であった。2004年出生の中山の一人娘は、人の名前を認識し始めた当初、父親の名前を「なかやまジュビロ」だと思っていた。1993年秋の「ドーハの悲劇」で知名度・人気が高騰したことでCM出演依頼が増え、特に1994年にはCM出演は多数。Jリーグ加入が1年遅れたジュビロ磐田の知名度を上げることにも繋がった。しかしその1994年は怪我のため5月以後の試合出場はなかったので、一部マスコミは「CMでしか見ない人」「ドーハのみの一発屋」との痛烈な批判的記事もあったが、翌1995年の復活でそれらの風評を払拭した。中山自らゴールを決めてチームの勝利に貢献すると、試合後サポーターの応援歌に応えて「ゴンダンス」を披露したりもする。かつてのチームメート・ドゥンガ(元ブラジル代表主将。前サッカーブラジル代表監督)は「中山ほどファンと喜びを共有しようとする選手は他に知らない」と称えている。上記のギネス記録の他にJリーグ試合時、PKのキッカーでシュートを撃つも勢いよく蹴ったボールがクロスバーに直撃、大きく弧を描いて飛んだボールの落下点に居た敵チームの選手がボールキープしてそのままジュビロ磐田の失点に繋がるという、かなり珍しいプレーがある。試合後、中山に声をかける者は無く、かなりバツの悪い思いをしたと語っている。2001年から2007年までJリーグ選手協会会長も務めており(現在は名誉会長)、Jリーグや日本サッカー界を盛り上げ、日本にサッカーを文化として根付かせたいという強い信念の持ち主でもある。内外のサッカー事情を把握すべく、新聞で毎節J2の観客動員数までチェック、静岡ローカルでTV放映される高校やユース年代の試合も出来る限り視聴し、その内容も正確に記憶している。1993年のアメリカワールドカップ・アジア最終予選、第2戦イラン戦は0-2と敗色濃厚になる中、中山はゴールラインを割りそうなパスをスライディングで止め、すかさず角度のないところからゴールを決めた。さらにボールを持つと、鬼気迫る表情で仲間を鼓舞しながらセンターサークルへ戻った。このプレーがきっかけとなり、日本はムードを立て直して北朝鮮戦、韓国戦を連勝し、ワールドカップ初出場まであと一歩に迫った。1997年9月のワールドカップアジア地区最終予選では、国立競技場での日本対韓国戦を中継したTBSのピッチレポーターを務め、試合前にはスタンド前でサポーターを盛り上げ明るく振舞っていたが、後年「その試合のチケットを持っていなかったのでつい仕事を受けてしまったが、現役選手の自分が一体何をやってるんだ、とかなり複雑な心境でいた」と告白。また、その日韓戦終了後、韓国代表の車範根監督が完勝と自慢げに語ったインタビューに対し、「そんなに韓国が圧倒してたわけじゃないんですけどねぇ…」と反発、悔しさを顕にしていた。その後窮地に陥った日本代表を救うべく、ホームのカザフスタン戦から代表に選出され、まともに食事も摂れないほどのプレッシャーに苦しみながらも(本人曰く「力石状態」)結果的には大事な場面でゴールを決め、日本代表の救世主となる。上記の最終予選で代表復帰した際には、ともにドーハの悲劇を味わい、代表で正FWを争ってきた高木琢也も同時に代表復帰した。復帰後初戦のカザフスタン戦では、二人とも直前のリーグ戦で好調、またカズと呂比須が累積警告による出場停止、岡田監督も情報統制を敷いたため、サポーターは「どちらが先発するんだろう?」といい意味でやきもきしていた。そして試合当日、場内アナウンスと大型ビジョンでの先発選手紹介、日本代表で最後に不敵な笑顔の画像とともに「FW、背番号32、中山雅史」が告げられると、国立競技場を埋めた5万人以上のサポーターから大歓声と「オーナカヤマ!ナカヤマナカヤマ、ゴンゴール」の大合唱が沸き起こった。試合でゴールを挙げるとユニフォームをたくし上げ、その下にカズの「11番」のユニフォームを着込んでいたというゴールパフォーマンスをみせた。日本で開催される代表試合において、サブメンバーの中山がアップのペースを上げたり、メンバー交代で中山の出場がアナウンスされると異様な程の大声援となるので、中山を知らない相手の外国人選手は「そんなに凄い選手が出てくるのか?」と戸惑いを感じると言われる。2002年の日韓共催W杯のロシア戦において途中出場した際も同様の現象が起きた。2002年の日韓W杯のメンバー発表以前に発売された日本版ウイニングイレブン6のイメージキャラクターを務めた。その後、メンバー発表で土壇場のサプライズ選出が起こり、このソフトの売り上げが増大したという。なお、発売元のコナミでは中山の起用を「狙った訳でなく、全くの偶然」と話している。2006年のドイツW杯組み合わせ抽選会(2005年12月9日、ドイツ・ライプツィヒ)に招待ゲスト(ドローワー)として参加した。2006年FIFAW杯ドイツ大会の代表には選出されなかったが、現地レポーターやゲスト解説として活躍。珍妙な発言や妙なポーズをとったりし視聴者や共演者から笑いを誘う一方、過去W杯日本代表として闘った経験から、身をもって残してきた教訓が全く生かされなかった惨敗への苛立ちもコメントの端々から感じられた。ただ出場した選手に対しては、クロアチア戦でシュートを外した柳沢敦のプレーについてコメントを求められて、自身の経験談を交えながらプレーの際の選手心理を説明してその立場を慮るなど暖かい配慮も見せている。本気か冗談か「エントリー変更のリミットまで連絡待ちしていた」とも言い、スタジオの日本代表歴のある選手達・コメンテーター達からも「今からでもいいから代表に合流して選手達を一喝してやれ」と言われていた。サービス精神が旺盛で話術に長け滑舌も良く、ファンを喜ばせようと場を盛り上げるべく軽妙なトークを披露することで知られている。多くの伝説的名言があるが、世間が「ゴン中山的」だと思っている奔放な発言の多くはその場のひらめきで、本人はあまり覚えていないとのこと。一方で中山は先述の数々のエピソードでも言及されている通り記憶力に優れ、サッカーのプレイや熟考した上での発言は驚くほど正確に記憶しており、自身でも人の顔を覚えるのが得意と述べている。また自身のゴール集のDVDではJ昇格を目指して戦っていた頃のゴール(収録の時点の12年も前である)についても、映像を見ずにすらすらとその時の状況を回想している。サッカーのプレーに関しての発言では、真面目に熟考した上での発言をすることが多い。特に試合直後のインタビューではその傾向が強くなり、過去中山を取材した「情熱大陸」などのスポーツドキュメンタリーでは、笑いを狙った発言などは一切ない。しかしオールスター戦など「お祭り」では硬い話はあまりせずに楽しませる会話が増える。「自分は下手だからこそまだまだ上達できる」と常に練習に励み、試合後は「まだまだです」とコメントすることが多い。その真面目さ・ストイックな面を藤田俊哉は「他人にも厳しいけれども、自分にはもっと厳しい人」と評している。妻の生田智子曰く「ああ見えても普通の人間。意外とデリケートだし落ち込む時もある」。妻の生田智子とは、まだ中山が無名選手だった頃、サッカー界・芸能界共通の知人を介して知り合う。生田が中山が生活している静岡県から比較的近い名古屋で舞台出演した際、中山が陣中見舞いに訪れるなどして徐々に親しくなる。「ドーハの悲劇」以降、世間に顔と名前が知られるようになった中山と生田が外で公然と会うのは困難となったため、生田が実家に中山を招いたことを機に、家族公認の本格的な交際に。遠距離恋愛、中山の選手生命を脅かす故障などの困難を乗り越え、1996年に結婚。プロポーズは東京駅新幹線ホームに向かうエスカレーターで中山が生田に「結婚するか?」と言ったというが、その前に中山は生田の両親に「結婚を前提に真剣に交際している」ことを告げていたという。結婚9年目の2004年、第1子の女子が誕生。この子が父親のサッカー選手としての雄姿を記憶できる年齢になるまではと、中山が現役選手であり続ける大きな原動力の一つになっている。試合前に聴く「勝負曲」の好みは中西圭三のバラード。1998年のW杯初出場記念に中西が中山への応援歌として製作した曲『SON OF THE SUN』では、中山自身が自慢のテノールで特別ゲストとしてコーラスに参加している。中西以外にはB'zの大ファンである。しばしばライブ会場で夫婦そろって目撃されている。またボーカルを務めている稲葉浩志とは同じ誕生日(9月23日)というよしみもあり1998年頃からプライベートでの付き合いもある。そして稲葉の2010年のソロツアーのパンフレットにおいて「稲葉浩志×中山雅史」という対談が実現した。(実際にソロツアーの札幌公演でも目撃されている。)そこではお互いに、サッカーのことミュージシャンであることを再認識しながらも互いのことについて話し合い、中山は2008年のNHKスペシャルでの稲葉のライブ前の合宿での走りこみなどストイックな精神に深く感銘を受けたと言う。また、中山は妻とはよくカラオケに行くがultra soulを頑張って歌おうとしてもキーが高くて歌えないという。しかし自分の中で意識を高める時はやっぱり結局ultra soulだと中山は語っている。身体を投げ出すプレイスタイル故に、何度も大きな怪我をし、受けた手術は十数回、全身麻酔での手術も少なくない。その全身麻酔の度にいつまで意識を保てるか「勝負」し、1999年の眼窩底骨折の手術の時は目を見開いたまま意識を失ったという。本業のサッカー選手としてのキャラクターに留まらず多様なメディアに露出している。中山のニックネームにかけて金鳥「タンスにゴン」のCMにも出演した。この金鳥は長らく磐田のスポンサーであり、1998年から2005年まではユニフォームの背中にスポンサーロゴ(KINCHO)を掲出していた。他にも多数のCMに出演し、侍姿で殺陣を披露したり、紳士服モデルを務めたこともある。いかにもスポーツマンらしい情熱的かつ爽やかな印象を買われてか、2004年参院選など公的イメージキャラクターにも多数起用されている。アニメ『ハングリーハート WILD STRIKER』では中山が登場するエピソードで自ら「中山雅史」の声を演じた。その声優としての実力は「プロ顔負け」と高く評価された。シーズンオフには年末年始特番やスポーツ・情報・バラエティ等の番組に度々ゲスト出演もする。現役プロアスリートとしては異例だが、2003年放映の短期集中TVサイエンスバラエティ番組『ジュブナイル』ではメイン司会を務めた。その活動ぶりを「芸能人気取り」と誤解する向きも一部にはあるが、本人は「あくまで自分の本業はプロサッカー選手である」という自覚は常に持っている。漫画『ホイッスル!』の作者樋口大輔が中山の大ファンであり(サイン入りキーパーグローブを所持)、主人公・風祭将の性格、ゴール、エピソードなどには、彼のそれをモチーフとしたものが多く登場する。なお同作に登場する周防将大も中山をモデルにしたキャラクターで、「本人を出すのはおこがましい」との理由で名前や設定は変えてあるものの、1975年「9月23日生まれ」で中山と同じ誕生日である。ジュビロ磐田初代監督の長澤和明は、女優長澤まさみの実父であり、また小学校低学年だったまさみからプロポーズされた中山は承諾するが後に生田と結婚、その後長澤から笑いながら「大人はうそつき」と言われたのを受けて中山は「まさみちゃん!今からでも遅くは無いよ!」とTV(やべっちFC)を通じてメッセージを送った。以前は切れ長の一重瞼の眼をチャームポイントだと自称していたが、2007年初頭頃、特に右目がぱっちりとした二重瞼に変化し、間もなく左目も二重となった。妻の生田は「(本人は)風邪をひいたためだと主張していたがそのまま戻らない」「摩訶不思議」「今度テレビで見たら注意して見てください」とコメント。2008年、入れ替え戦の末J1に残留した後の挨拶で「サポーターの皆さん、J1に残ったどぉ~!」とファンを笑わせたが、その後は今後に向けての抱負を真剣に語った。この年Jで唯一あげたゴールはトラップでバランスを崩しながら流し込んだ(通称「寝たきりゴール」本人曰く「うまい具合に相手がフェイントに引っかかってくれた」らしい)。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算355||157||65||26||32||14||452||19712||0||colspan="2"|-||1||0||13||031||19||3||1||||||34||2034||31||0||0||1||0||35||310||0||colspan="2"|-||0||0||0||0432||207||68||27||34||14||534||248その他の公式戦|2004||rowspan=2|磐田||rowspan=2|9||4||1!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|-!通算書籍DVD

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