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相良長続

相良 長続(さがら ながつぐ)は、相良氏の第11代当主。分家の永留氏の出身。山田城主として多良木兄弟の乱を鎮定し、第10代当主相良堯頼の客死により、宗家を相続した。通称は藤五郎または左近将監。相良氏の第2代当主相良頼親の子頼明八世の孫にあたる永留実重(治部少輔)の子。肥後国球磨郡の山田城(現山江村)の城主。文安5年(1448年)2月、まだ15歳の相良氏第10代当主相良堯頼に対して、上相良氏の多良木頼観(たらぎ よりみ)・多良木頼仙(たらぎ よりのり)兄弟が謀反を起こした際、堯頼は人吉城を追われたが、長続は山田城から兵を率いて駆けつけて頼観を破り、城から追い出した。その後、菱刈氏を頼って薩摩国牛屎院(菱刈郡山野・現伊佐市大口山野)に落ち延びた堯頼を探し出して復帰を願い出たが拒まれ、3月23日、その交渉中に堯頼が亡くなったために、5月13日、群臣に推された長続が宗家を継いで人吉城主となった。なお、堯頼は人吉に復帰した後に亡くなり、その後に長続が家督を継いだとする異説もある。8月、再び兵乱があり、多良木頼観が鍋城、多良木頼仙が古多良木(ふるたらぎ)で挙兵し、久米の砦でもその家臣源島某が兵を挙げた。4日、長続は出陣すると、兵を三つに分けて久米雀ヶ森の堀川に伏兵を置き、まず久米の砦を襲って源島を斬り、煙を見て救援に駆けつけた頼観・頼仙兄弟と手勢を伏兵で破って、両将の首を取った。(雀ヶ森合戦 / 久米雀ケ森の合戦)多良木氏を滅ぼしたことで、相良頼景より数えて8代220年余り分裂してきた上相良氏と下相良氏の争いはついに解消され、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村を支配下にいれ、相良氏は初めて球磨郡内の統一を果たした。宝徳元年(1449年)8月、多良木兄弟の乱に協力した桑原隠岐守が誅殺を恐れて兵を挙げ、矢黒城戸尾の要害に立て籠もった。長続は兵を派してこれを鎮圧し、一族郎党を悉く斬った。(矢黒城戸尾合戦)宝徳3年(1451年)、長続が牛屎院へ自ら在陣しているのを見計らって、漆田・赤池の地頭である斉木但馬守が謀反を企てた。長続は事前にこれを知り、薩摩より帰ると使者を派遣して斉木を詰問させた。しかし斉木は不遜な言動で応じたために激怒し、切腹を命じたが、斉木はこれに応じずに一族郎党200名と共に赤池城に立て籠もった。長続はすぐさまこれを包囲して攻め立てたので、斉木は夜陰にまぎれて城を出ると観念して廣大寺で切腹。逆徒は尽く討たれた。その6年後の長禄元年(1457年)にも、橋本某が井野木田塞に籠って謀反を起こしたが、長続はこれも即座に鎮圧している。長禄2年(1458年)、薩摩・大隅・日向の三州で内乱があり、長続は9代守護島津忠国より依頼されて協力したので、牛屎院を与えられて牛山城(大口城の別称)を獲得した。城主として初め永留長連を、次いで犬童長直を入れた。寛正元年(1460年)10月、長続は世子頼元を連れて、肥後守護菊池為邦のいる隅府を訪れ、葦北・水俣を安堵された。この時、為邦の好意で息子の元服の議が執り行われ、偏諱を受けて為続と改めた。寛正6年(1465年)、八代の名和氏で内乱(下克上)があり、幸松丸(後の名和顕忠)とその老臣内川喜定が長続を頼って人吉に来たので、彼らを川辺村(旧鹿本郡)に保護し、使者を派遣して度々交渉に及んだ末、無事に幸松丸を古麓城へと帰還させた。長じて名和顕忠となる幸松丸は、この恩に報いるために、長続に八代郡高田郷350町を譲った。同年、菊池為邦と間に諍いがあり、葦北・水俣へを攻められんとしたので、牛屎院を島津氏に返還して、牛山城にいた守兵を高田郷平山城に入れて、これに備えた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると管領細川勝元は長続を招聘した。長続はすでに家督を為続に譲っていたが、兵を率いて上洛した。翌年1月に病を得て帰国し、58歳で死去した。永国寺に葬られた。法名を宝山道珍(寶山道珍)。

出典:wikipedia

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