ザ・ガン (The Ghan) は、オーストラリアのアデレードからアリススプリングスを経由しダーウィンを結ぶ長距離旅客列車で、。グレートサザンレールウェイによって運行され、アリススプリングスでの4時間の停車を含めて2,979キロメートルの距離を54時間かけて走る。列車の名称は、以前のニックネーム「ザ・アフガン・エクスプレス (The Afghan Express)」を省略したものであり、非公式な路線名として1923年に乗員の1人から命名された。列車の名称は、19世紀後半に、国内の未探検の内陸部に到達するのを手助けしたオーストラリアへ向かったアフガン人のラクダ御者に因んでいる。2012年3月31日まで有効の時刻表において、アデレード発は日曜日と水曜日、ダーウィン発は月曜日と土曜日の往復週2本である。到着は翌々日。基本的に乗車ごとの打ち切り計算であるが、アデレードでインディアンパシフィックやジ・オーバーランドに乗り換える場合の運賃が別に設定されている。大人・子供・学生・バックパッカー運賃の設定がある。鉄道建設の構想は植民地時代には存在しており、1878年にポートオーガスタで開始された難工事が13年間続いたものの、資金難のため頓挫する。1911年に連邦政府がプロジェクトを引き継ぎ、1929年にアリススプリングスまで線路を延ばすも、さらに北方1,420キロ彼方にあるダーウィンまでの線路を完成させる計画は棚上げとなった。サウスオーストラリア州知事のウィリアム・ジャーヴォイスがポートオーガスタで着手したのと同時に、1878年、その後オーガスタへの政府ゴム鉄道として知られることとなる鉄道の建設が始まった。の線路は、1880年6月にホーカー、1881年7月にベルターナ、1884年1月にマーリー、そして、1891年1月にウードナダッタへ到着した。アリススプリングスへの開発は、1926年まで始まらず、この区間は1929年に完成した。それまで、列車による旅行の最終行程は、依然としてラクダにより行われていた。ダーウィンまでの路線の延長は、初めから計画されていたが、このときまでにアリススプリングスへの接続が完成し、ザ・ガンは赤字となっており、ダーウィンへの延長計画は不定とされた。もともとのザ・ガンは、電線と同じルートで続いており、1862年にジョン・マクドゥオール・スチュアートがオーストラリアを横断する間に、彼が考えたルートである。第二次世界大戦中、列車運行本数が大幅に増加し、限られた水の供給源への負荷が増すことになった。その結果、鉱物分除去タワーが井戸水を使用できるようにするため線路に沿って建設され、現在でもいくつか残っている。1970年代に新しい路線が建設されたときには、水の必要はなく、これによりタークーラからアリススプリングスまでの区間を水のない経路に路線変更できることになった。オリジナルのザ・ガンは、1980年に最後に走行し、現在は、古い狭軌区間や側線の改修を行っているザ・ガン保存協会の手で保存されている。1980年10月まで、南オーストラリア州タークーラからアリススプリングス(トランス・オーストラリア鉄道の側線)にかけての新しい標準軌は開通せず、この日から列車は今日と同じ軌間となっている。新しい線路は、雨によって流されるのを防ぐため、旧線路のおよそ160km西を走っている。新しい線路によって、列車がより時間通りに運行されることが望まれた。現代のザ・ガンは、チャンネル5の最新のエピソード「Extreme Railways」で登場した。アリススプリングス - ダーウィン間の建設は、(1949年-1974年)以来50年で最も大きく、オーストラリアで2番目に大きい土木プロジェクトであると位置づけられた。路線建設は、2001年7月に始まり、126年の計画・停滞の末、13億オーストラリア・ドルの予算をかけ、最初の旅客列車が2004年2月4日にダーウィンに到着した。ザ・ガンのダーウィン到達は、州内のアボリジニコミュニティへのアクセスをより便利、簡単になり、ノーザンテリトリーの観光の新時代を築いた。この列車により、この地域を通っての輸送が可能になり、ダーウィンはアジアとの貿易関係で結ばれる見込みである。車内設備は大きくゴールドカンガルーサービス、レッドカンガルーサービスに分かれる。なおレストランやラウンジもゴールドカンガルーサービス、レッドカンガルーサービス別々に用意されている。上記とは別にチェアーマンズ・カーと呼ばれるプライベート車輌の連結を依頼することもできる。
出典:wikipedia
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