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駿府

駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。律令時代に駿河国の国府が置かれ、駿河国の中心地となる。国府は見つかっていないが、駿府城北側に位置する葵区長谷町付近が有力である。※横田の駅、曲金の古代史跡、安倍の市など室町時代から戦国時代にかけて、今川氏の城下町として栄えた。今川氏は京の都を模して駿府の街造りを行い、現在でも地名や町名等に京都と同じ地名や町名が残る。また、荒廃した京の都を逃れた多数の公家や文化人が駿府に居を移し、「東国の京」或いは「東国の都」と呼ばれ、戦国三大文化の一つ、今川文化が栄えた。しかし、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏は衰退し、武田信玄の駿河攻めによって、駿府は焼討ちに遭い一時荒廃した。今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康が、1585年に駿府を本拠地に定め、城下を整備し、元の繁栄をとり戻した。家康は1590年に関東移封となるが、江戸幕府を開いたのち隠居、再び駿府城に居住して大御所政治が展開された。大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市となった。この時期、名目上の駿府城主(駿府藩主)は家康の十男・頼宣(よりのぶ)であった。家康死去(元和2年、1616年)の3年後、頼信は紀州に移封となり、秀忠三男の忠長(ただなが/駿河大納言)が駿府城主になる。忠長の改易以後は、大名は置かず城代が配属され、幕府の直轄都市として駿府城代・駿府町奉行が置かれた。東海道が整備されると、駿府城下には、江戸から数えて十九番の宿場、府中宿が置かれた。府中宿は東海道五十三次中、最大の都市であった。江戸幕府が滅ぶと、駿府は「静岡」と改名され、徳川宗家が当地に移されて静岡藩が設置され、1871年の廃藩置県まで存続した。1889年の市制施行により、静岡(駿府)城下にあたる安倍郡の1宿74町および有渡郡の50町が合併して静岡市が成立した。

出典:wikipedia

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