成田新幹線(なりたしんかんせん)は、東京都千代田区の東京駅から千葉県成田市の成田国際空港(計画・建設当時は新東京国際空港)まで結ぶ予定だった新幹線である。1976年(昭和51年)度の開業を目指して建設されていたが、沿線自治体の建設反対運動が激しく、用地買収が進まなかったため中止となった未成線である。日本国有鉄道による先行工事は、1974年(昭和49年)に着工された。しかし1970年代後半の日本では、新幹線は左翼・市民団体などによる公害問題の批判対象の一つであった。経由地となる東京都江戸川区や千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)の住民が、都市計画の阻害になる点や、当時問題になりつつあった『名古屋新幹線訴訟』を取り上げ、さらに通過するだけで鉄道駅が無いなど、地元にとってのメリットが皆無という理由で猛反発した。特に江戸川区は、当時の運輸大臣を相手に、工事認可の取り消しを求めた訴訟を行い、最高裁判所まで争った。住民のみならず、東京都知事美濃部亮吉や千葉県知事も問題点の指摘や計画の凍結を主張。また市川市・船橋市・浦安町の各市・町議会では反対の決議も採択された。このため用地買収もほとんど行えず、成田新幹線計画は暗礁に乗り上げた。また、成田新幹線が『新東京国際空港の象徴』として受け取られ、空港建設反対派からの反対も大きかった。完成予定の1976年(昭和51年)は元より、新東京国際空港開港の1978年(昭和53年)にも開業することが不可能であった。新東京国際空港開港から5年後の1983年(昭和58年)、成田新幹線の工事は凍結された。先行工事だけで900億円以上を投じたが、結局、着工できたのは東京駅と千葉県成田市の土屋地区(成田駅から北へ約2km、成田線との交差部)から新東京国際空港までの路盤・トンネルおよび、成田空港駅の設備だけであった。それ以外にも、僅かながら建設用地の買収などが行われた。1986年(昭和61年)、日本国政府は「再開は困難」として、成田新幹線計画を断念した。1987年(昭和62年)には、国鉄分割民営化によって、基本計画が失効した。成田新幹線の計画が遅滞していることにより、東京都心と成田空港が鉄道で直結していない状態が続いていたため、成田アクセス鉄道問題は他の解決方法も模索されており、1982年(昭和57年)、新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会が運輸省(当時)に以下の3案を答申。1984年(昭和59年)、運輸省はB案(北総線延伸)を採択し推進すると決定した。しかし先行したのはC案だった。1987年(昭和62年)、当時の運輸大臣石原慎太郎が「成田新幹線に使用予定だった設備と用地を活用し、京成線とJR線を成田空港に乗り入れさせる上下分離方式案」を指示した。翌1988年に成田空港高速鉄道が設立され、1991年(平成3年)、成田線(空港支線)と京成本線(駒井野分岐点 - 成田空港駅間)の形で現実化した。一方、B案は東京都心と成田空港の高速輸送計画として、京成成田空港線(成田高速鉄道アクセス株式会社)に受け継がれる形になっている。京成成田空港線は2010年(平成22年)7月17日に開業し、同時に160km/hの高速運転が可能な新型「スカイライナー」の運行が開始された。さらに都心直結線(京成押上線押上駅 - 新東京駅(丸の内仲通り地下) - 京急本線泉岳寺駅)が本格的に検討されるようになり、これが実現すれば、東京駅から成田空港までの所要時間は、成田新幹線で検討されていた所要時間と2分差となる。所在地の地名は2009年現在のもの。現在の空港第2ビル駅に相当する駅は成田新幹線では計画されていなかったものの、将来第二ターミナルが完成した際の駅設置を考慮した構造・ルートで建設された。京成電鉄の京成成田駅 - 駒井野信号場 - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、成田新幹線のルートが具体化する前の段階では京成電鉄『新空港線』として計画されていた区間である。当時の計画では、現在の空港第2ビル駅・成田空港駅の位置に、当初から京成電鉄の駅として、第二ターミナル駅・第一ターミナル駅の建設がそれぞれ予定されていた。しかし開港直前のルート変更により成田空港駅も当初予定されていた位置とは離れた場所に建設された(現在の東成田駅)。一旦白紙になったこれら計画駅は、その後、成田新幹線として整備が開始されるも中止になり、その後JR・京成の乗り入れに転用された。千葉ニュータウン駅は当初設置の予定はなかったが、国鉄の「途中駅なしでは採算性に疑問」という主張を受けて、設置されることになっていた。設置予定地は現在の北総鉄道千葉ニュータウン中央駅の位置である。同駅は千葉県営鉄道北千葉線とともに3社の総合駅とする予定であった。東京 - 成田空港間を最速30分、千葉ニュータウン駅停車列車は35分で運転することが予定されていた。なお2016年現在、成田空港駅までは東京駅から成田エクスプレスで53分、日暮里駅からスカイライナーで38分で結んでいる。列車編成は開業当初は荷物車1両を含んだ6両編成で運行し、将来は12両編成まで対応することを検討していた。将来の新宿方面への延伸を考慮し、東海道本線と鍛冶橋通りが交差する地点(東京駅 - 有楽町駅間のほぼ中間)の地下に、成田新幹線用の駅施設が計画された。国鉄により現在京葉線への乗り換え通路として使われている通路の一部が建設されたが、乗り場部分の実際の掘削工事には着手されないまま1983年の工事凍結を迎えた。その後同じ場所に、JR東日本により京葉線の駅施設の建設工事が新たに開始されている。成田新幹線用に検討された用地を活用する形で京葉線が建設された。このためこの区間のルートは現在の京葉線とほぼ同一である。なお、用地を流用しただけであり、京葉線用のトンネルは新規に掘られたものである。総武本線越中島貨物駅の西側で地上に出て東方向へほぼ直進し、荒川を渡ったあたりから原木中山駅付近まで東京メトロ東西線に並行する予定だった。原木中山駅の北側で東西線から少し離れ、現在の千葉県船橋市本郷町付近から中山競馬場の南東側まで長さ1.8kmの地下トンネルを通り、トンネルを抜けた直後に武蔵野線の下をくぐる予定だった。北東方向へほぼ一直線に進み、新京成電鉄新京成線の三咲駅付近を通って現在の北総鉄道北総線の小室駅と千葉ニュータウン中央駅のほぼ中間で北総線に合流する予定だった。千葉県が確保した鉄道用地を使用する予定だった。現在も北総鉄道北総線の北側に並行して成田新幹線用の敷地が空き地のまま残っている。また、千葉ニュータウン中央駅に隣接して成田新幹線の千葉ニュータウン駅(東京駅起点37.7km地点)が設けられる予定だった。千葉県は千葉ニュータウンの造成工事の際、ニュータウンを東西に横断する複々線分の鉄道用地と北千葉道路の用地を確保し、当初の計画では新鎌ヶ谷 - 小室間で北総開発鉄道(現・北総鉄道北総線の第一種鉄道事業区間)と千葉県営鉄道北千葉線(未成線、2002年3月31日免許廃止)を並行して整備し、小室(実際は小室 - 千葉ニュータウン中央間のほぼ中間) - 印旛日本医大間では、成田新幹線と北千葉線(現・北総鉄道北総線の第二種鉄道事業区間)を並行して建設することになっていた。なお、成田新幹線用の空き地は、大規模太陽光発電所(メガソーラー)が整備される予定。現在の京成成田空港線(成田高速鉄道アクセス)と、ほぼ同一のルートを通る計画だった。印旛沼の東側(八代付近)には、車両基地(成田総合車両基地)の設置が予定されていた。1983年(昭和58年)の工事凍結までに、成田市土屋地区から成田空港まで高架、地下トンネルによる路盤が完成した。完成後1983年(昭和53年)に、航空燃料用パイプライン輸送が完成するまでの間、土屋地区に燃料中継基地が置かれ、市原・鹿島からの燃料輸送貨物列車の受け入れを行なっていた。その後暫く放置されていたが、1991年(平成3年)に開業した成田空港高速鉄道線に転用された。
出典:wikipedia
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