神戸市立須磨海浜水族園(こうべしりつすまかいひんすいぞくえん)は、神戸市須磨区の須磨海浜公園内にある水族館。愛称「スマスイ」。1957年5月10日に神戸市立須磨水族館として開園(1968年までは交通局の所管だった)。1987年、旧施設に代わり現在の建物施設が開業、同時に現在の名称になった。現在の施設は後に多く誕生する大型水族館の嚆矢となった。1987年に記録した年間入場者数240万人は、当時の日本記録である(葛西臨海水族園1990年:355万人、海遊館1991年:450万人)。2008年1月10日から2月29日の間、サメやウミガメ等が泳ぐ「波の大水槽」の前にこたつ3卓を設置、暖をとりながら鑑賞するという、ユニークなサービスを行った。長崎大学水産学部のある教授の協力により、当水族館でマングローブキリフィッシュ(脊椎動物で唯一自家受精をする魚)を展示している。また、各地から大学生のインターンシップもよく受け入れている。平成21年度までは財団法人神戸国際観光コンベンション協会が管理運営を行っていたが、指定管理者制度の導入により管理者の公募が行われ、平成22年度から4年間の指定管理者としてウエスコ・名鉄インプレス・アクアート特定業務共同事業体が選定された。園長を公募し、亀崎直樹が選ばれた。平成25年に前述3社と神戸国際観光コンベンション協会が共同で新たな共同事業体を設立し、現在運営を行っている。1895年(明治28年)、京都で第4回内国勧業博覧会が開かれた際、これに協力した神戸市が、博覧会附属の施設として、和田岬の遊園地「和楽園」に「和田岬水族放養場」を開設した。兵庫水族室と水族放養池とで構成される。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が観覧し、文章を書いている。博覧会終了後も、水族放養場は残された。1897年(明治30年)、神戸市兵庫区の和田岬で開かれた第2回大日本水産博覧会会場となる遊園地「和楽園」内に、神戸市は「和田岬水族放養場」を充実させ、会期中に限って水族館が設置された。「水族館の父」と呼ばれる飯島魁東京大学教授によって設計され、建設の際には、神戸の進んだ造船技術が用いられ、海水の水槽にポンプやバルブ、配管などを備えた本格的な循環ろ過設備を備えていた。須磨海浜水族園の鮫島叡園長(当時)によると、「水族館」という名称はこの時から日本で初めて使われたという。また、水族館は外観がインド風の斬新なデザインであったとしている。この「和楽園水族館」が日本初の本格的な水族館、日本初の本格的な濾過装置を備えた水族館とされ、神戸は日本の水族館発祥の地ともされている。博覧会終了後の1902年(明治35年)4月、水族館は湊川神社の境内に移転され、「楠公さんの水族館」と呼ばれる。1910年(明治43年)2月、閉館した。1930年(昭和5年)9月、神戸海港博覧会が開催されるに合わせて、湊川公園の中に神戸市水産会により湊川水族館が建設された。1943年(昭和18年)2月、第二次世界大戦が激しくなり閉鎖し、1945年(昭和20年)3月の神戸大空襲により焼失した。その後、神戸は1957年(昭和32年)に当時東洋一の規模を誇った須磨水族館を誕生させ、須磨海浜水族園として現存している。日本初めての水族館はどこかという論議がしばしば行われる。須磨海浜水族園の鮫島叡園長(当時)や安井幸男学芸展示部長(当時)によると、見世物小屋としてのレベルでは、1882年(明治15年)には上野公園(上野動物園)に「うをのぞき」(観魚室)があったが、淡水魚専用の循環濾過装置がついていない簡単なもので、単に魚を水槽に入れていただけであって、水族館というレベルではないとし、和楽園水族館を日本初の水族館と考えている。「うをのぞき」は15個ほどの水槽を展示したものであったとされる。
出典:wikipedia
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