小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3月14日 - 1946年(昭和21年)2月10日)は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。東京都千代田区外神田出身。本名は小栗 栄次郎(おぐり えいじろう)。漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー(衒学趣味)的作風で著名。代表作は、デビュー作「完全犯罪」、推理小説の三大奇書の一つといわれる『黒死館殺人事件』、秘境探検小説の連作『人外魔境』など。1901年(明治34年)3月14日、東京市神田旅籠町(現東京都千代田区外神田)で生誕。生家は代々の酒問屋の分家であった。父親は1911年(明治44年)に死去しているが、本家からの仕送りや貸家の賃貸収入のため生活には困らなかった。1913年(大正2年)、東京女子高等師範学校附属小学校卒業。1918年(大正7年)、京華中学校を卒業し樋口電気商会に入社。1920年(大正9年)10月、結婚。1922年(大正11年)9月、亡父の財産を元手として四海堂印刷所を設立。閉鎖するまでの4年の間に探偵小説に目覚め、発表のあてのないまま、短編「或る検事の遺書」「源内焼六術和尚」と長編『紅殻駱駝の秘密』『魔童子』を執筆した。「或る検事の遺書」を除く3作は1936年に発表されている。1926年(大正15年)9月、印刷所を閉鎖。以後、作家デビューするまでの6年間は無職で、亡父の収集した骨董類を売って食いつないでいた。1927年(昭和2年)、織田清七名義で、「或る検事の遺書」を春陽堂の発行する雑誌『探偵趣味の会』の機関誌『探偵趣味』の10月号に発表する。1933年(昭和8年)春、「完全犯罪」を執筆し、中学の先輩ではあったが一面識もなかった甲賀三郎に原稿を送り、甲賀の推薦状を得て原稿を『新青年』(博文館)の水谷準編集長に持ち込む。たまたま、『新青年』7月号(6月5日頃発売)に掲載予定だった横溝正史の作品が、横溝の結核悪化のために執筆不能となったため、急遽代理原稿として掲載されることとなり、作家デビューを果たした。1934年(昭和9年)、探偵の法水 麟太郎(のりみず りんたろう)が活躍する大作『黒死館殺人事件』を『新青年』に発表する。1937年(昭和12年)、親交のあった海野十三、木々高太郎とともに、探偵小説専門誌『シュピオ』の創刊に加わる。1941年(昭和16年)11月、陸軍報道班員としてマレーに赴く。このときまで海外旅行はおろか、関東平野から出たことすらなかったという。翌1942年末帰国。1944年(昭和19年)、長野県でキクイモから果糖を製造する事業に取り組む。1945年(昭和20年)5月、長野県に疎開。終戦後、「これからは長編だけにする」と宣言し、「社会主義探偵小説」と銘打った長編小説『悪霊』の執筆に取り組むが、その矢先の1946年(昭和21年)2月10日、疎開先の長野県で脳溢血のため死去。死の数日前まで闇酒を飲んでいたため、死因をメチルアルコール中毒とする説が流布しているが、遺族は「完全なる脳溢血であった」としている。享年45。遺作『悪霊』は探偵小説誌『ロック』(筑波書林)の昭和21年4月号に掲載され、のち、笹沢左保の手によって完結編が書かれた。小栗のデビュー作「完全犯罪」は、本来水谷準編集長の企画として7月号に横溝正史が百枚物の読み切りを書く予定であったものが、5月7日に横溝が大喀血して執筆不可能となり、急遽小栗がピンチヒッターとして掲載されたものだった。横溝は水谷編集長に平謝りだったが、水谷からは「心配することはない、こちらに手ごろな長さの作品があるから」と静養に努めるよう言われたという。この水谷の手持の原稿というのが「完全犯罪」だった。横溝は「世にこれほど強力なピンチヒッターがまたとあろうか。私が健康であったとしても、『完全犯罪』ほど魅力ある傑作を書く自信はなかった」と述べている。太平洋戦争の始まる少しまえ、ある会の帰りに横溝は小栗と二人でおでん屋で酒を飲んだ。そのとき、小栗が「横溝さん、あんたが病気をしたおかげで、私は世の中へ出られたみたいなもんだよ」と言ったという。横溝は「阿房なことをいいなはんな。わしが病気をしてもせんでも、あんたは立派に世の中へ出る人じゃ」と答えた。すると小栗は「それはそうかも知れないが、少くとも二三ヵ月早くチャンスが来たことは確かだからね」と言う。横溝は重ねて「よしよし、それなら、今度お前さんが病気をするようなことがあったら、私がかわって書いてあげる」と答えたという。昭和21年、横溝は岡山に疎開していたが、小栗から「海野十三に住所を聞いたから」と、春先に突然手紙をもらった。小栗はその手紙の中で、「今後の探偵小説は本格でなければならぬ、自分も今後本格一筋でいくつもりである」と、意気軒高だったという。横溝も同じ思いだったので賛同し、2、3度文通を重ねたが、メチル過により、小栗の突然の訃報に接したのは唖然とせざるを得なかったと語っている。戦争中、横溝はほとんど誰とも往復せず、誰とも文通しなかった。それが戦争が終わってからまた旧交をあたため、二三度手紙を往復したかと思うと、突然小栗急逝の電報である。横溝には何が何やらわけがわからなかったが、間もなく海野十三から詳しい報告を聞いて、はじめて死の真相を知った。横溝は痛恨傷心のあげく、二三日何もしないで寝込んでしまったという。小栗が死ぬ前に書き送った手紙で、小栗の探偵小説に対する熱情が、なみなみならぬものであることがうかがわれ、それだけに失望落胆は大きかったという。小栗は突然の死の前に、『ロック』で長編連載を予定していた。このため途方に暮れた山崎徹也編集長は、横溝に代わりの長編連載を頼んできた。当時『宝石』で『本陣殺人事件』を連載していた横溝だったが、「虫太郎のピンチヒッターというところが、いささかおセンチ野郎の私の心を動かし」たそうで、引き受けたのが『蝶々殺人事件』だった。横溝は「虫太郎のことを思えばおセンチにならざるを得ない」と、この作家の早世を儚んでいる。元捜査局長で刑事弁護士の法水麟太郎を探偵役とするシリーズ。長編2編と短編8編が書かれている。鳥獣採集人の折竹孫七を主人公とする秘境探検小説のシリーズ(ただし、第1話「有尾人」と第2話「大暗黒」には折竹は登場しない)。全13編。
出典:wikipedia
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