アミントレ・ファンファーニ(、1908年2月6日 - 1999年11月20日)は、イタリアの政治家、経済学者(経済史及び経済学史)。首相(第9・13・16・17・41・44代)、労働社会政策相、外相、元老院(上院)議長、元老院議員、キリスト教民主主義書記長。イタリア中部の小都市、ピエーヴェ・サント・ステーファノで生まれた。その後ミラノのサクロ・クオーレ・カトリック大学に進学し、卒業後は同大学やローマ大学教授などを歴任した。第二次世界大戦末期の1942年、イタリア大学カトリック教徒連合(Federazione Universitaria Cattolica Italiana)の一員として、旧イタリア人民党のアルチーデ・デ・ガスペリらと共に、戦後のイタリアで大きな勢力を誇った「キリスト教民主主義」(Democrazia Cristiana)の結党に参加。1946年6月に発足した憲法制定議会(Assemblea Costituente della Repubblica Italiana)の議員に選出される。翌1947年5月、第4次デ=ガスペリ内閣の労働・社会保障相として初入閣。1954年1月に初めて首相を務めて以降5回(総辞職後の再組閣があるため法律上は6回)にわたり同国の首相を務めた他、DC書記長(党首)を2度、上院議長を3度、外務大臣を4度務め、国連総会議長にも就いた。1972年には上院の終身議員に任命。また、数回来日している知日派で、高松宮殿下記念世界文化賞の国際顧問主宰を務めた。1980年代もスパドリーニ政権(1982年)、第2次クラクシ政権(1987年)の総辞職を受けてショートリリーフ的に首相に就くなど活躍したものの、タンジェントポリを契機とするDCの衰勢を食い止めることは出来ず、ファンファーニは1994年1月のDC解党を見届けた。1999年11月20日にローマの病院で91歳で死去し、国葬が行われた。冷戦下におけるイタリア国政への貢献は多大であったとの評価もある一方、ライバルと言われていたジュリオ・アンドレオッティと同様にあまりに長く権力の座に留まったことや、そのためもあり現役時代にマフィアなどの犯罪組織との癒着が度々噂されるなど、その評価は大きく分かれる。
出典:wikipedia
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