天ぷら(天麩羅、天婦羅、てんぷら)は、魚介類や野菜等の食材を、鶏卵と溶き汁を小麦粉にあわせたものを衣とし、油で揚げて調理する、代表的な日本料理である。「江戸の三味」の一つであり、江戸料理、江戸(東京)の郷土料理となっているが、この調理法は各地に広がっている。種(タネ)(または職人が使用する符丁としてのネタ)と呼ばれる食材を、小麦粉と卵で作った衣をつけてから、天ぷら鍋などを使用し食用油で揚げる料理である。日本人にとっては馴染み深い料理であり、元々は屋台で食べられた江戸庶民の大衆的な食べ物であった。現在でもスーパーマーケットなど小売店の惣菜や立ち食いそば店の定番種物として親しまれている庶民的な料理である一方、天ぷら専門店においては材料と調理に手間暇をかけた天ぷらを作る(#歴史を参照)。天ぷら専門店や和食店などによる外食も盛んだが、家庭でも天ぷらが作られる事も多く一般的な家庭料理ともなっている。日本の代表的な料理に挙げられる事も多く、日本国外人の評判も高い。当初の種としては、野菜・薩摩芋・レンコン、次いで江戸前の芝エビや魚が使用された。江戸前の魚介類は多く使用され野菜を天ぷら種とした物もどちらも「天ぷら」と呼ぶ事が一般的となっている。一方、野菜の天ぷらは単に揚げ物とも呼んだり、精進料理を元とする野菜の天ぷらは精進揚げ(しょうじんあげ、しょうじあげ)とも呼ぶ。奈良時代 - 平安時代に伝来したものは米の粉などを衣にしたものであり、その後16 - 17世紀には西洋のフリッター(洋風天ぷら)が伝来している。「てんふら」という名称で文献上に初めて登場するのは1669年(寛文9年)の『食道記』である。ただし、「素材に衣をつけて油で揚げる」という料理法は既に精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されていたため、それらの揚げ物料理と天ぷらの混同によって古くから起源・語源に混同が見られる。それらの経緯もあり、今でも西日本では魚のすり身を素上げしたもの(揚げかまぼこのじゃこ天や薩摩揚げなど)を指す地域が広い。歴史的には江戸時代までの料理書においては、これらの両方を「てんぷら」と称していたとされている。『鸚鵡籠中記』の1693年(元禄6年)1月29日の項に酒肴として「てんぷら」についての記述があるが、どのような料理かは不明である。16世紀には、南蛮料理を祖とする「長崎天ぷら」が誕生している。これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展する。そして江戸幕府開府とともに天ぷらは江戸に進出、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる「ゴマ揚げ」として庶民のあいだに浸透していったといわれている。当時の天ぷらはゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも伸ばそうという狙いもあった。天ぷらの作り方を示した文献としては、一般に『歌仙の組糸』(1748年、寛延元年)が初出であるとされるほか、『里白精味集』(1746年、延享3年)ともされる。また、現代の天ぷらの料理法とほぼ同じものが詳細に明記された文献としては1671年(寛文11年)の『料理献立抄』などがある。この天ぷらの形が出来上がった江戸時代前期は、「天ぷら屋」と呼ぶ屋台において、串にさした揚げたての天ぷらを立ち食いする江戸庶民の食べ物である。東京国立博物館蔵の『近代職人尽絵詞屋台の天ぷら屋』には、「江戸の三味」と呼ぶ天ぷらの屋台が描かれており、蕎麦・寿司・てんぷらの他、うなぎ屋などの屋台料理が盛んであった。江戸時代になってから油の生産量が増え、江戸の屋台で始まった天ぷらのメニューは大衆に広がっていった。屋台ではなく天ぷら店として店舗を構えるようになったのは幕末近くであった。明治に入り、料亭や天ぷら専門店が広がると共に大阪にも天ぷらが伝わる事になる。大正時代の関東大震災において職を失った職人が各地に移り各地へ江戸前の天ぷらを広めることとなった。また関西の職人が上京した事から野菜揚げに塩をつけて食べる事も東京に広がった。その後、屋台の天ぷら屋は姿を消して、天ぷら専門の店舗が目立つようになった。また、下町では一種の総菜屋(あるいは、子供・学生向けのおやつや軽食)としての庶民向けの天ぷら屋も存在しており、織田作之助の小説『夫婦善哉』(とその映画化作品)にもこうした天ぷら屋が登場している。食材は下粉を打って(小麦粉をまぶして)から『衣液』にひたし、深い鍋(天ぷら鍋)を使用し多量の熱い油(160-180℃度程度)で揚げる事によって調理を行う。『華を咲かせる』とは揚げあがった時に衣が広がって食感を良くさせる事であり、この技法が使用される事がある。揚がった天ぷらは、天ぷら鍋に取り付けた『天ぷら網』あるいは『天台(天ぷらバット)』などに移して油を切る。中華鍋を代用する場合もある。銀座の高級天ぷら店で40年揚げ続けている職人が「天ぷらは蒸し料理だ」と言うように、天ぷらの調理は熱い油で素材を加熱するのではなく、衣の中に素材を閉じ込めて蒸す状態で加熱するところが、他の料理とは異なる。一般的に、衣液は鶏卵、冷水、小麦粉(薄力粉)で作る。小麦粉は軽く数回サックリと混ぜる程度にして、小麦粉のグルテン生成を抑える。グルテンは天ぷらの揚げ上がりの食感を悪くするからである。グルテンにより衣に粘りが出てしまうことを「足が出る」という。グルテン生成の少ない、製粉後しばらく期間を置いた小麦粉を使うこともある。一般的には水2ないし3に対し卵1の割合で「卵水」をつくり、同量の粉を合わせるが、水10に対し卵1の割合の卵水に同量の粉を合わせた衣を使うと、サクサクとした食感となる。寺院などで精進料理として出される場合や、地域によっては卵を使用しない例もみられる。一方、でん粉や米粉やベーキングパウダー(膨らし粉)などが加えられた「天ぷら粉」が業務用も家庭用も市販されている。天ぷらはかつては高い調理技術が求められ、家庭料理と料理人の作品には明らかに差が見て取れる難しい料理と考えられてきたが、ミックス粉の開発・普及により、素人でも気軽に作れる料理に変わりつつある。紫蘇の葉、山芋、抹茶、道明寺粉、ウニ、あられ、細かく切った春雨・蕎麦・素麺などを用いた変わり衣も用いられることがある(「天ぷら」は他の料理の名称としても使用される。本項目上部の曖昧さ回避部分を参照)。揚げ油は天ぷらの香りを決定付ける重要な要素である。ごま油、または綿実油を使用し独自に配合した揚げ油を使用する天ぷら店もある。ごま油を使用すると衣がこんがりと色が付く「黒天ぷら」、サラダ油などを使用すると衣が白っぽい「白天ぷら」になる。他にも椿油、オリーブオイルや大豆油など様々な植物油を用いられる。屋台料理としての天ぷらは、高温のごま油で揚げた黒天ぷらが主流であったが、お座敷天ぷらは白くさっくりと揚がる太白油(非焙煎のごま油)を用いられ差別化が図られた。江戸時代はごま油が高価であり、これが原因で天ぷらが庶民の口に入り辛く天ぷらは高級な料理であった。この後、安価ななたね油の使用により天ぷらが庶民にまで普及が加速した経緯もある。第2次世界大戦後の沖縄県では、物資不足の時代、食用油の代わりに機械油が用いられたこともあった(モービル天ぷら)。現在では食用油が安価に入手できるためにわざわざ機械油を食用にもちいることはない。また、日本本土でも揚げ油にひまし油が使用された例があり、風味は決して悪くないと主張する利用者も存在したものの、消化不良、体調を崩したり、あるいは下痢に陥った者もあったとされる。植物や鯨油等の動物由来の機械油なら食用の可能性はなくはないが、石油由来の鉱物油の場合人体への重大な悪影響が考えられ、さらにひまし油のように植物起源であっても確実に有害な油もあり、利用に耐え得る食材とは言えない。食用油は空気に触れると酸化し変質する。油は数回の料理の後適度に交換する方が良い。使用後はなるべく空気に触れない状態で冷蔵庫で保存する。「たね七分に腕三分」と言われ、タネの素材とタネへの「仕事」が天ぷらの決め手とされている。野菜、魚介類など、多くの物が素材とされる。江戸前天ぷらでは、新鮮な車えび、穴子、はぜ、きす、白魚、青柳、ぎんぽなどを主にごま油で揚げる。油で揚げている最中にタネの温度が上がり急上昇すると共に水分や空気を遮断する油中にあるため、衣に閉じ込められた空気や水分・水蒸気が衣を破ったり油を跳ねさせる事がある。そのため、尾のついた海老を天ぷらとする際に、尾の先端を切り中に含まれる水分を抜くといった下処理を行うこともある。また仕上りを美しくするために、タネに隠し包丁を入れたり筋切りをする事がある。高温の調理で硬くなるもの(ハマグリ・イカなど)は、薄く切ったり、切れ目を入れたり、あらかじめ軽く湯がくなどの下ごしらえによって、衣も種も適度に揚がるように「仕事」をする事もある。タネの名に「天」を付し「海老天」、「ナス天」等と呼ばれることもある。また、芝海老や小柱などの細かく切り刻んだ、あるいは元から細かい野菜類や魚介類を衣と混ぜ合わせて揚げたものはかき揚げと呼ぶ事もあるが、守貞漫稿に「蕎麦屋の天ぷら」は「芝海老」だったと書かれており、かき揚げも天ぷらと呼び天ぷら屋のメニューである。青海苔を入れた衣を使ったものや、板海苔をタネに巻いたもの、あるいは板海苔に衣を付けて揚げたもの(衣を種の片面だけに付ける事もある)は「磯辺揚げ」(いそべあげ)とも呼ぶ。タネとしてはアナゴ、キス、海老、イカなどの魚介類、茄子、蓮根等が代表的であるが、これらに限定されず種々の魚介類や野菜に加えて、季節の山菜やキノコなど様々な食材を用いる。一部地域では鶏肉を使ったとり天やかしわ天といったバリエーションもある。「てんぷら」の語源には諸説ある。また、漢字の「天麩羅」の由来についても諸説ある。江戸時代においては、串に刺したものを「つゆ」・「大根おろし」をつけて食べていた。単品として食べる場合は天つゆと共に食するのが一般的とされる。そのため天ぷらの専門店などでは揚がった天ぷらは天皿、天つゆは呑水(とんすい)に入れて供される。天つゆは出汁と味醂と醤油と砂糖が基本となるつけ汁で、大根おろし、紅葉おろし、おろし生姜、柚子、山椒等が薬味として用いられる。これは近代に入ってからの食べ方であり、天ぷらが発明された江戸時代には醤油をかけて食べていて、現在でも家庭料理としては醤油をつけて食べる場合もある。また、「ぬれ天ぷら」と称して客に出される以前から甘辛いたれを含ませ、その味で食べさせる例もある。食材によっては柑橘類の絞り汁だけをかけて食べることもある。塩で味付けして食べることも多い。塩は粗塩などの他、抹茶(抹茶塩)、カレー粉(カレー塩)、柚子皮(柚子塩)、山椒を混ぜた物も使用される。天ぷらを白飯にのせ、タレをかけた「天丼」、かけ蕎麦・うどんにのせた「天ぷら蕎麦」「天ぷらうどん」、ざる蕎麦・せいろ蕎麦に添えた「天ざる」・「天せいろ」も一般的な料理であり、多くの蕎麦屋では丼類、麺類それぞれの最高級メニューとして花形を飾っている。関東地方では、天ぷら蕎麦から蕎麦を抜いた「天ぬき」を提供する店も多い。大衆食堂や弁当のメニューとしても多くみられ、ご飯と共に食べる日本においては一般的な食べ物である。寿司屋に似たカウンター形式となっていて、てんぷら種の入ったショーケースなどがあり、職人は客の目の前で調理をし、食感が良い揚げたての天ぷらを客へ提供する。関西では調理場で揚げたものを出す店が多い。お座敷天ぷらとは、職人が座敷で客の目前で天ぷらを揚げる様式の料理である。一般にコースが定められているが、客の注文により好みの食材を揚げる場合もある。お座敷天ぷらにおいて、衣に卵黄を多く使ったものを「金ぷら」、卵白を使ったものを「銀ぷら」と呼ぶ。金ぷらには異説もあり、衣に蕎麦粉を使ったものを「金ぷら」と称していたとする説、揚げ油にカヤ油あるいは椿油を使ったものを「金ぷら」と称していたとする説もある。さらに、蕎麦粉では風味はあれど衣が黒くなり高級感を欠くことから、黄色味を帯びたダッタンソバ粉を使用したとも言われている。金ぷらは文政年間に両国柳橋・深川亭文吉が創始したといわれ、屋台料理であった天ぷらを座敷で食べさせろという注文に応じた高級料理であったが、これを真似て考案された銀ぷらは評判が悪く「天ぷら道の邪道」と呼ばれすぐ姿を消した。一方金ぷらは、評判料理として現在も天ぷら専門店の品書きに名を残しており、卵黄・蕎麦粉・椿油と複数の条件を満たした調理例も見受けられる。徳川家康の死因は胃癌とされるが、茶屋四郎次郎が勧めた鯛の天ぷらを食べ、その後に体調を崩し死んだと言う俗説も知られている。後者は医学的に不自然である上、『徳川実紀』には「鯛を油で揚げニラをかけた料理を食べて体調を崩した」との記録があるだけで「天ぷら」という語は使われていない。いずれにせよ、当時はごま油自体が高価であり、天ぷらは珍しい料理であった。それゆえに健康に気を使い、美食を嫌い節制を心掛けた家康もいつになく過食してしまったものと思われる。また油物料理は下賎の食べ物で上級武士には食べ慣れないものであり、体調を崩すまでは不思議はないと見られている。なお、江戸時代に江戸城内において天ぷらを揚げることが禁止されたのは上記の事件に基づくとの見方もあるが、実際は天ぷらによる火災の予防が理由とされている。このように将軍家と縁遠かった天ぷらであったが、時代を経て15代将軍徳川慶喜も天ぷらを受け入れて珍重するようになり、直径5寸のかき揚げを専用の皿に載せて、ひいきにする城下の天ぷら屋より運ばせたという逸話が残っている。地方によっては、本項とは異なる食品の事を「天ぷら」と呼ぶ場合もある。
出典:wikipedia
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