古田 足日(ふるた たるひ、男性、1927年11月29日 - 2014年6月8日)は、日本の児童文学作家・評論家。本名同じ。父は国文学者の古田拡、東京大学教授を務めた国文学者・古田東朔は兄。愛媛県川之江町(現:四国中央市)にて、八人兄弟の三男として生まれる、兄弟は第二子が姉である以外、全員男。足日の命名は父で、「出雲国造神賀詞」より。父の教えは「思った事は堂々と言え」で、毎月大量の書籍を購入しており、子どもたちのために「日本児童文庫」「小学生全集」「世界童話大系」を全巻そろえた。1931年には与謝野晶子夫妻が村を訪問。家に与謝野夫妻の色紙や短冊があったという。『赤い鳥』も購読したが、興味は薄かった。翌年には『サクラ読本』の見本誌を読み、編者の芦田恵之助に感想をのべると、芦田は後日この感想を著書に記している、1935年、小学生時代にカレル・チャペックや吉野源三郎の作品を読み、グリム童話やアンデルセン童話と異なる内容に衝撃を受ける。1937年にはもう眼鏡をかけた。愛媛県立三島中学校に入学。同級生に喜井利明がいた。物心ついた頃はすでに軍事色が強く、軍国主義少年であることを違和感を覚えずに育ったが、中学の体育や軍事教練は嫌悪感を覚え、欠席していた。この頃より父との衝突が増える。1941年夏には西条中学校に転校。兄が進んだ第一高等学校を1943年に京都で受験するが不合格。勤労動員により住友金属鉱山下部鉄道で働く。翌年松山高等学校も受験するがこれも不合格。1945年6月、大阪外事専門学校ロシア語科に進む。同級生に西村芳重、先輩に二宮欣也、アラビア語科に足立光夫がいた。敗戦確実の中、当初は枚方市の火薬工場で働いていたが、火薬の材料がないため、製塩命令が出て浜寺に移動した翌日、玉音放送で終戦を知る。自分でも戦争を続けるか切腹かで迷うなど、まだしばらく軍国主義だった。故郷愛媛で安い米を買い、大阪で高く売るかつぎ屋をつとめたが、人生でもっとも嫌な時期だったと語り、回願も少ない。1948年9月に外専を中退した後、1949年に早稲田大学文学部ロシア文学科2年次に編入。同級生に内田莉莎子がいた。生活費がないことから通学せずにすぐ休学した。同年4月には郷の近くで代用教員として国語と歴史を教えるが、この仕事を紹介した父の授業の印象が強く、古田は薄かったという。1年教えた所で結核により休職、退職。このころ兄の友人が講談社の編集をしており、創作民話『ちきりが淵』を持ち込むと『少女クラブ』8月号に載り、人生で初めて原稿料をもらう。早大には1951年から通い始め、当初は大学公認サークルである現代文学研究会(生島治郎、富島健夫などを輩出)に入会する。だが部室が早大童話会と斜め向かいの位置関係にあり、童話会にも出入りするようになると、これまで大人向けの文学作品しか考えていなかったはずが、1年たつと童話会のほうに魅力を感じていった(同じ例に砂田弘がいる)。童話会で神宮輝夫、鳥越信、山中恒らと知り合う(古田を加えたこの4人は交流が深く、以後「前述の4人」と記す)。童話会機関誌『童苑』にも作品が掲載される。在学中に『童苑』を1953年6月4日発行の19号分から『少年文学』と改題。マニフェスト「少年文学の旗の下に!」の起草に参画。これは“少年文学宣言”と呼ばれ、当時の児童文学界に大きな議論を巻き起こした。これには前述の鳥越のほか、鈴木実も参加、以後鈴木とも交流を深める。その後「小さな仲間」に同人入りする砂田弘とも交流を深める。同年9月に早大を中退。11月に結婚した妻による、中学・高校の非常勤講師の収入にたよりながら、宣言の内実を深めるために児童文学評論を書き始める。翌1954年6月には前述の4人で団体「小さい仲間」を発足。なお童話会時代の輩出者で2009年以後も存命だったのは、この前述の4人だけである(鳥越は2013年に死去)。「子どもの本・九条の会」代表団員を務めた。2014年6月8日、心不全のため死去。86歳没。死去の約3ヶ月前、44年前に出版した「大きい1年生と小さな2年生」が文化庁委託の若手アニメーター育成プロジェクト「アニメミライ」内の作品としてアニメ化された。1993年11月25日に童心社より発行。作品名の後の情報は初出でなく、当書に記された底本情報から。続く名前は順に解説・挿絵画家・作品エッセイ・作品エッセイ二人目。また日常生活を舞台とした作品では、東久留米市のどの場所がモデルになったかの解説も掲載されている。
出典:wikipedia
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