霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺院。竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)と号する。釈迦如来を本尊とする。とくしま88景に選定されている。四国八十八箇所霊場の第一番札所である。本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばくご詠歌:霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創されたという。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。本尊の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像である。室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失った。本堂と多宝塔以外は近年の再建である。寺伝その他の言い伝えでは空海が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も渡唐前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人が大坂で四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)を出版した真念であり、この真念がはじめて八十八箇所に札所番号を定めた。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが一般的であったので、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第一番札所と定めたと推測される。本坊側駐車場にある発心の門をくぐると山門前に出て、山門を入るとすぐ左に手水鉢がありその後に鐘楼がある。先に進むと左手に多宝塔、その向かいの池の先に大師堂がある。多宝塔の並びには十三佛、不動明王が祀られ、正面の最も奥に本堂がある。ほか、毎月1日には護摩供養が行われる。
出典:wikipedia
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