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ソウル特別市

ソウル特別市(ソウルとくべつし、、漢字: )、通称ソウルは、大韓民国の首都。旧「京城」、「漢城」である。元は京畿道に属したが、1946年に分離し「特別市」となる。韓国にはソウル特別市のほか、世宗特別自治市、並びに6つの広域市が存在し、日本の政令指定都市に相当するといえるが、特別市・特別自治市・広域市とも行政道には所属せず、道と同等の自治体として運営されている。ソウルとは朝鮮語の固有語で「みやこ」の意味。朝鮮王朝500年の王都で、四神相応の思想によって建てられた。なお「ソウル」は、漢字表記(漢城・漢陽・京城・京都など)の変遷に関わらず、朝鮮民族はこの地を「ソウル」と呼んできたとも言われている。李朝時代までは朝鮮語で京都などと書いてソウルと読んでいたが、現代の朝鮮語では漢字の訓読が廃止されているためハングルのみで表記する(後述の「ソウルの中国語表記」も参照)。ソウルの人口は韓国の経済発展に伴って急増を続け、1975年の680万人から1990年には1061万人にまで到達した。しかし翌年の1092万人をピークにその後は減少傾向が続いている。これはドーナツ化現象が進んだためと見られ、日本の東京が高度経済成長に伴って急速に拡大し、その後都心部の人口が減少していったことと状況が極めて良く似ていた。しかし地価の高騰や少子化・高齢化、雇用の悪化から、近隣の仁川市や京畿道を含めたソウル都市圏そのものも既に人口減少に転じている。それでもなおソウル都市圏には韓国全国民のおよそ半分が在住し、日本同様に一極集中的な傾向が強い。2016年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて世界11位、アジア5位の都市と評価された。「漢陽(ハニャン)」は新羅の時代から使われた名称で、「陽」が川の北側を意味することがあって、「漢水(漢江)の北側の土地」の意味でつけられた地名だったが、高麗初期に「楊州」と改められた。高麗文宗代に「南京」となり留守が置かれる。忠烈王代の1308年に「漢陽(府)」の名称に復帰するが、李氏朝鮮建国後の1395年「漢城(ハンソン)」に改称された。李朝の王都になったため、京都の意味を持っている「ソウル」と呼ばれた。ゆえに漢陽などは訓の当て字になってそれらをソウルと読んでいたが、現代朝鮮語では漢字の音読以外はほとんどハングルだけで表記することになって、中国、台湾などの中国語圏では、「ソウル」に相当する漢字表記がなかったこともあり、長らくソウルのことを(旧名で)漢城と呼び、仁川国際空港近辺などの韓国の道路交通標識にもハングルと併記で「漢城」と表記されていた。新表記の「首爾(ショウアル)」(後述)が制定されたことに伴い、徐々に状況は変化している。「京城」(日本語読みで「けいじょう」 〈字音仮名遣では「けいじやう」〉、朝鮮語読みで「キョンソン」)は、日本統治時代(1910年 - 1945年)に使われた名称である。韓国併合前から使われたソウルを指す名称の一つ(併合以前の韓国側史料の中にも数多く見受けられる)。1910年(明治43年)10月1日に公布・施行された朝鮮総督府令第7号(地方官官制第十七条ニ依リ府及郡ノ名称及管轄区域左ノ通定ム)に基づいてそれまでの「漢城府」から「京城府」となった(「府」は日本内地〈本土〉でいうところの「市」に相当)。実際には1945年以降も数年間使われており、また現在においても京釜線の「京」等にその名残がみられる。現在、中国語圏ではソウルを「首爾 / 首尓(' / ')」(、広東語:Sau2yi5)と呼称・表記している。中国語圏で「ソウル」は、長らく李氏朝鮮時代の「漢城( /  )」の名で呼ばれていたが、2005年1月19日、李明博ソウル特別市長は、記者会見で「ソウル」の中国語表記を「首爾 / 首尓( / )」とすることを発表した。 これを受けて台湾と香港の報道機関は、表記を「」に改めた。中国でも、2005年中頃から中国青年報などの報道機関や中国南方航空などの航空会社で「」から「」へと表記を改め始め、10月には中国政府も「」表記への変更を行った。なお、まれに朝鮮語の漢字と組み合わせて使われる例もあるが(例:KORAILの案内における「首尔驛」など)、あくまでも中国語圏用の表記であり、朝鮮語としての表記ではない。朝鮮語としてのソウル表記はこれまでどおりハングルのみの「」である。古くは百済の都・漢城が置かれており、隣接する河南市にある遺跡からは多くの遺物が出土している。西暦475年高句麗軍によって陥落すると、百済は熊津(公州)に遷都し、統一新羅時代には漢山州と呼ばれ、757年には漢州の漢陽郡に改められた(中原京が小京として漢州の下に設けられた)。高麗時代には市域の北部は楊州、南部は広州と呼ばれ、1067年には三小京のひとつである南京が置かれた。1392年高麗の将軍・李成桂が威化島回軍によって政権を奪取し、1394年には開京(現:開城)から漢陽遷都を決行した。翌1395年に漢陽府は漢城府に改称され、これ以後、漢城(ソウル)は500年に渡って李氏朝鮮の都となる。李朝末期の時点では市内が5部49坊に細分化されていた。1905年、統監府が設置される。1910年日韓併合後、漢城府は京城府に改められ(この場合の府は内地(日本本土)では市に相当する)、日本の朝鮮統治機関である朝鮮総督府が置かれた。その後都市化の進行に伴い、1936年には周辺地域を併合して府域を4倍に拡大し、1943年には人口急増のため区制が導入されている(7区=龍山区・東大門区・城東区・西大門区・永登浦区・鍾路区・中区。なお、翌1944年に周辺を併合し麻浦区誕生)。朝鮮総督府の支配下で現在の景福宮・光化門・ソウル市庁舎近辺は政治・行政の中心、現在の明洞近辺は経済・商業の中心、龍山は軍事の中心(現在の在韓米軍基地が旧日本軍駐屯地)となった。また京畿道の道庁所在地でもあった(現在京畿道庁は水原市に移転している)。1931年には朝鮮排華事件で華僑との衝突事件が起きた。1945年8月15日の「光復」後しばらくの間は、「ソウル」・「漢城」とともに「京城」の名称も使われていた。1945年9月から発行された在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁公報の場合、英語版では一貫して「Seoul」だけが使用されているが、日本語版には「京城」と「ソウウル」が混在、朝鮮語版でも「京城」と「서울」が混在する(「ソウウル」・「」の初出は10月8日)。その後、米軍政下の1946年8月15日に「ソウル市憲章」が発表され、その第1章第1条で「京城府をソウル市と称し、特別自由市とする。」と正式に規定された。しかし、この憲章には法的効力がなかったため、同年9月18日に米軍政庁が公布され、その第2条で「ソウル市を朝鮮の首都としての特別市とする。ソウル市は道と同等の職能と権限を有する。」とされ、同法令第5条の規定により9月28日に京畿道の管轄から離れて「ソウル特別市」が設置された。大韓民国が独立した1948年には、「ソウル特別市」は韓国の首都となった。1950年6月に勃発した朝鮮戦争で市内は破壊され、韓国の首都は釜山臨時首都に移転した。朝鮮戦争は戦況が一進一退を繰り返したことから、このときのソウルは4回も陥落している。停戦実現後1953年8月1日にソウルへ還都している。その後、韓国の高度経済成長とともに発展を続けて市域を拡大、1988年のソウル・オリンピック(韓国では88=パルパル=オリンピックということも)で名実共に国際都市となった。市庁の庁舎は日本統治時代からの古い建物を使っていたが、隣接して新しい庁舎の建設工事を行っており、2009年に完成する予定になっている。新庁舎完成後は、従来の庁舎を2011年までに公共図書館として活用する案が推進中である。市内の昌徳宮や宗廟、朝鮮王陵は世界遺産に登録されている。最高峰北漢山をはじめとした500m前後の標高の山々や丘陵が囲む盆地構造。外敵からの攻撃を妨げやすい地形であることもこの地が古くから発展した理由の一つである。広州山脈の道峰山、仁寿峰、露積峰の3峰が北漢山に次ぐ標高である。漢江が市の中心を横切るように流れ、南北に隔てられた地域をそれぞれ江南、江北と呼ぶ。古くから発達したのは江北であり、宮殿や城壁などの史跡は江北に集中している。一方江南は新興住宅街として開発され、またオリンピック関連施設も江南に多く建設された。古くは舟が南北を繋ぐ交通手段であり、トゥクソムと麻浦が代表的な河港であった。他に鷺梁、松坡なども船着場として知られ名残を残している。近代以降は各所に橋梁が架けられ、交通手段としての船は廃れたが、遊覧船が市民や観光客に親しまれる。中州、汝矣島には国会などの重要施設や広大な公園がある。古くは蘭芝島や蚕室なども中州であったが、埋め立てや河の流れの変化により完全に陸続きとなっている。漢江以外では江北を流れる清渓川(チョンゲチョン)が知られる。日本統治時代から流域周辺には人々が集中し始め清渓川を含め流域の井戸水など水質悪化が問題となっていたのは当時の朝鮮総督府の水質試験所のデータからも明らかで、その当時から暗渠化の計画はあった。朝鮮戦争後の混乱期にバラックが川沿いに建設されてスラム化が進行し、著しく水質が悪化したため暗渠とされ、その上には清渓川路と清渓高架道路が建設された。高架道路の老朽化が問題となった2002年に、「高架撤去、清渓川再現」を掲げた李明博がソウル市長に当選、2005年10月に完工し、景観もさることながら、川を復元するという珍しい工事に加え、気温に良い影響を及ぼすなど世界的に注目されている(特に日本では日本橋の上を通る高速道路の景観と対比されることがある - 清渓高架道路、日本橋 (東京都中央区)参照)。但し、以前の姿を復元する訳ではなく、光化門交差点付近から漢江までの一部を近代的な親水公園のようにしたものである。水は主に漢江からの水を放流しており、一部は地下から湧き出る水も利用している。ケッペンの気候区分によれば、ソウルの気候は亜寒帯冬季少雨気候(Dwa)で降水量が少なく、大陸の影響から大陸性気候を、三方を山に囲まれた盆地状に位置していることから、内陸性気候の特色を持つ。1月の平均気温平年値の上昇から一部の気象学者は、温帯夏雨気候に変更すべきだ、と主張しており、大韓民国気象庁も2009年から同様の主張をしている。しかし、利川市などのソウル近郊は最寒月平均気温が-3.0度未満という亜寒帯としての条件を満たしている地点もあるので見解は分かれる。春と秋は短く、3月にもなると、急速に気温は上昇し一気に春めき、黄砂が降り、4月上旬に桜が開花し中旬ごろに満開となる。秋の訪れは早く、11月にもなると紅葉が始まり、朝晩は氷点下になる日も出てくる。夏は最も暑い8月の平均気温が25.7℃、最高気温は29.6℃と30度を超える高温となるが、湿度は比較的低く、朝晩は気温が下がるので比較的すごしやすい。夏の7月と8月に降水量は集中し、年間降水量の半分以上がこの2か月間に降り、梅雨というよりはむしろ、雨季と言われる。夏から秋にかけては台風が通過することもある。冬は、緯度のわりに寒さが厳しく、1月の平均気温は-2.4度、平均最低気温は-5.9度、平均最高気温は1.5度と北東北から道南の気温に匹敵するが、乾燥していて雪が積もることはあまりない。積もっても10㎝未満であり、たいていはうっすらと白く雪化粧する程度で20㎝を超える大雪となることは非常に稀である。しかし、気温が低いために一度積もった雪は溶けにくく、本来雪が少ない地域であるために除雪をする習慣があまりないことから道端には長期間雪が残りやすい。過去最深積雪も1922年3月24日に観測された31㎝であり東京の46㎝と比べてもはるかに少ない。近年で最も積雪が多くなったのが2010年1月4日の28.5cmで41年ぶりの大雪となり歴代4位を記録した。冬季は晴れる日が多いことと盆地状の地形から放射冷却により気温はしばしば氷点下10度を下回る寒さとなり、最高気温が0度を下回る真冬日も多い。年間で最も寒いのは12月下旬から1月いっぱいにかけてで、特に非常に強いシベリア寒気団に覆われると、ソウル郊外を中心に、零下15度以下まで下がることもあり、日中も氷点下5度以下までにしかならない日もある。しかし、三寒四温のため、冬は寒暖の変動差が非常に大きく、真冬でも大幅に気温が上昇することもある。また、年によっても寒暖の差は非常に大きい。本格的な寒さは1月下旬までで2月中旬にもなると急に暖かくなり、2月の平均気温は0.4度と1月よりも大幅に上昇し平均気温は12月と変わらない。ソウルは温暖化の影響が顕著に表れており、日本占領時代には漢江が凍結して氷上を人が往来できたが、最近では真冬でも凍結しない。また気温の推移も変化しており、1961年-1990年までの観測では、2月が12月よりも1℃程気温が低かったが近年では12月の方が寒い年が多い。8月が最暖月という点では日本と類似しているが、1月と2月の気温がほとんど変わらない日本とは対照的に寒さの底が1月に集中している。ソウルの気象観測は鍾路区の慶煕宮公園付近で行われており、緑豊かな場所に立地している。最高気温極値は38.4℃(1994年7月24日)、最低気温極値は-23.1℃(1927年12月31日)である。1960年以降の記録では最低気温極値は-20.2℃(1970年1月5日)となっており、1960年以降のマイナス20度以下の観測はこの日だけである。漢江の岸辺にある龍山区二村洞(イチョンドン)はソウル在住日本人、特に駐在員が数多く住む地域であり、「ソウルのリトル東京」とも呼ばれる。通常この地域は東部二村洞(トンブイチョンドン)と呼ぶ。韓国鉄道・地下鉄4号線二村駅が最寄駅。北には在韓アメリカ軍の龍山(ヨンサン)基地が広がり、ソウル中心部とは比較的孤立した地域で静かな高級団地が数多くある。もともとアメリカ軍基地が近かったことから二村洞付近には外国人居住者が多かったが、日本人の居住は日韓国交正常化以降、特に1970年代に入り企業駐在員や日本大使館員などが住み始めた。但し、もともと日本統治時代から日本人が多く居住していたのはこの地域である。上記アメリカ軍基地も元々は旧日本陸軍の朝鮮軍司令部をそのまま転用したものであり、この地域には日本統治時代の日本風建物が今なお多く存在している。外国人が居住することから不動産価格が高騰し、敷金が殆どない場合では同地域の団地の入居には最も安くても月家賃が200万ウォンをくだらない。日本の食材を売る日本人向けの各種商店はもちろん、居酒屋、銀行には日本人専用窓口があり、幼稚園には日本人クラスまである。(ただし日本人専用窓口は二村洞が初めてではなく、最も早くできたのは旧ソウル銀行(後にハナ銀行に合併)鍾路5街支店である。二村洞にあるものはこれを真似た。)最近では、ソウル日本人学校のある開浦洞周辺などの江南地区や政府中央庁舎付近の再開発地区など、日本人が居住する地域も分散化しつつある。麻浦区上岩洞のデジタルメディアシティ (DMC) に所在するソウル日本人学校(公式ページ )は1972年に設立され、幼稚部、小学部、中学部の生徒403人(2004年)が在学する。運営はソウルの日本人会組織であるソウルジャパンクラブ(SJC)が行っている。清凉里 588(チョンニャンニ オパルパル)、龍山(ヨンサン)、ミアリテキサス、千戸洞(チョノドン)、永登浦(ヨンドゥンポ)読み、各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照のこと読み、各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照のことソウル市は1958年の第4代国会議員選挙以降、韓民党の流れを受け継ぐ保守野党勢力がいくつかの総選挙を除き、与党に対し常に優位に立っていた。2002年と2006年の地方選挙では慶尚道に強い地盤を持つ保守政党のハンナラ党の候補(李明博)が市長に当選、市議会でも多数を占め、2008年4月の第18代国会議員選挙でも、ハンナラ党が48選挙区中40選挙区で勝利した。しかし2010年6月の地方選挙では全羅道を絶対的支持基盤とする中道改革政党の流れを汲む民主党(現・共に民主党)が市議会の過半数を制し、2011年10月の市長補欠選挙では野党統一の無所属候補が当選。2012年と2016年の総選挙でも中道改革政党が多数派を占めた。1961年の軍事クーデター以後、市長は政府による任命制となっていたが、1995年に地方自治体首長の公選が復活し、1998年以降は4年ごとに選挙が行われている。現在は2011年10月の補欠選挙で当選した朴元淳が市長となっている。106議席(地域区96議席+比例代表10議席)地域区は小選挙区制。韓国における地方議会選挙自体は、朝鮮戦争最中の1952年5月10日に初めて行われたが(詳細)、ソウル特別市では選挙が実施できず、休戦後の1956年8月10日に初めて市議会議員選挙が行われた。しかし、2回目の選挙(1960年12月)が行われた翌年の1961年5月に発生した軍事クーデター(5・16軍事クーデター)で発足した軍事政権(国家再建最高会議)の布告4号により、地方自治が停止され市議会は解散させられた。その後、1987年に民主化が実現したことで地方自治が復活、1991年6月に行われた市議会議員選挙後の同年7月、30年ぶりにソウル市議会が復活した。以後、4年毎に選挙が行われている(ただし1995年選挙は特例で議員任期3年)。なお市議会庁舎は、1975年まで国会議事堂として使用されていた旧京城府民館(1935年竣工)の建物を使用している。サムスン、LG、ヒュンダイと、韓国企業の本拠地としてソウルは成長を遂げてきた。韓国外換銀行はソウルに所在する。ソウルの面積は韓国全土の面積に対して0.6%でありながら、全人口の25%が集中する極端な一極集中のもと、国全体の国民総生産の21%を生み出している。2008年に米国のマスターカード・ワールドワイドが発表した世界ビジネス都市ランキングでは、ソウルは世界第9位の都市との評価を得ている。フォーチュン・グローバル500においては、世界レベルの大企業の本社数が世界で6番目に集積している都市と評価されている。。また、2013年のアメリカのダウ・ジョーンズらの調査によると、世界23位の金融センターと評価されている。行政機関では統一部等が所在している。大法院や大検察庁、ソウル中央地方法院等の法務機関は瑞草区に所在している。ソウルは地理的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との軍事境界線(38度線)まで約50kmの位置にあり、市内を横切る漢江の上流(北漢江)も北朝鮮統治区域に源を発している。このため全斗煥政権は、北朝鮮が漢江上流に建設した任南ダムは「満水にしてから一気に放水して、ソウルの水攻めを狙ったものではないか」と分析し、その下流に平和のダムを建設した。しかし、このダムだけでは水害に耐えられないため、新しいダム建設計画がある。但しこの措置は、韓国国民の恐怖感を煽り、大統領による独裁統治の正当化を図る「方便であった」のではないか、との指摘もある。また、軍事境界線に近いため、北朝鮮のスカッドミサイルや長距離多連装ロケット砲の射程範囲内にあるなど、首都防衛上の弱点が指摘されている。そのため、北朝鮮は度々「ソウルを火の海にする」と脅し文句をかけてくる。なお、北朝鮮は憲法で1972年まで、ソウルを形式上の首都と定めていた。2004年7月5日には忠清南道の燕岐郡と公州市に跨る地域に行政首都を移転することが内定したが、同年10月21日に憲法裁判所でこの決定を慣習憲法の違反とする判決が出たため、憲法改正がなされない限り完全な首都移転は行われないことになっている。現在は首都移転ではなく、行政部門の一部を移転させる方向で工事が進められている。2010年12月には、国会において世宗特別自治市設置等に関する特別法案が可決された。同法では2012年7月に世宗特別自治市が発足することを定めており、国務総理室、中央行政機関の9部2処2庁等が移転する予定である。2010年10月現在、ソウル特別市は23の姉妹都市を有している。

出典:wikipedia

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