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伊勢湾台風

伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、国際名:ヴェラ〔Vera〕)は、1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風である。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。人的被害は、紀伊半島の和歌山県、奈良県、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、日本アルプス寄りの岐阜県を中心に犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)・負傷者38,921人(「消防白書」平成20年度版より)にのぼり、さらにほぼ全国に及んだ経済的被害は破格の規模となり、明治維新以来最大の被害を出した台風である。犠牲者を3,000人以上出した台風として、室戸台風、枕崎台風とあわせて昭和の三大台風に挙げられ、その中でも最悪の被害をもたらした。伊勢湾台風での犠牲者の数は、1995年1月17日に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生するまで、第二次世界大戦後の自然災害で最多のものであった。ほぼ全国に及んだ経済的被害は人的被害以上の規模となり、GDP比被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵し、東日本大震災との比較対象に達するものであった。人的被害、経済的被害の規模の大きさから、明治維新以後で最大級の自然災害の一つである。災害対策について定めた災害対策基本法は、この伊勢湾台風を教訓として成立したものである。また、2013年に運用を開始した特別警報も、台風については伊勢湾台風クラスを基準としている。1959年(昭和34年)9月20日にエニウェトク島付近で 1,008 mb(当時の単位「ミリバール」。hPa に同じ)の弱い熱帯低気圧(当時の用語)が発生、西に進み、21日にはサイパン島の東を北上しながら次第に発達し、21日21時には 1002 mb の台風第15号となって、再び西寄りに進路を変えて急激に発達した。9月22日9時には 996 mb であったものが同日15時には 970 mb 、翌23日9時には 905 mb となり、22日9時からの24時間で 91 mb も気圧が降下した。発達はさらに続き、23日15時にはアメリカ軍の気象観測飛行機により 894 mb が観測された。中心付近の最大風速は 75 m/s(アメリカ軍の観測では 90 m/s)、風速 25 m/s 以上の暴風雨圏(暴風域に同じ)は半径 300 km であった。台風第15号はその後も余り衰えることなく、9月25日昼頃まで 900 mb 前後の猛烈な勢力を保ち、進路を北西から次第に北に転じて26日9時には潮岬の南南西 400 km に達したが、その時でもなお中心気圧 920 mb 、最大風速 60 m/s 、暴風雨圏は東側 400 km 、西側 300 km という、猛烈で超大型の台風であった。台風は26日18時過ぎ、930 mb の勢力を持って潮岬の西 15 km 付近に上陸した。26日朝までの進行速度は毎時 30 km 以下であったが次第に加速して、上陸後は 60 - 70 km で紀伊半島を縦断し、中央高地を経て27日0時過ぎに日本海に抜けた頃には 90 km にも達している。27日9時前後に秋田沖に進んだ中心は次第に消滅し、青森県の日本海上に新たな中心が生じて東北東進する「ジャンプ現象」を起こした。台風は同日21時に北海道の東で温帯低気圧に変わり、東太平洋にまで達して10月2日に消滅した。伊勢湾岸の高潮による大災害から、9月30日、気象庁により伊勢湾台風と命名された。アメリカ海軍のレポートによれば、中心付近の最大風速は165ノット(約 84.9 m/s)を記録している。1964年(昭和39年)に、それまで用いていた気圧計が実際より 0.25 mb 高い誤差であることがわかり、1970年代には過去のデータの修正が行なわれたため、当初、929.5 mb とされた伊勢湾台風の記録は現行の通り改められたほか、室戸台風の最低気圧 911.9 mb も 911.6 mb に変更されるなど、古い資料を利用するに当たっては注意が必要である。台風第15号は早くから超大型の台風として日本本土をうかがっていたので、気象官署の対応も早期に実施された。名古屋地方気象台は9月25日に海上強風警報を発令、同日に行われた予報検討会では以下の事項を決定した。気象庁においても、25日午後に建設省・運輸省(いずれも当時の名称)・消防庁・報道関係などに対する説明会を持った。こうした経緯に沿って、愛知県では26日11時15分に、三重県でも11時30分に暴風雨・波浪・高潮の各警報が発令され、厳戒態勢に入ったが、それでも、気象観測始まって以来の大災害が引き起こされた。全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)、うち愛知県で3,351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1,211人と、伊勢湾岸の2県に集中。負傷者38,921人。全壊家屋36,135棟・半壊家屋113,052棟、流失家屋4,703棟、床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻。被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。南寄りの暴風で、海水が熊野灘・伊勢湾・三河湾の最奥部に吹き寄せられ、和歌山県南部から愛知県までの広い範囲で高潮による浸水が発生し、名古屋市南区付近は、1ヶ月以上も水が引かなかった地域があった。名古屋市南部(南区、港区)、及び、隣接する海部郡南部(蟹江町、飛島村、弥富町(現弥富市)、十四山村(同市)など)、知多郡北部(大高町(現名古屋市緑区)、上野町(現東海市)など)は江戸時代に遠浅の海を干拓してできた新田で、海面下2-3mの土地もあったため、高潮により、一旦、海岸堤防が破壊するとひとたまりもなく水没した。これら低地の復旧のためには、まず、堤防を完全に作り直した上でポンプにより海水を排水しなければならなかったため、水没地域が完全になくなったのは被災から半年経った翌年3月下旬であった。その間、多くの世帯の汲み取り式便所の汚水があふれ出たままとなり、また、孤立した人々の排泄物も停滞するなど、公衆衛生が著しく悪化した。同年10月6日には早くも次の台風16号が東海地方等を通過し、岐阜県養老郡養老町で豪雨により田畑が水没する等の被害が出た。水が引いた後の5月にはチリ地震津波が発生し、台風が通過した東北地方太平洋側と三重県南部を中心に再び被災した。台風の速度が非常に速く、雨の継続時間が比較的短かったにも関わらず、奈良県吉野郡川上村入之波(しおのは)で夜7時における時間雨量が 118 mm 、9月26日の一日雨量が 650 mm という猛烈な豪雨となり(紀の川流域におけるこの年の年間降水量は 3,655.8 mm で、平年の2倍以上であった)、紀の川や櫛田川など大台ヶ原を水源とする河川では洪水被害が大きくなり、橋梁の流失4,160箇所、堤防決壊5,760箇所などがあったのをはじめ、山間部では土石流や鉄砲水による住家や耕地の流失・埋没の被害が大きかった。岐阜県養老郡養老町では揖斐川の堤防が決壊し、ほとんど水につかった。台風のさいには比較的顕著ではない発雷も豪雨に伴って発生した。暴風による被害も大きかった。最大風速は四国東部から関東南部の沿岸で 30 m/s 以上、伊勢湾沿岸では 45 m/s 以上、瞬間的には 65 m/s を超えた所もあった。このため、建物の全半壊、送電線の切断、電柱・鉄塔の倒壊、風倒木が多く、塩風害も多発した。半田競艇場は、この台風により、選手控え室を除く全ての建物を損壊したため、閉鎖を余儀なくされた。なお、同競艇場の主催者であった半田市は現在に至るまで常滑競艇場において一部日程のレースを主催している。伊勢湾台風は進路予想もかなり正確であり、早い時期から上陸が確実視され、充分な災害対策を講じる余裕があったにもかかわらず空前の大被害が発生した。伊勢湾台風で最も顕著であったのは高潮の被害であった。台風の勢力が衰えず、熊野灘から知多湾・三河湾・伊勢湾では台風が西側を北上して非常に強い南寄りの暴風が持続する状況となり、各地の気象官署で過去の記録を更新、最低気圧の記録も同様であった。この強い風による吹き寄せと低気圧による吸い上げの効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず名古屋港では海水位が平均海面上 3.89 m(うち気象潮は 3.45 m で、それまでの最高であった室戸台風の 3.1 m を上回った)、工事基準面からの高さは 5.31 m に及ぶ、観測史上最高水位を記録した。名古屋地方気象台では、高潮警報は出したものの潮位は 2 m 程度と予想していた。この記録破りの高潮に対し、伊勢湾奥の海岸堤防の高さは 3.38 m しかなかった。また、名古屋市やその周辺では急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が激しく、高潮に対して非常に脆弱な土地が広がり、そこに無計画に市街化が進んでいたことも被害を大きくした。名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地の被害も激甚で、有名な鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、318人の在住者のうち、133名が犠牲となった。伊勢湾台風の高潮が記録的であったのは、台風の勢力が強大で猛烈な吸い上げ効果があったことと、伊勢湾が奥行き深く遠浅でその影響を受けやすかったことによる。また、地形が高潮や津波が河川遡上しやすい構造となっているため河川堤防も決壊した。台風襲来時が満潮(さらに大潮)と重なったためであるという話があるが、当日は少なくとも大潮ではなく、上陸時間ともズレがある。風向きと、高潮が押し寄せる方角が同じであったことから、暴風によって、陸地に押し寄せる高潮を加速させた。台風による大雨も高潮による陸地部分の浸水の深さを増すことになった。名古屋港は、外洋への出口が狭いことと、(増水した水が港へ流れ込む)河川・河口部が多いことから降水単独による潮位上昇も起きやすい傾向にある。このような高潮で最も多くの人命が失われたのは名古屋市南西部の南区や港区であるが、これには名古屋港の貯木場から流出した 20万 t に及ぶラワン材などによるところが大きい。直径 1 m 、長さ 10 m 、重量 7 - 8 t にもなる木材の大群が高潮に乗って住宅地を壊滅させたものである。高波と風の勢いでこの巨大な木材が縦に転がったという目撃談もある。南区ではおよそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によると考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突した。また、当時、行政側の効果的な避難誘導や防災体制が不充分だったため、住民の台風災害に対する認識が希薄だった。行政による避難勧告も実施されなかった地域も珍しくなく、自分たちが近くに高台もなく海抜高度の低い危険地帯に住んでいることを知らないまま被災・死亡した人々も多かった。台風の接近により停電となったことも、重要な情報源だったラジオが使えなくなり、結果として避難の機会を失う一因となった。その一方で、安政東海地震での津波からの復興に伴い沿岸部からの集団移転が行われた豊橋市一帯では被害が軽減されることとなり、三重県三重郡楠町(現・四日市市)や愛知県碧南市の碧南干拓地(現・川口町)では日没前には住民の避難を完了したことから1人の犠牲者も出さずに済んだ。伊勢湾台風の大被害により、日本の災害対策は根本からの変更を迫られた。被災から2週間後の1959年(昭和34年)10月9日には、当時の科学技術庁長官中曽根康弘を委員長とする臨時台風科学対策委員会が設けられ、現地を視察した中曽根は防災のための立法措置を示唆している。そして、1961年(昭和36年)1月に「災害対策基本法」が公布された。災害対策を総合的かつ計画的に進めることとし、防災計画の作成、市外予防、災害発生時の対策や救援、復旧等の基本がまとめられたものである。また、東京をはじめとする全国各地の防潮堤・堤防の建設や改修も伊勢湾台風を基準とし、伊勢湾沿岸では特に地元三重選出の当時の建設政務次官田村元主導のもとで国や県が協力して防潮堤や堤防を完成させた。高潮の被害にあった愛知県弥富市の鍋田干拓地の堤防は、伊勢湾台風級の高潮が来ても決壊しないように、高いだけでなく幅も広くとって強固に造られ、オランダ式堤防と呼ばれた。(ただし、地元では前述の田村に感謝を込めて「田村の堤防」とも呼ばれている。)これに加え、治水対策が強化された。従来進められていた治水計画を大幅に上回る洪水を記録した河川が多く、建設省や各地方自治体は河川改修を根本的に見直さざるを得なかった。このため、揖斐川や紀の川、櫛田川、淀川などの水系で治水計画が改められ、伊勢湾台風時の洪水に耐えうる治水計画・河川総合開発事業が計画された。これは宮川流域だけが宮川ダムの洪水調節によって浸水被害を最小限に食い止めたことなども影響している。伊勢湾台風を機に計画・建設されたダムとして、徳山ダム・横山ダム(揖斐川)、大滝ダム(紀の川)などがある。伊勢湾台風は東海テレビ放送及び中部日本放送(現・CBCテレビ・CBCラジオ)など愛知・岐阜・三重3県の民放再編や、災害時における一般市民とラジオの在り方について影響を与えた。前年1958年(昭和33年)のクリスマスに開局した東海テレビは、伊勢湾台風当時、まだ開局して1年も経っていなかった。日本で最初に開局し、東海テレビと同じ中日新聞社系列のCBCも、テレビ放送を開始して3年未満、ラジオ放送を開始して10年に満たず、NHK名古屋放送局のテレビ放送も5年を経過した状況であった。1959年(昭和34年)4月10日、当時の皇太子と正田美智子の「世紀のご成婚」があったことで、テレビジョン放送の全国ネットワークがようやく作られ始めたものの、白黒テレビはまだ高嶺の花(当時、14インチで約6万円程度=現在の価値で換算すると約60万円)、大半の家庭においてはラジオが大きな情報源であった。主流のラジオは当時中波 (AM) 放送のみであり、NHK名古屋は現在同様3県をエリアとしていた。民放はCBCラジオが名古屋に本社を置いて3県をエリアとしていたものの、中継局は今と比べ少なく、東海ラジオは、岐阜県域のラジオ東海と三重県域の近畿東海放送に分かれている状態(翌年1960年(昭和35年)に一本化)であった。しかも、NHK・民放の両方とも今日のように常時24時間放送を行っているわけではなく、報道取材態勢についても今日ほど充実したものではなかった。受信機についても、今日当たり前のような電池で作動する小型ラジオはまだ出始めたばかりで、大半の家庭のラジオは商用電源で動く真空管式が主流であったため、暴風雨の最盛期に停電が発生するとラジオもテレビも機能しなくなって情報が途絶したため、災害時の情報伝達が十分には行われず、多大の犠牲者につながったことが一般にも認識されている。この教訓から乾電池を電源として使用可能な、当時最新の半導体技術を用いた小型の携帯トランジスタラジオの普及が進む要因となり、これによりラジオ受信可能な状況が大幅に増えいつでもどこでも迅速な情報入手が可能となったことで、台風や地震の時に活用されている。

出典:wikipedia

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