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三嶋大社

三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。周辺は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の門前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える。通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)を由来とする説もある。現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。以下本項では、神名としては社名にならって「三嶋」の表記を使用するが、史料の引用では常用漢字体を使用する関係上「三島」の表記を使用して解説する。祭神は次の2柱。2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。本地仏は薬師如来。三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである。現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島か)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。史料の初見は天平宝字2年(758年)で、「伊豆三島神」に対して10月2日に封戸9戸が、12月に封戸4戸が授けられている。国史では天長9年(832年)の記事において、三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)の2神が地2,000町に神宮二院・池三処を作るなど多くの神異を示したとして、名神に預かっている。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神とする説もある。『続日本後紀』の記事によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神:物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。その後、三嶋神は嘉祥3年(850年)に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2年(852年)に従四位下、天安3年(859年)に従四位上、貞観6年(864年)に正四位下、貞観10年(868年)に従三位が授けられた。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によると、「三島神料」として2,000束が下されていた。承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる。中世に入ると、三嶋社は伊豆国で一宮の地位に位置づけられたほか(初見は建武元年(1334年))、伊豆国の総社も兼ねたとされる。『伊豆国神階帳』(康永2年(1343年)以前成立)では「正一位三島大明神」と記載されている。『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事によると、源頼朝は挙兵直前に安達盛長に対して三嶋社への奉幣を命じ、その後山木兼隆の討ち取りを行なった。また、頼朝は同年に平家軍との戦のため西に向かう際にも三嶋神を拝んだという。このような戦勝祈願に見えるように、三嶋社は源頼朝から篤く崇敬され、頼朝からは治承4年(1180年)10月に御園・河原谷・長崎の神領の寄進、元暦2年(1185年)6月に臨時祭料として河原谷・御園の寄進、同年8月には放生会料として糠田・長崎の寄進、文治4年(1188年)正月に参詣、建久6年(1195年)に神馬・剣の奉納が行われた。頼朝が開いた鎌倉幕府は、三嶋社を鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社・箱根神社)と並んで信仰している。頼朝以後も鎌倉幕府将軍は代々三嶋社に参詣しており、特に4代将軍・藤原頼経は最も多くの参詣を行なった。この時代、鎌倉幕府の将軍・御家人は東海道を従来の足柄越ではなく箱根越を利用した。これによって箱根路が活性化し、箱根手前に位置する三嶋社には数多くの旅人が参詣した。東海道の紀行文には必ず三嶋社のことが記されており、『東関紀行』の作者(未詳)や、竹崎季長(『蒙古襲来絵詞』上巻)、阿仏尼(『十六夜日記』『夫木抄』)、冷泉為相・飛鳥井雅有(『夫木抄』)、一遍(『一遍聖絵』)、後深草院二条(『とはずがたり』)などが参詣の様子を描写している。南北朝時代に入り争乱が増えると、三嶋社では戦勝祈願を行う例が多く見られた。三嶋社は室町幕府・鎌倉公方からも篤い崇敬を受けたため、社領寄進が度々なされていた。戦国時代には当地を治めた後北条氏の保護を受け、後北条氏からは造営の支援も行われた。永禄11年(1568年)の甲相駿三国同盟解消に伴って当地は対武田氏の最前線になったため、度々兵火に遭ったとされる。後北条氏は積極的に三嶋社の造営を支援したが、それが後北条氏にとっての重荷になったともいわれる。江戸時代、江戸幕府からは文禄3年(1594年)に社領330石が寄進された(地割は神主100石、護摩堂25石、刑部大夫20石、在庁免25石、惣社人55石等)。慶長9年(1604年)にはさらに200石が加えられ、江戸時代を通じて計530石を有していた。明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列し、「三島神社」と称した。戦後は「三嶋大社」と改称し、神社本庁の別表神社に列している。三嶋大社の神主職は、伊豆国造の後裔を称する矢田部氏(やたべし)が代々世襲する。伊豆国造について『先代旧事本紀』では、神功皇后の時に若建命(わかたけのみこと)が国造に任じられたといい、この若建命は物部連祖・天御桙命(あめのみほこのみこと)の8世孫であるという。矢田部氏に伝わる系図『伊豆国造伊豆宿禰系図』では、初代に天御桙命、第9代に若多祁命(若建命を指す)を記載する。矢田部氏は、元々は日下部直(くさかべのあたえ、日下部氏)であったとされる。『続日本紀』では天平14年(742年)に外従七位下の日下部直益人(ますひと;系図では第19代)が「伊豆国造伊豆直(いずのくにのみやつこ いずのあたえ、伊豆氏)」姓を賜った。また、宝亀2年(771年)に外従五位下の伊豆国造伊豆直乎美奈(おみな;系図では益人の子)が従五位下を賜ったと記載される。系図によると、その後裔の伊豆貫盛(第30代)が三嶋神主となって以降、代々三嶋社の祭祀に携わったという。伊豆久恒(第33代)の時には久恒に子が無かったため、弟の国盛(第34代)が「東神主五郎大夫」を、末弟の貞盛が「西神主四郎大夫」を称して後を継いだ。康和5年(1103年)の国盛の宮司補任を示す文書は現在にも残っている(ただし検討余地のある史料とされる)。その後は東大夫・西大夫が並び立って三嶋社の社務を分担し、西大夫は二宮八幡宮の神主も兼務したという。東大夫と西大夫は代々継承されたが、南北朝期以降は西大夫は没落して東大夫のみとなった。以降の神主職は東大夫の世襲となり、一族は元禄年間(1688年-1704年)に姓を「矢田部」に改めた上で、現在の宮司(第70代)に至っている。社僧としては愛染院(別当)、大徳院・竜宝院・法正院(役僧)の4子院があった。また、神宮寺には「国分寺」の称も見える。三嶋大社は元は下田市白浜に所在したといわれる。『日本後紀』逸文では社地に関する次の記載があるが、これは白浜鎮座時の描写とされる。三島市域での所在を示す最古の史料は『吾妻鏡』治承4年(1180年)記事である。鎌倉時代の『一遍聖絵(一遍上人絵伝)』第6巻では、弘安5年(1282年)に一遍が参詣した際の楼門・拝殿・楼門(神門)・幣殿・本殿からなる社殿が描かれている(ただし『一遍聖絵』には建築史学的に疑義がある)。現在、その様子は三嶋大社宝物館に模型で再現されている。鎌倉時代以降の文書に見える造営・修復年次は、文治3年(1187年)、建永元年(1206年)、嘉禎元年(1235年)、文永9年(1272年)、正安4年(1302年)、嘉暦4年(1329年)、延文3年(1358年)、応安3年(1370年)、永徳2年(1382年)、応永13年(1406年)、応永25年(1418年)、大永6年(1526年)、慶長9年(1604年)、寛永13年(1636年)、承応3年(1654年)、寛文11年(1671年)、正徳元年(1711年)、宝暦5年(1755年)、安永5年(1776年)、寛政8年(1796年)、文化9年(1812年)、天保3年(1832年)、慶応4年(1868年)、大正12年(1923年)、昭和10年(1935年)。上記のうち特に、江戸幕府3代将軍・徳川家光による寛永期の造営で大規模な社殿が整えられた。その後の江戸期の社殿の様子を示す史料は多く、絵図では五重塔や護摩堂・経蔵といった仏教施設も見える。しかし嘉永7年(安政元年、1854年)に発生した安政東海地震によってほとんどは倒壊したため、社殿は幕末の慶応4年(1868年)にかけて再建された。その後は、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和5年(1930年)の北伊豆地震による被害の修復を経て現在に至っている。境内の広さは14,057坪(4.6ヘクタール)。他に境外地として約2,200坪(0.72ヘクタール)を所有する。主要社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿である。大社側ではこれらを「御殿(ごてん)」と総称する。いずれも江戸時代末期の嘉永7年(安政元年、1854年)の安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成した。境内にある主な建造物も、同時期の明治元年(1868年)にかけての再建である。社殿の形式は、寛永年間(1624年-1645年)の徳川家光造営時を踏襲したものとされる。本殿は三間社流造で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。本殿・幣殿・拝殿いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿である。また本殿脇障子の神功皇后の説話に基づく彫刻を始めとして、本殿の内法上の小壁、本殿と拝殿の蟇股などの要所に彫刻が施されているが、これらは伊豆国名工の小沢希道、駿河国名工の後藤芳治良が競い合って完成させたものといわれる。これら社殿3殿は、江戸時代を代表する建造物であるとして国の重要文化財に指定されている。拝殿前に建てられている舞殿(ぶでん)は、本殿等と同時期の慶応2年(1866年)12月18日の再建。古くは「祓殿」と呼ばれる神楽祈祷を行う場であったが、のちに舞の奉納が主となったので「舞殿」と称されるようになったという。現在では、舞のほか各種神事でも使用される。舞殿には、中国・元代に郭居敬編纂の「二十四孝」を基にした彫刻が巡らされている。この舞殿は三島市指定文化財に指定されている。神門(しんもん)もまた、本殿等と同時期の慶応3年(1867年)8月10日の再建。御殿同様に総欅造である。舞殿とともに三島市指定文化財に指定されている。そのほか、境内には神馬舎(戦後完成)、総門(昭和6年(1931年)完成)、旧総門の芸能殿(慶応4年(1868年)2月11日完成)、客殿等の社殿がある。著名な老木として、神門内にキンモクセイ(金木犀)がある。この樹木はウスギモクセイ(薄黄木犀)の雄木で、樹齢約1,200年、樹高10メートル以上を測る老木・巨木である。「2度咲き」の性質を持つが、特に2度目の9月下旬から10月上旬にかけては淡黄色の花で満開になる。このキンモクセイは国の天然記念物に指定されている(詳細は「三島神社のキンモクセイ」を参照)。また、境内に広がる鎮守の森は「三嶋大社社叢」として三島市指定天然記念物に指定されている。現在の摂末社は、摂社2社・末社13社の計15社(いずれも境内社)。古くは他にも多数の摂末社があったが、現在は事実上独立している。かつて三嶋大社に属した摂末社。下記はいずれも大社境外に所在する元摂社で、現在は独立する。三嶋大社の元摂社(以下で全てであるかは不明)。三嶋大社の年間祭事一覧。三嶋大社の例祭(れいさい)は、毎年8月16日に行われる。例祭自体は16日であるが、各種神事が15日の摂社・若宮神社の例祭に始まって17日まで執り行われる。三嶋大社では古くから4月・8月・11月の2の酉日に大祭が行われたが、明治に入って特に8月の祭が例祭に定められた。4月・11月の祭は、現在も「酉祭」として続いている。8月15日から17日の3日間は三島市内でも「三島夏祭り」と称して、源頼朝の出陣を模した行列が催されるほか、山車が出て「三島囃子(みしまばやし)」(静岡県指定無形民俗文化財)が披露されるなど最も賑わいを見せる。古代、伊豆国の祭祀には度重なる伊豆諸島の火山活動が深く関係した。その活動は7世紀半ばから8世紀初めにかけてと、9世紀にそれぞれピークを迎えたとされる。当時の火山活動は人々にとって重大な関心事で、その噴火は神の業と見なされていた。そのため、伊豆国では火山に関連した多数の神社が祀られるとともに、卜占の技術も発達した。当時の祭祀の様子を示す史料として、平安時代の『延喜式』神名帳がある。同帳では伊豆国に全国9位相当の92座の式内社を載せるが、1郡あたりにした場合には式内社の多いことで知られる伊勢国・出雲国をも大きく上回る。伊豆国でも特に賀茂郡(伊豆半島南部と伊豆諸島)が重要視されたと見られ、賀茂郡には伊豆国の半数の46座が記載されるが、1郷あたりで見ると全国でも突出した密度になる(右表参照)。この46座のうち20数座は伊豆諸島の鎮座とされる。それらの神々の中でも筆頭に位置づけられたのが「伊豆三島神社」、現在の三嶋大社である。「三島」とは「御島」の謂とされるように、「三嶋神」とは伊豆諸島全体を象徴する神を意味するとされる。三嶋神については『続日本後紀』において、本后として阿波神、阿波神の御子神として物忌奈乃命、その他に後后(伊古奈比咩命とされる)のあった旨の記載がある。神名帳記載の神々も、同記事のように三嶋神の苗裔に位置づけられたと考えられている。神名帳に見えない苗裔神の縁故関係を考証する史料としては、中世に記された「三宅記」が知られる。「三宅記」は伊豆地方の神々に関する縁起・本地物で、所載の神名には神名帳との一致も見られることから、苗裔神の類推に使用されている。神名帳や「三宅記」から三嶋苗裔神と考証される神々の一覧は次の通り(赤字は女神)。現在の比定社はそれぞれ「伊豆国の式内社一覧」「三宅記」を参照。三島暦(みしまこよみ)は、三嶋大社の暦師・河合家(大社の下社家とされる)から頒布された暦。起源不詳ながら古くから使用された暦で、伊豆地方を中心に東海・関東・甲信地方に広まった。初出は『空華日用工夫略集』応安7年(1374年)3月4日条、最古の暦は永享9年(1437年)の版暦。所在地参拝時間付属施設交通アクセス周辺注釈原典出典史料書籍サイト史料文献

出典:wikipedia

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