与野市(よのし)は、埼玉県南部に存在した市。通勤率は、東京都特別区部へ35.3%、浦和市へ13.4%、大宮市へ9.1%(いずれも平成12年国勢調査)。市制施行前は北足立郡に属した。2001年(平成13年)5月1日に浦和市・大宮市と新設合併を行い、さいたま市が誕生したことにより消滅した。2003年(平成15年)4月1日、さいたま市の政令指定都市への移行にあたり、おおむね旧与野市域をもって中央区が設置された。"地形および土地利用については記事「中央区 (さいたま市)」を参照されたい。"埼玉県の南東部に位置した。市域は、現在のさいたま市中央区の区域にほぼ一致する。但し、さいたま市の政令指定都市移行にあたって行政区を設定する過程で、旧与野市・浦和市・大宮市の3市にまたがっていた「さいたま新都心土地区画整理事業区域西側地区(さいたま新都心のうち東北本線以西の地域)」を、一体的に中央区に編入することとなった経緯から、旧与野市域は現在の中央区の8.39kmよりもわずかに狭い8.29kmであった。2001年4月1日の人口は83,620人であった。中央区になった後も漸増し、2005年には9万人を超え、2015年4月1日の人口は98,609人となっている。「与野」の地名は、鎌倉時代末の1314年(正和3年)に成立した「融通念仏縁起絵巻」の正嘉疫癘の段に「武蔵国与野郷」とあるのが初見とされる。旧与野市域の中心部(現中央区本町東・本町西のそれぞれ一部)は町村制施行以前からの与野町であり、通称与野本町と呼ばれる。この地区は古くは鎌倉街道の上道と中道とを結ぶ羽根倉道上に位置し、室町時代から市場の町として栄えた。江戸時代には、甲州街道日野宿と中山道、奥州街道とを結ぶ脇往還の人馬継立場として、また江戸、川越など周辺地域の商品物資集散地としての機能を有していた。。幕末期の文化・文政期(1804年~1830年)与野宿は、大宮宿・浦和宿よりも家数が多かったとされており、また1887年(明治20年)作成と推定される記録でも、浦和町の人口3,524人、大宮町の人口2,860人に対し、与野町の人口は3,877人であり、これら2町を上回る人口を有していた。近代初期には与野宿は近隣の浦和宿や大宮宿を越える繁栄を見せ、当時の大宮の住人は「大きな買い物は与野でする」などと言われた時代もあるという。しかし後に県庁所在地として発展した浦和町(→浦和市)や鉄道の結節点として発展した大宮町(→大宮市)が周囲の町村を合併しつつ拡大する一方で旧与野は両市に挟まれつつ永らく単一の自治体として独立を保ったものの、旧浦和や旧大宮よりも面積や人口や経済力などで劣っていたため、どうしても旧与野は旧浦和や旧大宮よりも知名度という観点であまり有名ではなかった。それ故、旧与野市に所在しながら「浦和」や「大宮」という地名を称していた機関は民間企業だけではなく官公庁も含め存在していた。具体的には、浦和西警察署は旧浦和市ではなく旧与野市にあり、旧大宮赤十字病院(現さいたま赤十字病院)は旧大宮市ではなく旧与野市にあった。そのような背景もあってか、さいたま市発足前の与野市役所庁舎(現さいたま市中央区役所庁舎)壁面には、JR埼京線の電車から見えるように向けられた「ここは与野市です」という大きな看板が掲げられていた。
出典:wikipedia
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