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八木啓代

八木 啓代(やぎ のぶよ、1962年1月13日 - )は、大阪府生まれのラテン歌手、作家、エッセイスト、ジャーナリスト、音楽コーディネータ、健全な法治国家のために声をあげる市民の会会長。ラテンジャズ・バンド、ハバタンパ (HAVATAMPA) のリードヴォーカル。声質はソプラノのリリコ・リジェーロ ()。(ローマ字で苗字はYagiとなるが、活動地域であるラテンアメリカ(スペイン語)向けにYaguiとも綴る)北野高校、京都外国語大学イスパニア語学科卒業。在学中、政府交換留学生としてメキシコのグァナファト州立大学で学ぶ。留学中、声楽家としての資質を見抜いたオペラのプリマドンナに勧められ、同大学音楽院でオペラとクラシック音楽を学ぶ。また中南米を放浪して各地の音楽を吸収した。この頃、旅行費用を捻出するために、初期の「地球の歩き方」の執筆に参加するなど、「バックパッカーとして伝説的な存在」であったともいう。帰国後フォルクローレのバンドなどで演奏活動を開始。1980年代末頃からは、東京、京阪神(京都、大阪、神戸)、メキシコシティ、ハバナでソロヴォーカリストとして活動、ソロアルバム『心象風景』、そして2年後にメキシコのレコード会社ペンタグラマ(Pentagrama, )からソロアルバム『SE VIVE ASI』を発表、メキシコ、キューバで「絹の声(Voz de Seda)」という評価を得た。現在は、東京を拠点に、メキシコ、キューバと行き来して演奏活動を続ける。作家としても、キューバやメキシコなど、ラテンアメリカに関する知識や情報を、マスメディアやミニコミで発表した解説記事やライナーノーツはきわめて多数にのぼり、この分野での著作も多い。"PANDORA REPORT"では、1991年から1995年の間に、パソコン通信ニフティーサーブ(現・@Nifty)上の「市民運動フォーラム」で、当時は珍しかった顔文字を多用した漫画チックな文体に、ブラックなユーモアを込めて、中南米事情(とりわけ、当時バッシングを受けていたキューバ事情)を紹介した。この文章は後に光文社より出版された。尚、この原文は、光文社刊の書籍に収録されなかったものやその後書かれたものも含めて、八木本人のサイトで2015年4月まで公開されていた。また2010年3月から、ピースボートクルーズに参加した体験を綴った「PANDORA REPORT 南極編」として"PANDORA REPORT"シリーズを自身のブログで再開した。シルビオ・ロドリゲス ()、パブロ・ミラネス ()、カルロス・バレーラ () ら、キューバのシンガーソングライターたちや、チリのイリャプ () をはじめ、ラテンアメリカの新しい歌(ヌエバ・カンシオンあるいはヌエバ・トローバ - )の音楽家や文化人との親交は厚く、その人脈と語学力を生かして、チリのアンヘル・パラ()、アルゼンチンのロック歌手、レオン・ヒエコ ()、ニカラグアのルイス・エンリケ・メヒア=ゴドイ () 、キューバのビセンテ・フェリウ () らの日本公演のコーディネーターや共演などもつとめている。1994年、フェスティバル・デ・ミゲル・マタモロス (Festival de ) 第一回国際サルサ(ソン)フェスティバル - 略称: フェスティバル・マタモロソン (Festival Matamoroson en ) に、一度限りという約束で、吉田憲司、納見義則らによって再結成され、日本代表として参加したサルサバンド、ハバタンパ(HAVATAMPA)(第2期)に、リードヴォーカルとして参加。ソン・ラテン音楽の本場であるサンティアーゴ・デ・クーバの聴衆に評価された。その結果、ハバタンパは存続することになり、翌年には、メキシコのオペラハウス「メキシコ市立劇場」(テアトロ・デ・ラ・シウダー - Teatro de la Ciudad)で二千人の聴衆を集めての公演を成功させる。この時期より、活動の中心を東京に移し、演奏活動、執筆などをすすめる。その後、アメリカが1989年にパナマを侵攻した事件を現地で取材して執筆した、長編処女小説『MARI』を上梓。また、メキシコの作曲家たちが彼女に提供した曲を中心に録音されたソロ・アルバム『Esta Mujer』(意味は「この女」)、ファドやメキシコ民謡を採り入れた『Lagrimas』(意味は「涙」)をメキシコで発表。

出典:wikipedia

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