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平山亨

平山 亨(ひらやま とおる、1929年3月19日 - 2013年7月31日)は、株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァー取締役。東映では、助監督(映画)、映画監督、テレビプロデューサーを務めた。作詞家としては田中守のペンネームも使用している。映画監督の松村昌治(中山昌一)は義兄。1929年に母の実家の名古屋市で4人兄弟の長男として出生。父は鉄道省勤務。出生時の自宅は東京都だったが、転居を繰り返して、東京都と名古屋市で育つ。旧制中学校時代の1944年には学徒動員で防空壕作りや疎開工事、工場勤務などの勤労奉仕に従事した。終戦後の1947年4月に青山学院専門学校(現・青山学院大学)の英文科に入学。1948年4月に旧制高等学校の成蹊高等学校(現・成蹊大学政治経済学部心理学科)に入り直す。翌1949年の学制改革に伴う旧制高校廃止により、旧帝国大学受験が可能になったため、東京大学文学部に合格して入学した。東京大学文学部美術史科の同期生には映画監督の奥中惇夫がおり、後に『悪魔くん』で再会を果たす。東大では竹内敏雄にヘーゲル美学を学びながらも興味を持てず、映画監督を目指す。卒論テーマは「人間の生き熊の美学」。大学卒業にあたって、映画会社やマスコミ関係の就職試験を受けるも全て不合格となり、そのため卒業を1年延期し、その間に知人の紹介で各映画会社のアルバイト助監督を経験。2回目の試験で東映株式会社の入社試験に合格し、1954年3月に東京大学文学部美術史科を卒業。3ヶ月の試用期間を経て、東映株式会社入社。同期には、高岩淡、小西通雄、佐伯孚治らがいた。東映京都撮影所の製作部制作課に配属され、松田定次監督に師事し、松田組の助監督となって主に時代劇を担当する。『笛吹童子』で初のテレビ時代劇助監督を務めた。助監督生活は9年に及び、130本以上の作品に参加した。1963年に34歳で映画監督に昇任し、『銭形平次 捕物控』で初監督。翌1964年には義兄で後に監督になる松村昌治に指導を受けて、東伸テレビ映画のテレビ時代劇『それからの武蔵』『水戸黄門』ではじめて1人で脚本を手掛け、このときにペンネームとして八手三郎(やつでさぶろう)を使い出した。常套句の「なんでもやってみよう」⇒「やって みろ」が由来である。1964年に『三匹の浪人』を監督。京都撮影所では計2本の作品を監督したが、テレビの急速な普及で映画の制作本数が激減してその後は仕事がなくなり、1965年12月に京都撮影所から東京に異動。東映本社のテレビ部企画者補佐の辞令を受ける。後に東映テレビ事業本部長となる次長の渡邊亮徳の下でテレビ部プロデューサーに就任し活動を始める。翌1966年7月にテレビ部企画者に昇進し、宮崎慎一から提案された『悪魔くん』で同年10月にテレビドラマ初プロデュース。『キャプテンウルトラ』『仮面の忍者 赤影』『ジャイアントロボ』『柔道一直線』などの人気番組を次々と担当し、特に1971年4月より放映開始の『仮面ライダー』は大ヒット、『ライダー』の生みの親の一人として知られ、以後も東映制作の数々の石ノ森章太郎原作のテレビ特撮番組を手掛けた。一時は石森プロに毎日のように出入りした。『仮面ライダー』より番組楽曲の作詞を行うようになり、主に八手三郎名義でエンディング曲を、田中守名義で挿入歌を手掛けた。平山個人のペンネームとして使い始めた「八手三郎」は、平山が所属していた東映テレビ事業部(現在は機構改革により映像本部テレビプロデューサー集団)の共同ペンネームとなり、引き続き使われている。1976年10月に子供番組担当の東映テレビ企画営業第二部が新設されて、部長代理に就任。1977年6月に渡邊亮徳の進言で部長に昇進するが、性格的に管理職に向かず、長時間の会議やデスクに張り付く仕事に困惑し1979年3月に仮病を使って部長職を自ら辞任し、部長代理兼企画に降格した。この間、1977年4月開始の『氷河戦士ガイスラッガー』で初めてアニメをプロデュースした。この他に担当したアニメ作品には『激走!ルーベンカイザー』『ピンク・レディー物語 栄光の天使たち』がある。1984年より特撮雑誌『宇宙船』に、「私の愛したキャラクターたち」と題して、地獄大使や甲賀幻妖斎など自身が手がけた脇役達を主役とした小説を連載した。これを皮切りに、テレビで描ききれなかった設定を主に小説の形で多数執筆している。1984年3月に55歳で定年を迎え、以後は60歳になるまで嘱託で東映に勤務して、引き続きプロデューサー職を務めた。嘱託となってからの主な仕事は日曜朝9時の東映不思議コメディーシリーズのみとなり、自由な時間が増えたことからファンとの交流をしたり、妻の親族の後継者が不在になった神社で、40日間の講習を受け、1988年から1991年にかけて神主を務めた。1989年3月に60歳を迎えて嘱託も定年となる。東映での最後のプロデュース作品は1988年12月終了の『じゃあまん探偵団 魔隣組』であった。退職後は、3人ほどの仲間で企画集団ミラクルメーカーズというグループを結成。ミラクルメーカーズは2008年に名称を無限界とした。1991年から2004年まで劇団いろは、1993年から1999年まで東映アカデミー、1992年から1994年まで代々木アニメーション学院で講師として指導にあたった。1995年に脳出血で倒れたが、その後も自らを慕う若手によるテレビ番組やオリジナルビデオの監修や執筆活動、演劇ボランティアや舞台演出など旺盛な活動をした。2002年から2004年にかけては円谷映像で企画を担当した。2006年、株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァーに取締役として就任。ボランティア活動にも関心を示し、2007年には、不用品を収集して支援活動にあてるボランティアサークル「ゆうあい」の顧問に就任するなど、親と子が無理せず参加できる取り組みに着目した。私生活では、1957年11月、28歳で20歳の女性と結婚、息子2人をもうける。2011年4月より肺炎で長期入院、その後も入退院を繰り返し、一時は集中治療室で闘病生活を送る。心臓肥大や軽い糖尿病と脳梗塞の持病も抱えていた。2013年7月31日に心不全により埼玉県狭山市の病院で死去。 。戒名は“映楽院亨山徳成居士”。2013年8月4日、平山ゆかりの関係者が集い、「お別れ会」が行われた。当日はプロデュース作品に関わったスタッフや殺陣師、俳優などが参列、鈴木武幸、佛田洋、三池敏夫、堀田眞三、桜木健一、吉沢京子、岡田勝、藤岡弘、、宮内洋、村上弘明、高杉俊介、新堀和男、高野浩幸、金子吉延、萩原佐代子、ショッカーO野、鈴村展弘らが顔を合わせ、故人を偲び、冥福を祈った。スターシステムで知られる東映時代劇のノウハウを、『仮面ライダー』など新しいキャラクターを生み出すに当たって「カタ型の美」を取り入れようとした本社テレビ部事業部長・渡邊亮徳によって、京都で時代劇にかかわってきた平山は、東映本社テレビ事業部に配属される。以後、単純明快な作風のヒーロー番組を多期に渡って輩出し、1970年代以降の東映特撮路線へとつなげていった。平山の人物像として、藤岡弘、野田昌宏をはじめ、温厚さや人柄の良さを挙げる関係者は多い。ファンとの交流にも積極的で、同人誌への取材協力やイベントへの出席も数多い。特撮監督の佛田洋は、学生時代に電話帳で調べた平山の自宅にいきなり電話をかけたにも関わらず、平山が真摯に応対してくれた上、撮影所に迎え入れて話を聞いてくれたとして、その優しい人柄に感謝した、と振り返っている。同様に監督の鈴村展弘も中学生時代に撮影所の見学をさせてもらうなど親切にしてもらい、その体験から演出の仕事に興味を持つようになったと語っている。平山本人は円谷英二に憧れていて、ずっと会いたいと思っていたが、自分の仕事が忙しくてなかなか面会を申し込む余裕がなく、そのうち、そのうちと思っているうちに円谷が亡くなってしまい、円谷に会う機会を永遠に失ってしまったことを深く後悔した経験があるため、自分のファン達には同じ思いをさせたくないと考え、ファンからの面会の申し込みには出来る限り応えるよう心がけている旨を語っていた。生前のインタビューでは、自身の人生を振り返り『仮面ライダー』のように辛いことの連続であったが、結果的には良かったと述べている。京都撮影所から異動した当時のテレビ部は他署から同情されるような部署であり、平山もプロデューサーの仕事がどういうものかわかっていなかったため真剣に悩み、職安へ行ったこともあったという。『仮面ライダー』第9・10話の撮影中の事故で主演の藤岡弘が重傷を負い、出演続行が不可能と判明した時には、緊急企画会議で毎日放送側やスタッフが「本郷猛の死亡案」に傾くなか、平山は頑なにこれに反対し、「子供たちのオールマイティーの夢を壊すわけにはいかない(議事録より)」としてこれを認めず、2号ライダー(一文字隼人)の起用と翌年の藤岡の番組復帰につなげ、ひいては仮面ライダー第一シリーズを4年近くにわたり継続させた。この措置が、仮面ライダーのシリーズ化につながり、後年に残るセールスを実現させている。『仮面ライダーアマゾン』オープニングテーマ冒頭の「ア・マ・ゾーン!」の掛け声は平山の発想によるものである。2010年7月4日に科学技術館にて行われたトイフェスティバルの岡崎徹のトークショーで、飛び入り参加した平山自らが「密かな自慢」として披露した。『がんばれ!!ロボコン』では、「ロボコンに100点を!」というファンレターがたくさん届き、メインライターの上原正三も「たまには、100点でも良いのではないか?」と100点を取る脚本を提案したが、「ロボコンに100点を出すと視聴者が離れる」と考え、断り続けた(ちなみに『ロボコン』の最終回では、ロボコンに番組最高の500点が与えられている)。特撮作品で組んだ山田稔とは親交が深く、自身の著書によると、実現はしなかったがプロデューサーを務めた『ペットントン』のパイロット監督を山田に依頼したり、亡くなる直前の山田の病床を見舞っていたという。平山は東映テレビ部の渡邊亮徳と交友のあった朝日ソノラマ編集長の坂本一郎から、脚本家の伊上勝や辻真先、出版社の小学館や講談社などを紹介を受け、いずれも長きに渡る関係を築いた。このことから平山は「東映の子供番組は坂本抜きに語れない」と述べている。脚本家の伊上勝については、平山が東映京都で助監督を務めていた時代に他社作品の『隠密剣士』を観て興味を持ち、『悪魔くん』でプロデューサーを務めた際に朝日ソノラマ編集長の坂本一郎に伊上の紹介を要望し起用した。平山は自身のプロデュース作品のほとんどで伊上を第1話の脚本に起用し、事実上のメインライターを任せていた。東映プロデューサーの阿部征司は、平山が具体化できていないアイデアをぶつけても伊上は躊躇なく引き受けていたと証言しており、平山は伊上に依存していた部分もあると述べている。著書として『仮面ライダー名人列伝』や『東映ヒーロー名人列伝』などがある。ここでは、関わった作品ごとに、プロデューサー・監督・俳優・スーツアクターなど、多くのスタッフ・キャストに触れて、「名人である」と評している。一戸建ての自宅が、『超人バロム・1』第22話の「平山眼科」など、よく作品中のロケに使われていた。『仮面ライダーV3』第5・6話の遺影など、彼の肖像写真が劇中で使われることもあった。俳優の藤岡弘、氏は平山を『私の師』として敬愛していた。恩師が亡くなった事を自分のブログ藤岡弘、の侍道(2013年8月7日)に書き込んている。ほか、130本以上以下は、クレジットされていないが、企画協力などを行った作品である(『東映ヒーロー名人列伝』による)。

出典:wikipedia

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