LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

原田哲也

原田哲也(はらだ てつや、1970年6月14日 - )は、千葉県千葉市出身の元オートバイ・ロードレースライダー。1993年ロードレース世界選手権(WGP)GP250チャンピオン。WGP通算17勝(日本人最多タイ)。WGP通算表彰台55回(日本人最多)。イタリアではテレビCMに出演するなど高い人気を誇り、「イタリアで最も有名な日本人」との異名を取った。ニックネームは、冷静沈着なレース運びから『クールデビル』ゼッケン番号は、31をトレードマークにしていた。1981年ポケバイレースデビュー。16歳で二輪免許所得後すぐにロードレースにデビューし、1987年筑波選手権125ccチャンピオン獲得。1988年全日本併催のジュニア125で全戦全勝したのちヤマハファクトリーと契約し、1989年全日本ロードレース選手権に参戦。1990年シーズン半ばよりワークスマシンYZR250を得て開発能力を身に着け、1992年GP250クラスチャンピオン獲得。このときのホンダの岡田忠之とのタイトル争いは苛烈で、第6戦の鈴鹿では史上初の同着優勝を記録した。1993年よりヤマハワークスライダーとして世界選手権参戦。開幕戦オーストラリアGP(イースタンクリーク)でデビューした。このレースで、原田はラッキーストライク・スズキのRGV-Γを駆るジョン・コシンスキーとマッチレースを展開したが、最終ラップのストレートでスリップストリームを使い、わずかに原田がコシンスキーに先行し、初参戦で初優勝という快挙を成し遂げた。第4戦スペインGPで起きた事故で親友・若井伸之を亡くす悲劇を乗り越え、最終戦でロリス・カピロッシをポイントで逆転し、1977年の片山敬済以来、16年ぶりに日本人が世界チャンピオンになった。スペインのマドリッド郊外、ハラマで迎えた最終戦、FIM GPでは、急遽代替開催としてカレンダーに組み込まれたにも関わらず、近年のシーズンにしては、珍しく、客席が空席なく埋まるほどの大観衆でレースは開催された。原田がタイトルを獲得するには、たとえ最終戦で優勝しても、チーム・ピレリのカピロッシが4位以下でチェッカーを受けなければ、タイトル獲得は成らないという非常に厳しい中での最終戦だった。カピロッシのマシンはホンダ・NSR250。対する原田はワークスマシンとはいえ、直線スピードの劣るヤマハ・TZ250Mで、周囲の目はカピロッシ断然優位と見られていた。序盤、レースはチェスターフィールド・アプリリアのジャン・フィリップ・ルジアが優位にレースを進め、単独トップに躍り出ていた。この年のルジアは非常に安定しており、リタイアする場合はマシントラブルでのリタイアだけだった。しかし、ルジアはフロントからスリップダウン。自らの責任による転倒によりリタイアとなってしまう。代わってトップに躍り出たのは、同じくアプリリアのロリス・レジアーニ、2位にロスマンズ・カネモト・ホンダのマックス・ビアッジ、3位をカピロッシと原田で争っていた。原田の後ろを走っていれさえすれば、タイトル獲得決定のカピロッシではあったが、カピロッシはそれをよしとせず、果敢に原田を攻め、表彰台に上がってのタイトル獲得を目指していた。原田のTZ-Mはストレートでは何度かカピロッシのNSRに並びかけるものの、直線でカピロッシのNSRをかわすことはできなかったが、ようやくカピロッシをかわし3位に踊り出ると、ここからドラマチックなレースが展開される。原田にパスされたことで焦りを感じたカピロッシが、コースを大きくオーバーラン。転倒こそ免れたものの原田から大きく離されてしまう。だが、原田がタイトルを獲得するには優勝しなければならず、これだけではカピロッシの優位は動かなかった。原田は前を行くビアッジとレジアーニのトップ争いに加わり、まずビアッジをパス。そして、トップをいくレジアーニを捕らえトップに踊り出るものの、レジアーニもやすやすと先行を許さず、1コーナーでパスされた原田であったが、2コーナーで再びレジアーニをパスして、後続を引き離しにかかった。これ以上原田に関わるのは危険とレジアーニは原田を深追いすることはせず、2位キープにまわった。最終ラップ前、コントロールタワーをトップで通過していくのは原田、レジアーニ、ビアッジという順位で、カピロッシは地元スペインのアルベルト・プーチにも抜かれ、5番手に甘んじていた。最終ラップ、原田のマシンは時折振られるものの、無難にコーナーを立ち上がり、最終戦を優勝で飾り、1度は逃げかかっていたワールドタイトルをその手に引き寄せた。この優勝は単なるシーズン通算4勝目の優勝ではなく、日本人ワールドチャンピオン誕生の瞬間をも意味する優勝であった。このときの模様は地上波ではテレビ大阪(TVO)の千年屋俊幸が、BS放送ではWOWOWの柄沢晃弘(解説・八代俊二)が現地から実況を担当し、日本の茶の間にレースの模様を伝え、WOWOWの放送センター内では現地からの生中継で一部のファンに公開された。(このとき、TVOのブースとWOWOWのブースが隣同士だったため、WOWOWの音声に千年屋の音声が飛び込むハプニングも発生した)チェッカーを受けた後も原田本人はチャンピオンを獲得した事は知らず、大喜びするスタッフを見て「何でそんなに喜んでいるのかな?」と思ったらしい。ピットに帰ってきてようやくチャンピオンになった事を知らされた。レース後の記者会見でも「タイトルのことは頭になく、とにかく、レースに勝つことだけに集中してました。ピットに帰ってきて、みんなが大騒ぎしていて、タイトルが獲れたと聞いて驚いてます。」と語っていた。イタリアのプレスからはレジアーニにも質問が向けられ、「君が原田を抑えれば、カピロッシがタイトルを獲れたではないか?」との質問に対し、レジアーニは「今日の原田はとても速かった。だから、今日の原田は誰にも抜けなかったんだ。」と語った。表彰台での原田を迎えたのは、あまりにドラマチックなレースに酔いしれた大観衆の歓声だった。大観衆は東洋から来た小さな若者をスタンドが震えんばかりの「オーレ」の大合唱で迎え、歓喜の大歓声がハラマの空にこだました。このときの映像はWOWOWの93年シーズン総集編で放映された。1996年までウェイン・レイニー監督率いるワークス・チーム、マールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーの250ccクラスのエースとして活躍した。この時期は宿命のライバル、アプリリア・ワークスのエースライダー、マッシミリアーノ・ビアッジと壮絶なバトルを繰り広げていた。ビアッジの駆るアプリリア・RSV250は圧倒的なトップスピードを誇り、原田のヤマハTZ-Mはハンドリングには勝るものの直線でビアッジに引き離され、コーナーで挽回するという苦しい戦いが続いた。結局善戦しながらも、1994年から3年連続チャンピオンの座をビアッジに譲ってしまう。原田は、「ビアッジに負けているんじゃない!アプリリアに勝てないだけだ!」との名言を残す。原田自身の繊細なライディングテクニックは誰もが認めるところで、ヤマハの供給マシンの性能が劣るのは誰の目にも明らかであった事や、チャンピオンライダーとしての待遇面のミスマッチも指摘されていた為、レース界でも、この発言をただの妬みと捉える見方は少なかった。1996年、ヤマハは原田と共に世界タイトルを奪還する為に新型YZR250の開発を決断した。新型YZR250は、原田の為だけに開発されたマシンと言われ「原田スペシャル」とも呼べるマシンであった。原田はこの年、第2戦で早くも新型YZR250を勝利に導くものの、その後は熟成不足が祟り、思う様な成績が残せず、ヤマハと原田を共に失望させ、シーズン途中にて、約8年間に及んだヤマハファクトリーと原田の契約は双方合意の元に解消されるに至った。この時、急遽空席となったYZR250のシートを託されたのがプライベーターとしてGP250に参戦していた新人のセテ・ジベルナウであった。その後、ライバルチームであったアプリリアファクトリーと契約を結ぶ。アプリリアは原田がGPにデビューした直後から彼の才能を高く評価し、原田が新人で世界チャンピオンを獲得するという偉業を達成すると、更に原田の獲得を強く望んだ。そして原田とヤマハファクトリーとの契約が解消されると直ちに原田獲得に動いた。原田もライバルのマックス・ビアッジが乗るマシンに憧れと興味があった。アプリリアは念願の原田獲得が実現すると、3年連続世界チャンピオンを獲得し、エースライダーのビアッジを放出するという驚くべき行動に出た。アプリリアはこの年に3度目の世界チャンピオンを獲得したビアッジとの契約を更新すれば、来年もアプリリアのマシンに世界一の証しであるゼッケン1を付ける事が可能であったが、アプリリアはゼッケン1より原田を選択した。日本人スポーツ選手が海外チームと契約する場合、スポンサーが関係している場合や、海外チームが日本市場参入を目論む場合等、選手の能力以外の要素が絡むケースが非常に多いが、この原田とアプリリアファクトリーとの契約はそうした要件が一切絡まず、純粋に選手の実力のみを評価して結ばれた契約である点が特筆される。この契約により、原田は日本人選手として海外のファクトリーチームと契約する初の日本人ライダーとなった。当時ヤマハYZR250はリードバルブエンジンを搭載していたのに対し、アプリリア・RSV250はロータリーディスクバルブエンジンを搭載していた。そのためか原田はこの秋に初めてアプリリアのマシンをテスト走行した際「乗る前は、ストレートでもっとドッカーン!としたエンジンパワーがあるかのと想像していたが、予想した程ではなかった。それだけビアッジが上手く乗っていたのだろう」とコメントしている。アプリリアを離れたビアッジは、1997年の開幕間近になってもシートを獲得出来ずにいた。これにホンダが救済へ動き、プライベートチームにNSR250を貸与し、ようやくビアッジのGP250参戦が決定した。念願であったアプリリアのマシンを獲得した原田は自らの発言である「ビアッジに負けているんじゃない!アプリリアに勝てないだけだ!」をレースで証明しなければならなかった。一方のビアッジも、マシンの力ではなく自分の実力で3年連続タイトルを獲得した事を証明しなければならなかった。1997年は、この傑出した2人の世界チャンピオンのプライドを賭け、まさに一騎討ちとなったが、原田は前半戦に不運に見舞われたが、フランスGPやオランダGPでトップスピードを如何なく発揮して2連勝。ドイツGPでは最終ラップで4人の混戦の中、最終コーナーで抜き去り3勝目をマーク。結局ビアッジに4年連続タイトルを明け渡し、ランキング3位となった。1998年、チームメートのロリス・カピロッシや若きヴァレンティーノ・ロッシをも翻弄する円熟したレース運びで序盤のアドバンテージを築き上げたシーズンは、グランプリ史上、とりわけ印象深い。この時、転倒による骨折が仇となり、最終戦のアルゼンチンGPを残してカピロッシにポイントリーダーを明け渡した。それでもここで原田が先行し2位以上に入りさえすればシリーズチャンピオンとなれる条件の元、決勝に相応しい白熱したデッドヒートを展開し、最終ラップでロッシに次ぐ2位を確保して遂に5年振りのタイトル奪還を目前に手繰り寄せた。ところが最終コーナーでカピロッシの無理な突っ込みによる接触を受け、コースから弾き出されるというアクシデントが起こった。転倒直後、起き上がった原田が、グラベル上で拳を振るい、怒りを露わにした様子が当時の中継でも映し出された。このレースで一時失格となったカピロッシは年間タイトルをもたらすもチームを追い出される形となったが、後日のスポーツ仲裁裁判所で失格処分が取り消され2位となり、一方リタイアした原田はポイント上ロッシにも交わされ年間ランキング3位に後退するという後味の悪い結末となった。その無念のあまり「ビアッジは大嫌いだがレースの中ではクリーンだった」「あんな事をしてまでチャンピオンが欲しいなら、そんなもの奴にくれてやる!」と、またしても名言を残した。普段クールデビルと呼ばれる男の、その稀に見る激しい言動はレースに対する職人肌とも言える信念や熱意の表れでもあった。(日本テレビ2006年日本GP特番等)当時のカピロッシについて述懐し、『彼も可哀想だった。93年に僕に負けて、また同じ様に負ける事は彼自身そしてイタリアマスコミが許さない状況だった。あそこまでしてもチャンピオンを獲りたいと思う気持ちは大事な事。日本人ライダー達に欠けている事なのかも知れない』と理解を示している。これらの歴戦がさらにアプリリアからの評価をあげ、1999年500ccクラス参戦に抜擢される。かつて「自分は体が小さいので500ccのような体力が必要なクラスには向かないだろう」と語っていたため、あたかも別世界のように考えられていた最高峰カテゴリーだが、先に参戦したビアッジの活躍等で徐々に環境面で変化が訪れると「250ccの開発でできることはほとんどやり尽くした」として現実的な参戦を見据えるようになり、推定4億円という日本人レーサーとしての破格のオファーもあり、やりがいを感じていたようだ。当時与えられたマシンはもともと400ccから発展した、他チーム主力の4気筒と比べても非力なVツインエンジンであり、大排気量クラスで実績の乏しいタイヤなど開発にもかなりの冒険が伴った。にもかかわらず1999年イタリアGP予選におけるポールポジションの獲得、決勝で3位を2度獲得するなど、マシン特性のツボにはまったときの速さはやはり目を見張るものがあった。そこに翌年MotoGPクラス創設が正式に決まって以降、各社4ストロークエンジンの開発が至上課題となり、もともと予算的に限りのあったアプリリアもこれにより一時撤退を余儀なくされる。この時期概ねスタッフと良好な関係を築いたが期待はずれの2年間だった。やむを得ず2001年再びGP250に戻ってからは新鋭加藤大治郎の後塵を拝しつつ、ランキング2位につけアプリリアのエース健在を証明した。2002年ホンダサテライトチームであったプラマック・レーシングに移籍し、満を持して導入されたMotoGP(旧GP500)クラスでチャンピオンマシン、ホンダ・NSR500を手に入れた。念願の最高峰タイトルへの体制が整ったかのように思われたが、4ストローク990ccの信頼性・優位性が高まるにつれ、ここでも2ストローク500ccに乗る原田は苦戦を強いられ不本意な成績に終わる。この年の末ブリヂストンタイヤの開発を条件に引き続きRC211Vによる参戦継続の可能性もあったが、自身の将来やさまざまな条件面を考慮した結果、ロードレース引退の決断を下す(その後釜に抜擢されGP2勝をもたらしたのが玉田誠である)。引退記者会見にはこれまで所属した3メーカーの関係者はじめ、長年のライバルであるビアッジも訪れ、彼の新たな門出を賑やかに祝った。この時、「哲也は真のライバルだった。今の自分があるのは彼のお陰だ」と原田を称えた。時折MotoGPのテレビ解説をしたり、遊びでカートレースに参戦する程度でモナコ住まいの悠々自適の生活を送っている。同じくモナコに住居がある佐藤琢磨とは家族ぐるみでの付き合いをする仲だという。2005年にはマセラティのワンメイクレース「マセラティ・トロフィー」第2戦バルセロナ以降にフル参戦し、「これを機に本格的に四輪転向するのではないか」と期待が寄せられたが、その後四輪レースへの本格参戦の動きはない。2007年10月の故阿部典史の葬儀に出席した際は、「天国で大ちゃん(加藤大治郎)とレースをして欲しい」と語った。1988年から1992年までのポイントシステム:1993年以降のポイントシステム:()(太字はポールポジション、"斜体"はファステストラップ)

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。