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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇((在位:1926年(昭和元年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)最も長寿(宝算87)である。大日本帝国憲法が規定する「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬立憲君主制における天皇」としてポツダム宣言受諾決定などに大きく関与した。1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法が規定する「日本国の象徴かつ日本国民統合の象徴である天皇であり国政に関する権能を有しない」とされている。しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーと会見などを行ない独自の政治的影響力を保持した。主権回復後には象徴天皇として皇室外交を行った。またヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究する生物学研究者でもあった。1901年(明治34年)4月29日(22時10分)東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後に立后して貞明皇后)の第一男子として誕生。身長は1尺6寸8分(約51cm)、体重800匁(3000g)。その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち11月末には何歩か歩んでいる。明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補をいくつか挙げさせて選定し出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。称号は「迪宮」「謙宮」の二候補の中から、諱は「裕仁」「雍仁」「穆仁」の三候補の中からそれぞれ選んでいる。「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」に、「裕」は『易経』の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕(これ、兄弟の綽綽にして裕あり)」、『書経』の「好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり)」、『礼記』の「寛裕者仁之作也(寛裕であらば仁の作すなり)」に取材している。同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている。生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村伯・死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)と共に沼津御用邸に移った。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)に教育された。1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪。1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世から名誉陸軍大将(Honorary General)に任命された。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に陸海軍中佐に昇任した。12月27日に虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で樺太を視察。10月31日に陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子・照宮成子内親王が誕生。1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。1930年(昭和5年)6月26日、日英同盟失効後にも関わらず、イギリスの正規軍の陸軍元帥(Field Marshal)に任命された。1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全国の公私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀される。1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。1941年(昭和16年)、季刊イギリス陸軍将校名簿()10月号の外国の君主のページに、名誉職ではない軍位を持つ、陸軍元帥(Field Marshal)の裕仁天皇陛下と記載された。1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対米英開戦を決定し、12月8日に「」を出した。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に移住した。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に東京都内の被災地を視察した。5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送において臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。9月27日に、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーとの会見のため、駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも親拝して終戦を報告した。1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため横浜へ行幸(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。11月3日、日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の国家主権回復を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。記念硬貨が12月23日から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を体調不良から中座する。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至ったため、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えたが体重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、大量吐血をするなど容態は再び悪化した。8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)のため長く療養していたが1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御(宝算87)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。同日午前7時55分に宮内庁長官・藤森昭一と内閣官房長官・小渕恵三がそれぞれ会見を行い崩御を公表。同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号した。2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。1912年(明治45年)7月30日の明治天皇の崩御後、陸軍大将・乃木希典が夫人と共に殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になった後も記者会見の中で度々紹介している。迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と呼んだので「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意と共に自ら写本した『中朝事実』を与えた。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した。1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。山縣は西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。事件の責任を取って、宮内大臣・中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月に山縣はひっそり世を去った。1923年(大正12年)の関東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行く予定であったが、当時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。天皇は、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている。地震における東京の惨状を視察した裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。後年、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。この事件で、天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響によると論じている。1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動を巡って昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる。このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。この時の発言について、戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取り止めさせている。また、皇太子の教育係として陸軍の軍人を就けることを特に拒否している。なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者といわれることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内庁で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製のという短歌を詠み上げた。『昭和天皇独白録』などから、昭和天皇自身は開戦には消極的であったといわれている。ただし、『昭和天皇独白録』は占領軍に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。共産党委員長も務めた田中清玄は、共産党組織の実態を知り、後に、天皇制護持を強く主張するようになった。1945年(昭和20年)12月21日、昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ。」と回答している。開戦後から戦争中期にかけては、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示等もしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受け大敗を喫した例がある。また、昭和天皇はときに、軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領して、オーストラリアを爆撃範囲に収め、敵の戦意を奪おうとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。その時の理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、アメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となり、イギリスの持久戦が長引くため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は、御前会議でそのまま通った。しかし1943年(昭和18年)、ポルトガルの承認を受け、イギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後は連合国軍によって使用されている。日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めている。準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった。その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は、近衛の言う通りの人事ができないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった。8月9日に、連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。イギリスやアメリカなどの連合国による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇はGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーが居住していたアメリカ大使館を訪れ、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた(しかしマッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも批判されていた)。1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている。1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である。この詔書は「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない。戦前の天皇は一般国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで、現人神、大元帥という立場を非常に強調していた。ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。さらに、連合国による占領下では、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくとともに、一人称として朕を用いるのが伝統であったのを私を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。1946年(昭和21年)10月16日(日本時間)、第3回天皇とマッカーサーの会談の通訳・寺崎英成による議事録の全文を紹介する。天皇がマッカーサーに話た日本語は、寺崎英成が通訳して英文として記録したもの。和訳皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った。1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道、柔道、弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球の巨人対阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが、1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦を観戦している。昭和天皇は、終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社に親拝していたが、1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣を行っている。昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反である、とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では有力となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えた後も、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している。来るべく天皇崩御に備え、内閣は新元号(平成)の名称を検討しており、マスコミに「(内定していた)平成」の名称をスクープされぬよう徹底していた。1988年(昭和63年)以降、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。各地の記帳所、記帳所の設置された場所は以下の通り。昭和天皇が高齢となった1980年代頃(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言から癌であることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった。NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日の午前5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送。午前6時36分18秒から午前10時までの「危篤報道から崩御報道」と午後2時34分30秒から午後2時59分までの「新元号発表」はNHKのテレビ・ラジオ全波(総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2)で報道特別番組が放送された。1989年(平成元年)1月8日午前0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、『N響アワー』は曲目変更をした上で放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。1989年(昭和64年)1月7日の危篤報道(午前6時35分発表)以降翌1月8日終日までは、NHK(総合)、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった。NHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、テレビ朝日は8日には、ゴールデンアワー時の放送について当初の内容を変更し、田原総一朗の司会による「天皇制はどうあるべきか」という番組に変更した。2日目を過ぎた後もフジテレビが『森田一義アワー 笑っていいとも!』を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編『友達の輪スペシャル』に差し替えて放送するなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦「香取」が用いられ、横浜を出発し、那覇、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ、カイロ、ジブラルタルと航海し、二か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスのロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会った。この夜をジョージ5世は、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたと語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館、ロンドン塔、イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ。ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与した。19日から20日にかけては、エディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与した。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない。」と感嘆したという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和天皇は「この外遊が非常に印象的であった」と述べている。1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。なおこの際はお召し艦を使用した前回と違い日本航空のダグラスDC-8の特別機を使用した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地内のアラスカ地区軍司令官邸でワシントンD.C.から訪れたアメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンと会談、実質的にアメリカも訪問している。なお、この昭和天皇とニクソンとの会談は当初の予定に無く、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、外務大臣・福田赳夫は会談を推進する駐米大使・牛場信彦に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、天皇との会談を、ニクソンの訪中で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないかと福田が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである。当初の訪問地であり、王室同士の交流も深いデンマークやベルギー、またフランスでは国を挙げて温かく歓迎され、フランスでは、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で再会、しばし歓談している。しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマやシンガポール、インドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、このことを恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である。このときはアメリカ陸海空軍に加え海兵隊、沿岸警備隊の5軍をもって観閲儀仗を行っている。訪米に前後し、日本国内では反米的な左翼組織東アジア反日武装戦線などによるテロが相次いだ。天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日のフォードとの公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという。)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。今上天皇と比較しても、外国訪問の回数はごく僅かである。戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。特に、日本領としての歴史が浅い北海道、沖縄両地への行啓は大掛かりに実施され、記録に残っている。沖縄行幸では人力車に乗って住民の前に姿を見せた。1923年(大正12年)には台湾(台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。このときの巡幸では、三井三池炭鉱の地下1,000mもの地底深くや、満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先での逸話、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。なお、当時の宮内次官・加藤進は、天皇が東京大空襲直後に東京・下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、後の全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないか、と推測している。全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後長らくアメリカ軍の占領下にあり、返還後も1975年(昭和50年)の皇太子訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行えないことを悔やんでいた。また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には、大きな影響を与えたと見られている。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は、皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して、「"思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを" 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(当時)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ。1925年(大正14年)6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年(昭和3年)9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者・南方熊楠の下を訪れて進講を受けた。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは日本国天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。1934年(昭和9年)には、海中生物の採集に使うための天皇陛下植物採集船として「葉山丸」が建造された。これは横須賀海軍工廠で建造された全長15.1メートルの和船型内火艇で、宮内省御用船として管理されていた。第2次世界大戦中には海軍兵学校に下賜され、戦後は英豪軍が接収し瀬戸内海でヨットとして使用していたが、1949年に退役したあとは海上保安庁の管理下に入り、復元工事ののち、再び採集作業に使われるようになった。1956年には、同庁の23メートル型港内艇「むらくも」を改装・改名した「はたぐも」がその役割を引き継いだ。そして1971年には、新造船として「まつなみ」が建造されて、3代目の採集船となった。これらの艇は、普段は通常の巡視艇と同様の警備救難業務に当たっていた。なお「はたぐも」の就役後は「葉山丸」は通常の巡視艇として用いられていたが、1967年に船体を規格12メートル型に改装した(しらぎく型)。この際に主機関は引き継がれたが、旧船体は役目を終えたことから、大山祇神社(愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている。昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿や黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼び密かに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。昭和天皇の学友で掌典長も務めた永積寅彦は生物学研究の上からも堅い信仰を持っていたのではないかと語っている。また、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘している。昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権の一つとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。との間で、論争がある。美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を「戦争犯罪人」として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。昭和天皇崩御直後の、1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて、当時の内閣法制局長官・味村治は、大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないの二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はないという解釈を述べている。『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会した時、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、天皇は、と発言したとされる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしないため、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。その後、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、当時の侍従長・藤田尚徳の著書もこの事実の傍証とされている。また、当時の宮内省総務課長で、随行者の一人であった筧素彦は、最初に天皇と会った時のマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、後に『マッカーサー回想記』等で発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している。陵(みささぎ)は、東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族として祀られている。2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。平成に入ってからは「昭和天皇」が一般的であるが、敬称(「陛下」を付けた呼び方)で「昭和の天皇陛下」や「先帝陛下」と称される場合もある。また、「昭和天皇」という呼称は、それ自体に敬意が込められた追号であるため、昭和天皇陛下とは言わない。皇后美智子は義父に当たる昭和天皇を「先帝陛下」と公の場では呼んでいる。

出典:wikipedia

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