江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。江戸時代の期間は主流の学説では、慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間を指す。始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年(慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)、あるいは豊臣氏滅亡の1615年(元和元年)を始まりとする見方もある。終期については、ペリー来航の1853年(嘉永6年)や桜田門外の変があった1860年(万延元年)、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)、あるいは廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在する。徳川家康は征夷大将軍に就くと、自領である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。長く続いた政局不安は終焉を迎えた。江戸幕府は徹底的な政局安定策を取り、武家諸法度の制定や禁中並公家諸法度など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷いた。大名の多くが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与える分割統治策を実施した。以後260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国(明・清)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島の松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、既に豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教と一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結び付いたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛及び海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のように、その国で重用される例も見られた。しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策が採られ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため三都を中軸とする全国経済と各地の城下町を中心とする藩経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物が主に大坂に集中し(天下の台所と呼ばれた)、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃、菱川師宣の浮世絵などが誕生していく。この元禄期に花開いた文化は元禄文化と呼ばれる。元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・檜・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。人と物の流れが活発になる中で、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価 がある。18世紀の初め頃の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った(享保の改革)。吉宗が最も心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展に伴い、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令、堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置その他の改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、ゆきすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉(享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書、などによる法令で取り締まった。宝暦(1704-1710)~享保(1716-1735)まで40回(実際はもっと多い。)平均一年に2回くらい。。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠が1726年(享保11年)頃に吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、後に幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済等様々な分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。幕府財政は、享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年 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1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。これを打開するため、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し、さらに大規模な新田開発と蝦夷地開発を試みたのが田沼意次であった。田沼は、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認、奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。銅座・朝鮮人参座・真鍮座などの座を設け、専売制を実施した。町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業、さらに長崎貿易を推奨し、特に俵物など輸出商品の開発を通じて金銀の流出を抑えようとした。また、蘭学を奨励し、工藤平助らの提案によって最上徳内を蝦夷地に派遣し、新田開発や鉱山開発さらにアイヌを通じた対ロシア交易の可能性を調査させた。これらは当時としては極めて先進的な内容を含む現実的・合理的な政策であったが、松平定信などの敵対派が「賄賂政治」とのネガティヴ・キャンペーンを行い、天明の大飢饉とも重なって百姓一揆や打ちこわしが激発して失脚した。18世紀は北半球が寒冷化した小氷期の時代でもあったため、これが飢饉に拍車をかけたのである。続いて田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し、農本主義に立脚した寛政の改革を推進した。田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約と風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。抑商政策が採られて株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させた。また棄捐令を発して旗本・御家人らの救済を図るなど、保守的・理想主義的な傾向が強かった。対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な鎖国姿勢で臨んだ。七分積金や人足寄場の設置など、今日でいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として町人・百姓に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、民衆の離反を招いた。また、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。またこの頃より昭和の前半までは国内が小氷河期に入り1822年(文政5年)には隅田川が凍結している。それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源と市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。例えば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。松平定信の辞任後、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲った後も実権を握り続けたので、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、初め質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政が一旦潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方では、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ち毀し、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1307か村による国訴は、綿の自由売り捌き、菜種の自由売り捌きを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった。1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。幕府は、天保の改革に一環として幕領に対して御料所改革を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官等にとっては迷惑な事であると受け取られた。忠邦はまた、アヘン戦争(1840年)における清の敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画が蘭より報告されている。同月には江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させて、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆け巡り、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた。中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・播州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定(望厦条約)締結、10月には清仏通商協定(黄埔条約)を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣すること決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官ビッドルは2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。こうした中、薩摩藩や長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。経済面では、地主や問屋商人の中には工場を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行うマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利・結城など北関東地方の絹織物業などで行われた。1853年(嘉永6年)、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に黒船で強行上陸したアメリカ合衆国のマシュー・ペリーとやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、日米和親条約を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上「開国」しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍家慶が「今後の政治は徳川斉昭と阿部正弘に委ねる」と言い残して61歳で亡くなった。同年7月1日、幕府、国書を諸大名に示し意見を問い、3日にはお目見え以上の幕吏にも意見を問うた。260年間「知らしむべからず、由らしむべし」を大法則としてきた幕府にとっては大方向転換であった。開国した後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。その後、さらに1858年(安政5年)4月、井伊直弼大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の五カ国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる安政五カ国条約(不平等条約)を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚(戌午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年7月13代家定没し、10月25日に14代家茂征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露仏英蘭米5カ国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5%、輸出が86.8%行われ、相手国では英が88.2%、仏が9.6%、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7%を占めついで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった。下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。世論が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢な頃には起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の天皇=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。一時は大老井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。これより先に1860年(安政7年)1月には勝海舟らが咸臨丸で米国に向かっている。1862年(文久2年)1月15日老中安藤信正、水戸浪士等6人に襲われ負傷する坂下門外の変が起こっている。同年2月11日将軍家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日幕府、徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日松平慶永を政事総裁職、閏8月1日松平容保を京都守護職に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士等により1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の東禅寺事件が起こっている。薩摩藩では、島津斉彬が死んだ後、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清(寺田屋事件)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。1862年(文久2年)島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。1862年(文久2年)閏8月、幕府参勤交代制度を緩和し、3年目毎に1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした。同年9月7日、明年2月を以て将軍上洛する旨が公布された。公武合体の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した。尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫り、その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を攘夷実行の日とすることを約束した。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。。ところが、長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は周布政之助で、攘夷の後には各国との交流・交易の日が必然的にやって来ることを見越し、西洋事情に通じておかねば我が国の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである。これらの攘夷実行に対して京都では会津・薩摩藩らの勢力によって1863年(文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。八月十八日の政変である。翌日三条実美らの七卿落ち。長州藩主毛利慶親の世子定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。1864年(元治元年)6月5日、新撰組が池田屋を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて天王山に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が天龍寺に入った。7月19日長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩・桑名藩)と交戦する(禁門の変)。同年11月、長州藩、禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐(7月24日)を決行、同時期に、英米仏蘭4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)(8月5日)。同14日長州、4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。禁門の変での長州朝敵化に幕府の権威回復と錯覚し、1864年(元治元)9月1日、参勤交代の制を1862年改正(閏8月22日3年に1回出府などに緩和)以前に戻す。9月11日、大坂の宿舎で、西郷と勝が会合した。西郷は、勝から「共和政治」(雄藩諸侯の合議制による連合政権)について聞き、感心する。1865年(元治2年)5月16日、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。このような情勢下、1866年(慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約(薩長同盟)された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍徳川家茂が7月20日大坂城で病没するなどもあり、8月21日将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日幕長休戦を協定する。12月25日天皇が疱瘡のため36歳で没する。諡(おくりな)を孝明天皇と定められた。折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速に無くなっていった。薩長は、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、開国以来の違勅条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、国学の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての尊王論とを結びつけ、「尊王攘夷」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。14代将軍家茂が没してから約4か月後の1866年(慶応2年)12月5日に将軍宣下式が挙行され、慶喜が15代将軍となった。この期間を「将軍空位期」と呼ぶ。慶喜は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。また、仏国駐日公使ロッシュの助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握などを行った。一方、国内状況では、この年(1866年(慶応2年))、全国的に農民一揆・打ち毀しなど未曾有に多発・激化した。1867年(慶応3年)1月9日、明治天皇が践祚した。親長州派中山忠能が外祖父である中山忠能は禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけでない。1867年(慶応3年)1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁(たるひと)親王と中山忠能が宥免された。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、「倒幕」の密約が交わされた。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、後に「船中八策」と言われるものである。同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装してええじゃないかと謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍徳川慶喜は起死回生の策として大政奉還を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となった。しかし、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に倒幕の密勅を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。1868年1月3日(慶応3年12月9日)には岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通と結んで王政復古の大号令が発せられ、摂関・将軍を廃し三職が設置される太政官制度が発足した。この日の小御所会議で慶喜に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。そのなかで、岩倉は、これからの政治の方針を天下に公表する必要を感じた。慶応3年1月3~4日の鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発。そして、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)、勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、江戸城が新政府軍に明け渡され、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応3年1月15日、3職7科の制を定める。3月14日、五か条の誓文、「宸翰」、同15日、五榜の提示など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年(明治元年)9月8日、一世一元の制を定められた上で、明治と改元された。以降は明治時代と呼ばれる。江戸幕府が崩壊した後も、一部の幕府残存兵や親幕府大名が関東地方および東北地方(5月3日奥羽越列藩同盟成立)などで抵抗したが、1869年5月17日の五稜郭の陥落により(箱館戦争)、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実共に終了した。武士は華族や士族といった称号を獲得したものの、特権や禄を失い、反乱もすべて失敗したことにより、一般の国民に吸収されていった。江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。主な身分制度は、支配階層の武士と被支配階層である百姓・町人の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された(兵農分離)。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄を貰っていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人々には、勤王方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。幕府は江戸、大坂、京都に町奉行・所司代を置き重視したが、その他伊豆・日田・長崎・新潟・飛騨や重要鉱山に代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代は山城・丹波・近江など、大坂町奉行は西日本諸国の天領の采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった(京都所司代は朝廷も監視していた)。但し、彼らの用いる兵力は殆どなく、18世紀初頭の長崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となり得る譜代大名にはそのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と国持大名の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、大老の特例を除き、定員4〜5名の老中が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において三管領の一家であり、かつ複数の大国の守護を兼ねた細川氏が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同じである。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため武家諸法度違反で相当数の大名が改易・減封処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた。大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18 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19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世紀中葉に行った)。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは、紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番頭である山片蟠桃に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた。一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた(相給)。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた。大名の支配方法としては、戦時の軍役が参勤交代と天下普請への参加義務という形で残されたほか、有力大名には将軍の子女を養子や嫁として送り込むことにより身内化するという、事実上のお家乗っ取りに近い手段までが講じられた。なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世紀初頭までに地方知行制(藩主が領地の一部を藩士に与え、そこから上がる年貢収入はその藩士のものとすることを許す)から俸禄制(藩主の領地から上がる年貢収入は一旦すべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する)へと変遷させている。江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名な所では久保田藩と盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも仙台藩と相馬中村藩、萩藩と徳山藩などがある。これらは中期頃までに大体解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)の他は基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども収入を米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、自らの発展と同義と考え保護政策を行った。しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また(これが最も大きいのだろうが)大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令や帰農令などを発布するも効果がなかった。農村では名主、庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この名主、庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が寄合を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。読み書きを中心とした寺子屋や私塾、農村部における郷学(郷校)が設置され、日本人の識字率は高かった。また岡山藩の閑谷学校を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが最上徳内や間宮林蔵などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。例えば、三河の水野氏が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた仙石氏が但馬出石に転封した際、信濃の蕎麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を米に依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させる事が中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がると言う様になかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も倹約令や徳政令が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)の所も出てくるようになる。これを見て田沼意次は重商主義政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。幕府は17世紀末の元禄年間以降、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって貨幣発行益を上げて財政を持ち直そうとしたが、いずれも過度のインフレーションを招き、失敗に終わっている(徳川綱吉の元禄改鋳、徳川吉宗の元文改鋳、徳川家斉の頃の南鐐二朱銀の発行など)。その中でも荻原重秀の貨幣改鋳は緩やかなインフレをもたらし元禄文化が花開くなど適切な面もあったと評価されている。江戸時代には遠方の寺社への巡礼、参拝が盛んになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が旅行するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に歓楽街ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、西国三十三所や四国八十八箇所巡礼などがある。また、江戸時代末期には、天理教や金光教などの神道系の新宗教が現れている。身分制度は大きく分けると武士などの支配階級と、被支配階級である町人・百姓・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、公家、検校、役者、神官、長吏、穢多、非人など、様々な階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級と見なされている階級が他の地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、死刑執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割当てられ他の階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた。後に明治維新で行われた四民平等政策により、制度的差別は廃止され彼らは平民となるが、それにより死牛馬取得権などの特権を失いかえって困窮する者が多く出た。民間では社会的な差別は依然として残り、近現代の部落解放運動につながった(部落問題)。江戸時代は経済的には目まぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大坂で売ったため、大坂は諸大名の蔵屋敷が置かれ、全国の特産品が並び、盛況を活した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は株仲間を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。だが、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。対外政策としては幕府は海禁(いわゆる鎖国)政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した朝鮮通信使によって清国の動向を、またやはり度々来府したオランダ商館長によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている(オランダ風説書)。例えば天保の改革を行った老中水野忠邦は、清国でアヘン戦争が起こると、直ちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国を始めとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお長崎鳴滝に西洋医術の塾(鳴滝塾)を開いたシーボルトのもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。1772年(安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第に両を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、1837年(天保8年)の一分銀発行に至って、丁銀のような秤量銀貨を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。儒教は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中頃にかけて朱子学や陽明学が盛んになった。仏教は、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられたために(檀家制度)、一概に不振だった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた日蓮宗不受不施派は徹底的に弾圧された。神道では、幕府や諸藩の儒教奨励に伴って神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。次いで国学の隆盛に伴い儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の尊王思想にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され(湊川神社もこの頃)、天皇陵が各地で定められた。豊臣秀吉によるバテレン追放令の流れを受け、耶蘇教と呼ばれたキリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取締りを受けた。江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化され、1622年(元和8年)には長崎西坂で「元和の大殉教」として知られる大量処刑が行われた。3代将軍徳川家光の時代には、封建制度の確立、貿易・出入国の管理・統制の強化(「鎖国」の徹底)、キリシタンの禁止が三大政策となり、キリスト教徒は殉教か棄教のいずれかを選択せざるを得なくなった。1635年(寛永12年)には、長崎奉行に対する職務規定(「第三次鎖国令」)で、日本人の東南アジア方面との往来を禁止することで、宣教師の密航の手段として利用された朱印船貿易を廃止した。1637年(寛永14年)に起きた島原の乱後は、全国でキリシタン取締りが徹底され、寺請制度などの制度によってキリシタンを摘発した。わずかに残った教徒は隠れキリシタンとして幕末まで信仰を持続した。また、幕末の1865年(慶応元年)にはこの信徒たちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなったが、彼らはその後、明治政府に弾圧された(浦上四番崩れ)。江戸時代の思想は、士農工商の身分制度に依るところが大きい。支配階級である武士には文武両道の鍛錬と徹底責任を持つべきことが定められた。汚職しても切腹、失敗しても切腹、と自分の命で責任を取ることが定められたのだ。これに対して被支配階級である庶民には、この身分制度を守ること以外は、おおらかな赦しが与えられた。この結果、被支配階級である庶民が支配階級となることを望まなくなり、武器は退化し、刀は武士の象徴と言う役割となっていった。この身分制度が常識化していったものが武士道である。つまり、人々は支配者は文武両道の鍛錬を欠かさず命を以って責任を取るのが当然と考えるようになり、庶民の関心は、権力争いから文化に向くようになった。江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的、連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている。江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子供を集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったが、江戸中期くらいから郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。いくつかの地方では女性の平均的な結婚年齢は二十四歳で、男性は二十八歳だった。最初の子どもが生まれるのは結婚して三年というのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子ども二人以下で、あとの半数は一夫婦当り四人から五人の出生数(養育数)だった。
出典:wikipedia
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