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荒井郁之助

荒井 郁之助(あらい いくのすけ、天保7年4月29日(1836年6月12日) - 明治42年(1909年)7月19日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長。幼名は幾之助。諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。従五位。天保7年(1836年)4月29日、江戸・湯島天神下上手代町(東京都文京区)の組屋敷に生まれる。父は幕府御家人で後年に関東郡代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)で、郁之助は長男。幼名は「幾之助」で、祖父・荒井清兵衛(顕徳)の幼名にちなむ。荒井家は幕府の御家人で、代々小普請方を務めている家柄。郁之助出生時の荒井家には曾祖母・祖父母・二人の叔父(成瀬善四郎・矢田堀景蔵)、一人の叔母が同居する大家族であった。7歳より隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学・儒学を学び、素読を始める。8歳で昌平坂学問所勤番組の内山孝太郎に入門し、内山の私宅で素読を行う。郁之助は素読を嫌い、13歳で素読吟味を済ませたという。14歳で湯島の昌平坂学問所に入学する。15歳より六笠弘太郎の勧めで書家の関雪江に書道を学ぶ。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町に道場を持つ直心影流の石川瀬平治に剣術を学び、日置流・伴道雪派と言われる鵜殿十郎左衛門から弓術を学び、神田橋の渡辺半十郎から高麗流八条家の馬術を学ぶ。18歳より西洋砲術を学びはじめ、20歳で幕府出仕(100俵10人扶持)、蘭学を修めた後、軍艦操練所教授を命じられた。航海術・測量術および数学にも通じ、文久2年(1862年)9月には軍艦操練所頭取に就任、松平春嶽や徳川慶喜ら要人を船で大坂まで送るなど重役を果たしていたが、元治元年(1864年)4月に講武所頭取を命じられたため海軍職を一時離れ、慶応元年(1865年)には歩兵差図役頭取となり、横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受け、慶応3年(1867年)5月には歩兵頭並に進級した。慶応4年(1868年)1月に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じることとなる。箱館政権(俗に蝦夷共和国)下では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦に奮闘する。降伏後は死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕し、明治9年(1876年)6月に辞任して開拓使仮学校・女学校校長を勤める。気象学・翻訳に励み、後に1887年に新潟県の永明寺山(現在の三条市)において皆既日食観測を行った際に日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させている。明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長に就任、明治27年(1894年)、従五位を賜る。明治42年(1909年)、糖尿病がもとで永眠。享年74。息子の荒井陸男は画家となり、絵画館に収蔵されている『水師営の会見』などの作品をのこした。海軍職に深く携わっていた荒井だが、水泳が不得手で、更に下戸だった。反面、甘い物が大好物で健啖家、箱館湾海戦時も大量の汁粉を作らせていたほどだったが、性格は身分・学歴をおごらず、温和でひどく謙遜家だったと言われている。気象台長時代には、部下の報告書を見て決して訂正する事なく「至極結構」と言って許可したので、部下達からは『至極結構』というあだ名で呼ばれていた。一方、ある晩不意に入った強盗を槍で猛然と立ち向かっていって追い出したという武勇伝も残る。しかし宮古湾海戦などについて聞いても「あの時は夢中だった」と答えるのみだったと言う。戸籍には士族や華族などとは書かずに"平民"とした。その時質問を受けた荒井は、「敗軍の将、再び兵を語らず。牢獄から出てきた時に剣を捨てて、生まれ変わって再生をしたのであるから、平民となるのである」と答えたそうだ。

出典:wikipedia

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