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ベネズエラ

ベネズエラ・ボリバル共和国(ベネズエラ・ボリバルきょうわこく、)、通称ベネズエラは、南アメリカ北部に位置する連邦共和制社会主義国家である。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面する。首都はカラカス。南米大陸でも指折りの自然の宝庫として知られている。また原油埋蔵量は2977億バレルと世界一であるが、多くの国民が貧困にあえいでおり、犯罪率も高いレベルにある。コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界の一員であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、アルバ、オランダ領アンティル(クラサオなど)、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が存在する。ガイアナとは、現在ガイアナ領のグアヤナ・エセキバを巡って、19世紀から領土問題を抱えている。正式名称は、República Bolivariana de Venezuela。通称 Venezuela (ベネスエラ)。公式の英語表記は Bolivarian Republic of Venezuela。通称 Venezuela (ヴェネズエイラ)。日本語の表記は、ベネズエラ・ボリバル共和国。スペイン語を音写すると、レプブリカ・ボリバリアーナ・デ・ベネスエラとなる。通称、ベネズエラ。英語発音のヴェネズエラ、スペイン語発音のベネスエラという表記もある。漢字表記では委内瑞拉と記される。ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れた探検者、とアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」("Venezuola")と命名した事によるとされている。もう一つは、ヴェスプッチとオヘダの水夫だったが著作の"Summa de Geografía"で、彼等が出会ったこの地に住んでいたインディヘナがこの地を"Veneciuela"と呼んでいると述べており、そこから派生して"Venezuela"になったのであるとの説であり 、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉から生まれたものだということになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として人々に信じられている説は前者である。国名中の「ボリバル」とは、ラテンアメリカの解放者・シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも表記する)のことである。ヨーロッパ人がこの地を訪れる前、この地にはアラワク人とカリブ人と狩猟と農耕を行うインディヘナが居住していた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばなかったが、現コロンビアのの影響を受けていた。この地から多くの人間がカリブ海諸島に航海していった。ヨーロッパ人が今のベネズエラと接触するのは1498年のクリストファー・コロンブスによる第3回航海が初めてである。翌1499年にはスペイン人のとイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検している。その後スペイン人によって1526年にクマナが建設され、先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中の1567年にによってサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスが建設された。植民地化当初はヌエバ・エスパーニャ副王領の一部として、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴのアウディエンシアに所属していたが、1739年にはヌエバ・グラナダ副王領の一部となり、1777年にはに昇格した。植民地時代のベネズエラ経済はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クリオーリョ支配層は更なる自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺境だったために独立に有利な状況が整い、やがて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。1789年のフランス革命によりヨーロッパの政局が混乱し、19世紀にナポレオン戦争がスペインに波及するとインディアス植民地は大きく影響受けた。インディアス植民地各地のクリオーリョ達は独立を企図し、ベネズエラでも1806年にはフランシスコ・デ・ミランダによる反乱がおきた。この反乱は鎮圧されたが、1808年ホセ1世がスペイン王に即位すると、それに対する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発、インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立の気運は抑えがたいものになって行った。1810年にはカラカス市参事会がベネズエラ総督を追放。翌年1811年にはシモン・ボリバルとミランダらが(1810年 - 1812年)を樹立した。しかし、王党派の介入とによってベネズエラは混乱し、共和国は崩壊した。この時の大地震によってカラカス市の2/3が崩壊した。ボリバルは不屈の意志で独立闘争を展開し、1816年には亡命先のジャマイカから『ジャマイカ書簡』を著した。何度かのベネズエラ潜入失敗の後、ヌエバ・グラナダ人の独立指導者フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルらの協力を得てヌエバ・グラナダのサンタフェ・デ・ボゴタを解放すると、1819年にはベネズエラとヌエバ・グラナダからなるコロンビア共和国()を結成した。その後解放軍は1821年にでスペイン軍を破り、ここでベネズエラの最終的な独立が確定した。ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に向かい、1824年にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍の率いる解放軍がに勝利して全インディアス植民地の最終的独立を勝ち取り、ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となった。しかし、留守を預かっていたコロンビアの大統領サンタンデルとの関係が悪化し、コロンビアに帰国し、帰国した後もコロンビアの政局は安定せず、1830年には「エクアドル」(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)とともにカウディーリョ、の指導するベネズエラはコロンビアから脱退し、完全に独立した。翌1831年にコロンビアの独裁者、ラファエル・ウルダネータが失脚するとコロンビアは崩壊し、以降この地域を統一しようとする動きはなくなった。独立後、旧ボリバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、が勃発し、(内戦:1859年 - 1863年)に発展した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のが政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚した。グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが、1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心だったフアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続いた。ゴメス治下の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネズエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになった。1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。軍政は労働者への懐柔を行ったが、1945年10月18日には青年将校と(AD)による軍事クーデター()が起こり、軍政は崩壊した。1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者の政権が誕生するが、ガジェーゴス政権も軍事クーデター()によって打倒された。その後1952年から将軍による独裁が続いたが、ヒメネスは1958年にゼネストで失脚することになった。ヒメネス失脚後、と(コペイ党)、の間でと呼ばれる密約が成立し、左翼勢力の排除と政府ポストの各党への割り当てが確約され、この協定は新たな民主体制の基礎となった。1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党の創設者であるが大統領に就任した。ベタンクール大統領は1930年代にコスタリカ共産党の指導者だった経歴を持つが、反共主義者に転向しており、米州機構から非民主的な国を排除するベタンクール・ドクトリンを打ち出してドミニカのラファエル・トルヒーヨ政権やキューバのフィデル・カストロ政権と敵対した。これに反発した左翼ゲリラ(キューバ革命に影響を受けており、キューバに直接支援されていた)が、山岳部で蜂起した。一方で農地改革やサウジアラビアとともに石油輸出国機構の結成なども行った。ベタンクール大統領は、左翼ゲリラと戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初めて民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。1969年にはゲリラへの恩赦を公約に(コペイ党)の政権が発足した。反乱は治まり、キューバを初めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立した。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほど大いに潤う。ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めてラテンアメリカ経済機構の設立にも尽力した。しかし、1980年代を通して豊富な原油や天然資源により莫大な貿易利益がありながら貧富の格差、累積債務が増大し、プント・フィホ体制の腐敗が明らかになっていった。1989年2月27日には低所得者層により(カラカソ)が発生した。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続いた。1992年には空挺部隊のウーゴ・チャベス中佐が政治改革を求めてクーデター未遂事件を起こした。翌1993年には不正蓄財によりペレス大統領が辞任し、キリスト教社会党(コペイ党)からカルデラが再び大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。1999年に「第五共和国運動」から、1992年のクーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任した。1958年代に成立したプント・フィホ体制から排除された貧困層から支持を受け、反米とポプリスモとボリバル主義を掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称された。チャベスはジョージ・W・ブッシュ政権以降は反米路線を掲げた。2002年、アメリカの中央情報局(CIA)の援助・支援の下に軍部親米派のクーデターでいったんは失脚したが、全国的な国民のデモの激化、ラテンアメリカ諸国の抗議によって再び政権に復帰し、わずか3日間でクーデターは失敗に終わった。こうした経緯もあり、チャベスは反米的なキューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、中華人民共和国、ロシア、イランと関係を強化し、友好的な関係を維持している。また、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体や南米諸国連合、米州ボリバル同盟、南米銀行の設立を主導して中南米の結束を図った。一方で隣国である親米国コロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結し、ベネズエラ軍の軍備増強を発表、両国間の緊張が高まっている(アンデス危機)。2010年7月22日にはコロンビアとの国交を断絶し、国境に「全面的非常態勢」を敷くよう軍への命令が出され、3週間後の8月11日には国交回復で合意したが、依然として不安定な状況が続いている。ベネズエラにおいては、富裕層の所有メディアにより反チャベス的な内容のものが報道されることが多かった。チャベス政権成立以降、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。これは失敗に終わった2002年のクーデターを支持した放送局のオーナーたちに対する報復だとの見方もある。なお、チャベス派からのメディア発信も行われており「こんにちは大統領」のようなテレビ番組も放送されていた。チャベス大統領はワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げていた。しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決しないまま2013年3月5日、チャベス大統領は癌により死去した。2015年12月6日に行われた議会選挙において、1999年のチャベス政権発足以降続いてきた与党のベネズエラ統一社会党が敗北。米国などが支援する中道の反チャベス派選挙連合である民主統一会議が勝利した。チャベス派のニコラス・マドゥロ大統領の任期は2019年までであるが、チャベス派の敗北は1999年以来初のことであり、これにより21世紀の社会主義を名目に国づくりを行っていたベネズエラの構図が、親米・新自由主義のチャベス以前へと大きく回帰するものとみられている。大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。1999年12月に新憲法が制定され、大統領の権限が強化、任期も5年から6年に延長された。選出は、国民による普通選挙によって行われる。首相職は存在せず、大統領自身が行政府の長として内閣を統率する。前回投票は、2006年12月3日に行われ、現職のチャベス大統領が再選した。議会はスペイン語で"Asamblea Nacional"(アサンブレア・ナシオナル、すなわち国民議会)と呼ばれ、1999年憲法により両院制から一院制に変わった。全165議席で、うち3議席は先住民に保障されている。議員の任期は5年で、国民による普通選挙(小選挙区比例代表併用制)で選出される。2007年に改憲を巡る国民投票が行われたが、否決された。その後、大統領の再選制限を撤廃した2009年憲法が成立している。かつて「ラテンアメリカには独裁か無政府状態しかないのではないだろうか」とシモン・ボリバルが危惧したように、ベネスエラでは1830年から1955年まで一世紀以上に渡り、カウディーリョや軍人による専制政治と内戦が続いた。クーデターが起こりやすい国でもあり、一時期ほどの頻度ではないものの、近年では1992年()と2002年のクーデター未遂事件()が起こっている。1959年のロムロ・ベタンクール政権以降、石油収入を背景にベネデモクラシアと呼ばれた民主化が富裕層と中間層を主体にして進み、1941年に成立した国民行動党と、1946年に国民主義行動党が改編されたキリスト教社会党(COPEI)との二大政党制が確立した。ベネズエラの二大政党制は機能し、ラテンアメリカ諸国がクーデターによる軍事政権の成立に特徴づけられた1960年代から1980年代までの間もベネズエラはコスタリカと共に、ラテンアメリカでは例外的な民主主義の維持された国家となったが、この二大政党制は二大政党の枠組みに収まらなかった共産党などを政治から排除する体制でもあったために行き詰まりを迎え、民主化の中でも埋まらなかった経済的な格差や1980年代から続く経済の衰退、カラカス暴動に対する強権的な対応などから生まれた政治不信を背景に、貧困層に対してポプリスモ的な政策に訴えた1992年のクーデター未遂事件の主導者であったウゴ・チャベス元中佐が1999年に当選した。1999年に発足したウゴ・チャベス政権は、内政では保健と教育を最重要視する政策をとっている。低所得層が住む地区での無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例である。貧困層重視の政策は、強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けた。2002年4月にはストライキに対して軍が非常措置を執るよう命じたチャベスに軍部が反対、チャベスの辞任を発表した()。チャベスは後に自らは辞任していないと宣言している。チャベスは軍施設に拘禁されたが、暫定大統領となったが議会解散を命じたために「民主主義の保護者」を自認する軍が反発し、またチャベス支持派の大規模なデモ活動があったためにカルモナは辞任、チャベスが復権した。12月から翌2003年2月にかけては石油産業をはじめとする各産業界でチャベス辞任を求めるゼネラルストライキが起こり、ベネズエラ経済は大打撃を受けた。スト終結後1年間は経済後退が著しかったが、続く2004年には原油価格上昇もあいまって経済が急速に回復し、政権支持率もそれにともなって上昇した。そして8月15日に大統領リコールの国民投票が58%対42%で否決されると、政情は一応の安定をみた。しかし野党は国民投票と以後の選挙結果を認めず、2005年12月の議会選挙では主要野党が選挙をボイコットした。2006年12月3日の大統領選挙でチャベスは63%の得票で3度目の当選を果たし、今度は野党候補も結果を承認した。2007年12月2日実施の社会主義体制への移行と、大統領再選制限の撤廃や大統領権限の強化を定める憲法改正の国民投票で、ベネズエラ中央選管は、反対票が約51%と賛成票をわずかに上回り、否決されたと暫定結果を発表した。2009年2月15日に再度国民投票を実施、大統領の無制限再選が可能となる憲法改正が賛成多数で承認された。しかし、一連の国民投票の過程で国論の深刻な分裂が露呈し、チャベス大統領の手法や、終身大統領・独裁を狙っているという批判も起こっていた。2013年3月5日にチャベス大統領はがんで死亡、後継者としてニコラス・マドゥロ副大統領を指名した。4月に行われた大統領選挙でマドゥロは任期は2019年1月10日までとする第54代大統領に就任した。経済危機に有効な対策をとれないマドゥロと与党ベネズエラ統一社会党への不信は高まり、2015年12月6日の議会選挙で反チャベス派選挙連合である民主統一会議が112議席を獲得して勝利し、ベネズエラ統一社会党は55議席に留まる敗北を喫した。ベネズエラ軍は陸軍、海軍、空軍の三軍と、1937年に創設された国家警備隊(ボリバリアーナ国家警備隊)から構成される。徴兵制が敷かれており、成人男子は兵役の義務を有している。ベネズエラには長らくコロンビアのような文民統治の原則は存在せず、軍はもっぱら内戦、クーデター、国内のゲリラ鎮圧のために存在した。ベネズエラ軍はチャベス政権の下で豊富な石油で得たオイルマネーを背景にロシアから大量の武器を購入。着々と軍拡を進め、近隣諸国に警戒心を抱かせている。辛うじて回避されたが、チャベス政権がコロンビア革命軍を庇護していたことが問題となり、2004年のコロンビアのアルバロ・ウリベ親米政権からの侵攻も一時現実味を帯びたものになった。ベネズエラ陸軍は兵員約34,000人を擁する。制式自動小銃をロシア製AK-103シリーズに転換した。ベネズエラ海軍は、ロシア製兵器(主に通常型潜水艦)の購入により軍拡が進んでいる。ベネズエラ空軍は、ロシア製兵器(主に戦闘機)の購入により軍拡が進んでいる。主要装備はF-16A/B、Su-30など。三軍の他に国家警備隊が存在する。地方制度は、州(エスタード、estado)、市町村(ムニシピオ、municipio)、区(パロキア、parroquia)の三層だが、自治体とは呼べない区を除くなら二層になる。州は23、首都地区が1、連邦保護領が1ある。首都地区と連邦保護領は州政府にあたるものを持たない。形式上連邦制をとるが、ベネズエラは南米でも中央集権的な制度の国で、州の独立性は弱い。1989年まで、州知事は共和国大統領の任命制であった。市町村にあたるムニシピオは、日本語で人口に応じて適当に市、町、村などと訳し分けられる。市郡とする人もいる。かつては州と市町村の間に郡(ディストリト、distrito)があったが、1980年代に廃止された。基本的に、かつての郡が新しい市に、かつての市が新しい区に相当する。中にはバルガス州のような一州一市の例もある。市町村の上に立つ特別な自治体として、カラカス大都市地区とアルトアプレ郡がそれぞれの特別法によって設けられている。区はかつて教会の教区と一致したが、現在では別のもので、区別するために民区(parroquia civil)と呼ばれることもある。小さな市では一市一区のところが多く、区役所は置かれない。選挙で選ばれるのは州知事、州議会議員、市長、市会議員、区議員で、区長は任命制である。主要な都市はカラカス(首都)、マラカイボ、バレンシアがある。北にカリブ海に面し、コロンビア、ブラジル、ガイアナに接する。中央部のジャングルをコロンビアからオリノコ川が流れている。北西部には南米最大の湖、マラカイボ湖が存在する。コロンビアから続くオリノコ川流域の平原部をリャノと呼び、国土の主要部はコロンビアのオリエンタル山脈を通してアンデス山脈が延びてきており、国内最高峰はメリダ山脈に位置するである。なお、南米大陸に位置してはいるが、国土は全て赤道以北、すなわち北半球に位置している。国土はマラカイボ湖周辺のマラカイボ低地、西部から北部に広がるベネズエラ高原、オリノコ川流域平原のリャノ(スペイン語で平野を意味する)、そしてグアヤナ高地の四つの主要な部分に分けられ、ベネズエラ高原はさらに中央高地、北東高地、セゴビア高原、メリダ山脈の四つの地域に分かれる。国土北部の海岸沿いをラ・コスタ山脈が東西に連なり、東部にはアラヤ半島、パリア半島が存在し、アラヤ半島沖にマルガリータ島が存在する。国土の80%がオリノコ川の流域であり、平らな大草原が広がっている。この草原地帯のリャノが国土の35%(380,000平方kmで、ほぼ日本の国土と同じ)、グアヤナ高地が国土の45%を占めるものの、人口の圧倒的な部分は北方の海岸線沿いのマラカイボ低地とベネズエラ高原に集中し、ベネズエラの多くの都市や村落は標高800m-1300mの人間が住むのに適した気候の谷間に存在する。熱帯のため、雨季と乾季の区分がはっきりし、12月から4月が夏(ベラーノ)と呼ばれ、5月から11月が冬(インビエルノ)となり、6月から7月にかけて「サン・フアンの夏」と呼ばれる中だるみの季節が存在し、夏は乾季に、冬は雨季に相当する。カリブ海側は乾燥しており、カラカスの外港ラ・グアイラでは年間降水量が280mmしかない。リャノはサバンナが広がっており、サバンナ気候であるゆえに乾季は完全に乾燥し、雨季は洪水となるため牧畜ぐらいの生産活動しかできず、こうした気候が屈強なリャネーロや、ホローポなどの文化を生み出した。現在のベネズエラ政府は、ベネズエラの国土を海域、島嶼部、西北沿岸部、中北沿岸部、東北沿岸部、アンデス地方、リャノ地方、オリノコ川デルタ地方、アマゾン地方、グアヤナ地方という10の地理区分に分けて扱っている。アンデス共同体、メルコスール、南米共同体の加盟国である。通貨はボリバル(VEB)。2007年6月の時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つであった。しかし、2008年1月よりそれまでの1000ボリバルを1ボリバル・フエルテにデノミネーションし、現在の公式為替レートは1米ドル=2.15ボリバルとなったため、現在ではこの状況からは脱している。ゴメス時代にマラカイボ湖で石油が発見されるまでは、ベネズエラはコーヒーとカカオを主としたプランテーション農業の国だったが、1930年代には石油輸出額が第一次産品を抜き、1950年代にアメリカ合衆国、ソ連に次ぐ世界第三位の産油国となった。その後1960年代、1970年代を通して高成長が続いたが、南米で最高だった一人当たりGDPは原油価格が下落した1983年を境に急落し続け、2002年にはボリバル換算で1960年の水準にまで落ち込んだ。このことから、ベネズエラは「失われた三十年」を経験したとの分析も存在する。現在のベネズエラの経済は完全に石油に依存しており、輸出収入の96%が石油である(2014年時点)が、石油部門が雇用するのは就労人口の0.5%にすぎない。OPECの原加盟国であり1960年の設立に際して重要な役割を果たした。ポーランド、ハンガリー、クロアチアのような旧共産圏の東欧の水準に近い、中南米でトップクラスの高所得水準を誇った時期もあったが、その背景には豊かな鉱産資源があげられる。しかしながら、貧富の差が非常に大きく、ごく一部の層に富が集中しており、国内には膨大な貧困層を抱える。また、農牧業の生産性は低く、国内産業も貧弱であったために食料品を含む生活必需品の多くを輸入に頼る。チャベス政権期から開始された「21世紀の社会主義」政策は経済活動の硬直化を招き、物資不足と二桁のインフレーションが常態化している。2012年には原油価格の高騰で5パーセントの成長率まで回復した。しかし世界的な原油価格安により、2013年以降のベネズエラ経済は、ハイパーインフレーションに進行する危機的状況を迎えている。公的な発表では、2015年9月から12月のインフレ率が108.7%に達したが、専門家はこの二倍に達すると見ている。2016年1月にマドゥロ大統領は経済緊急事態を宣言する事態となったが、食料品の高騰がつづき、日用品不足が深刻となっている。ベネズエラは鉱物資源に恵まれた国である。有機鉱物資源では、サウジアラビアに次ぐ埋蔵量の超重質油がオリノコ川流域に存在し、ベネズエラ湾にも膨大なガスがある。ただし、石炭は759万トンと少ない。金属鉱物資源では、ボーキサイト(500万トン、第7位、1.9%)、世界シェア1.9%の鉄鉱(1150万トン、第12位)、同1.4%のニッケル鉱(1.8万トン)のほか、金、ダイヤモンド、リンを産する。このため、輸出に占める鉱物、もしくは鉱物を原料とする工業製品の割合は金額ベースで約90%に達する。品目別では原油 (58.3%)、石油製品 (23.6%)、鉄鋼 (3.1%)、アルミニウム (2.0%)、化学薬品 (1.5%) である。ベネズエラ国営石油公社(PDVSA)はアメリカ合衆国国内に現地法人を設立し、ベネズエラで生産した石油を販売している。2009年にベネズエラ湾で大規模な天然ガスの埋蔵が発見されたと発表した。推定埋蔵量は7、8兆立方フィートで、原油に換算すれば最大で14億4000万バレルとしている。南東部のオリノコ高地にはテーブルマウンテンやサルト・アンヘル (英:エンジェルフォール)で有名なギアナ高地がギアナ三国まで続いている。カリブ海には、ロス・ロケス諸島やマルガリータ島などのビーチリゾートがある。アンデス山脈の観光地としては、メリダがある。ここには世界最長のロープウェイ(全長12.6km)があり、そこの最高地点ピコ・エスペホからベネズエラ最高峰のボリバル山(5007m)へ行くことができる。カラカス、バレンシア、マラカイボには地下鉄が走っており、カラカス首都圏にはロステケス鉄道などの近郊鉄道も走っている。また、チャベス政権の誕生以降、ベネズエラ国鉄による大規模な鉄道建設が急ピッチで進められており、カラカスと近郊を結ぶ一部の路線が完成した。航空はシモン・ボリバル空港によって南アメリカ、北アメリカやヨーロッパ諸国と結ばれている。ベネズエラ人は多くの人種と民族が合流して生まれており、現在も移民が流入し続けている。先住民はインディヘナのカリブ人、アラワク人などが住んでいたが、現在先住民の社会を維持しているのはアマゾンの密林の中に住む少数である。白人は植民地時代のスペイン人が主で、当時は植民地社会の上層部にあった。独立後は他のヨーロッパ諸国からの移民も増え、現在もポルトガルなどから流入しており、最近では中南米諸国、特に隣国コロンビアからの、難民に近いような移民が多い。近年では政治的な理由により富裕層や中間層が国外へ流出している。また、不況や社会不安、就職難により、大学などで高度な教育を受けた移民2世以降が移民1世の母国に多く流出している。アフリカ系ベネズエラ人は植民地時代に奴隷としてつれてこられた人々の子孫である。アジア系は他より少ないが、独立後に移民した華僑(中国系)がおり、小商店主として成功した。しかし、南米の国の中で日本からの移民はかなり少ない方であり、日系ベネズエラ人の人口は現在では800人程とウルグアイの日系人の倍程度である。世代を重ねて混血が進んだため、人種集団をはっきり区分することはできない。人種別統計は長くとられておらず、そうした調査も実施されていない。しかし、北米、日本、欧州では各国の研究者が独自に調査した構成比が出回っている。それによれば、メスティーソ67%、ヨーロッパ系21%、アフリカ系10%、インド系2%とされる。ベネズエラ人の主流の意識は自らをメスティーソとし、ベネズエラをメスティーソの国とするものである。そして現実社会では他のラテンアメリカ諸国と同じように上流階級が白人で占められている。当然のことだが白人が他人種より上にあるという関係が個人間でなりたつわけではなく、下層の白人も中流の黒人もいる。インディヘナはスリア州やオリノコ川南部に多く居住している。主な移民の出身地としては、イタリア、スペイン、ドイツ、ポルトガル、シリア、レバノン、インド、パキスタン、中国、日本、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、エクアドルなど。1940年代から1950年代にかけてヨーロッパからの移民ブームがあり、1950年から1958年までの間に、ポルトガル人を中心に実に45万人の移民が流入した。特に有名なドイツ系の入植地としてコロニア・トバールが挙げられる。独立直後の1830年にはおよそ80万人ほどだった人口は、20世紀に入ってからも余り増加せずに1920年には推定で200万人ほどだった。しかし第二次世界大戦後に急速に人口が増加し、1967年には推定900万人、1983年の調査では1639万人となっており、2007年には2600万人を越えた。人口の都市化率は85%であり、73%は北部のカリブ海沿岸100km以内に住んでいる。国土の約半分を占めるオリノコ川以南には人口の5%しか居住していない。言語はスペイン語(ベネズエラ・スペイン語)が公用語であり、かつ日常生活で最も使われている。31のインディヘナの言葉があり、政府は先住民の言語を通用させる努力を規定しているが、話す人は限られている。その他にも移民によってドイツ語、ポルトガル語、ガリシア語、イタリア語などが話されている。宗教はローマ・カトリックが76%、プロテスタントが2%、その他が2%である。その他の宗教としてはイスラム教、ユダヤ教など。2001年のセンサスによると、15歳以上の国民の識字率は93.0%であり、ラテンアメリカ域内では中程度の部類に入る。6歳から15歳までの国民を対象に義務教育が行われており、初等教育と前期中等教育は無償である。主な高等教育機関としてはベネズエラ中央大学(1721年)、ロス・アンデス大学(1785年)、カラボボ大学、スリア大学(1891年)、シモン・ボリバル大学(1967年)などが挙げられる。チャベス政権が推進していた社会政策の一つに「第二次ロビンソン計画」がある。初等教育(6年)の未終了者を対象とし、受講期間は二年。第一回終了式が、2006年8月、首都カラカスで行われ、32万5000人が修了証書を受け取る。修了者は、「リバス計画」(中等教育)や「見つめ直そう計画」などに進むことが出来る。これらの計画の受講中は、奨学金が給付される。さらに、ベネズエラの教育で特色あるものとしてエル・システマというメソッドで行われる音楽教育が挙げられる。ホセ・アントニオ・アブレウが1975年に始めたもので、主に貧困層の児童を対象に無償で施されるクラシック音楽の教育は、ストリートチルドレンの救済や非行少年の更生に大きな成果を上げてきた。35年以上にわたり歴代の政権も支援をしており、35万人がこの教育を受けている。現在ではボリーバル音楽基金によってシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ、児童オーケストラなど200以上もの楽団が運営されており世界的にも高い評価を得ている。また、このシステムで学び指揮者となったグスターボ・ドゥダメルのように国際的に活躍する音楽家も輩出している。近年治安は急速に悪化しつつある。1999年以降殺人事件発生率は増加の一途を辿っており、2003年をピークに一端減ったものの、2005年8月以降は再び増加に転じた。2012年現在、殺人発生率はホンジュラスについで世界第二位である。営利誘拐の増加も社会問題となっている。カラカス市内では特急誘拐が多い。現職警察官や国家警備隊員は腐敗しており、さらに彼らによる犯罪も見受けられ、モラルの低下が問題となっている。凶悪事件の20%以上は首都カラカスで発生している。地方はまだ安全であるが、特にコロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍や極右民兵の活動地域であるため危険である。2002年11月にはコロンビア国境に近いタチラ州サンクリストバルで日系移民の夫妻が誘拐、殺害される事件もおきている。ベネズエラの文化はインディヘナの文化の上にスペイン、アフリカの影響が強く築かれ、様々な文化が融合し、ラテンアメリカ的な伝統に大きく影響を受けている。中央アメリカから広がるトウモロコシ文化圏の国であり、アレパと呼ばれるトウモロコシから作るパンのようなものが一般に食べられている。飲み物としては、ロン(ラム酒)が広く飲まれており、お茶やコーヒーの代わりに熱したチョコレートを飲む習慣もある。スペイン料理やイタリア料理も一般に食べられている。先コロンブス期には先住民の口承文学が存在した。植民地時代にスペイン人の文学が取って代わり、19世紀に入ると独立を巡る政治的過程の中で、フランシスコ・デ・ミランダの自伝などの文学が発達した。独立後はロマン主義などが発展した。19世紀後半から20世紀の間はモデルニスモとアバンギャルドが文学潮流となった。特に重要なベネスエラ出身の文学者としてはフアン・アントニオ・ペレス・ボナルデ、エドゥアルド・ブランコ、アンドレス・エロイ・ブランコ、ロムロ・ガジェーゴス、アルトゥーロ・ウスラール・ピエトリ、ミゲル・オテーロ・シルバ、マリアーノ・ピコン・サラス、アドリアーノ・ゴンサレス・レオン、ホセ・アントニオ・ラモス・スクレ、ラファエル・カデナス、ビクトル・ブラーボ、サルバドール・グアルメンディアなどが挙げられる。1964年にスペイン語圏の優秀な小説家に対して贈られるロムロ・ガジェーゴス賞が設立された。リャノから生まれた舞踊の音楽ホローポは国民音楽であり、アルマ・ジャネーラ(平原児(ジャネーロ)の魂)というオペレッタから生まれたフォルクローレは第二国歌とも呼ばれている。スペイン伝来のクアトロ(4の意味から四弦)やアルパなどの楽器や、その他にはマラカスが広く使われている。日本でも良く知られているコーヒー・ルンバはベネスエラ出身のアルパ奏者、ウーゴ・ブランコによって演奏されてヒットした曲である。古くはメレンゲ(ドミニカ共和国のメレンゲとは異なる)がダンス・ミュージックだったが。これはやはりカリブ海諸国の常としてサルサに取って代わられた。このためサルサにおいてベネスエラは何人かの重要なミュージシャンを輩出している。他にも1960年代からマラカイボ周辺でガイタ(スペインのガリシア地方のバグパイプに由来)というスタイルのリズムが流行し、1980年代からカリブ海岸の都市で黒人音楽タンボールが復古されている。著名な音楽家としては、フォルクローレのセシリア・トッドやシモン・ディアス(『カバージョ・ビエホ』の作曲者)、セレナータ・グアヤネーサ、ロックのデソルデン・プブリコスなどが挙げられる。シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラおよび同オーケストラ出身の指揮者であるグスターボ・ドゥダメルも、その背景となる国家的«音楽»教育システム「エル・システマ」とともに、高い評価で現代クラシック音楽界に迎えられている。ベネズエラは映画製作が盛んな国ではないが、社会問題となっている営利誘拐を取り扱ったジョナサン・ヤクボウィッツ監督の『ベネズエラ・サバイバル』(2005)は国際的に公開されたベネズエラ映画である。2012年現在、ベネズエラはそれぞれ6名のミス・ユニバース、ミス・ワールド、ミス・インターナショナルを輩出している。ミス・ベネズエラは各代表選考を兼ねた、ベネズエラ国内のミス・コンテストである。ベネスエラ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ベネズエラの世界遺産を参照。スポーツにおいては、アメリカ合衆国の強い影響により、南米諸国では例外的に野球が盛んであり、世界でも有数の野球大国となっている。日本でも活躍したボビー・マルカーノをはじめ、ロベルト・ペタジーニ、アレックス・カブレラ、アレックス・ラミレス、エルネスト・メヒア、ロベルト・スアレスらがお馴染みの存在である。なかでもラミレスは日本プロ野球において初のベネズエラ人監督(中南米諸国を含めても初)となっている。アメリカ合衆国のメジャーリーグベースボール(MLB)にも多くの選手を送り込んでおり、アメリカ合衆国以外のMLB選手輩出国の中では、ドミニカ共和国に次いでいる。外国人監督として初めてMLBを制覇したシカゴ・ホワイトソックス元監督のオジー・ギーエンを始め、史上5人目のサイ・ヤング賞満票受賞2度を誇る最強左腕投手ヨハン・サンタナ、2006年ナリーグ最多勝の一人カルロス・ザンブラーノ、MLBの年間最多セーブ記録保持者でK-RODの愛称でも知られるフランシスコ・ロドリゲス、2012年のアリーグ打撃三冠王ミゲル・カブレラ、2010年のアリーグのサイヤング賞投手フェリックス・ヘルナンデスといったスター選手も多数輩出している。冬季には、国内で8球団からなるウィンターリーグ()が開催される。このウィンターリーグには、米国や日本など、海外でプレーしている選手の多くが調整を兼ねて参加する。このリーグ戦で優勝したチームは、ベネズエラ代表としてカリビアンシリーズに出場する。ワールド・ベースボール・クラシックの参加国の1つである。第1回大会ではベネズエラ国内の期待を集めながらも2次リーグで敗退し、監督批判が起こった。第2回大会ではサンタナ、ザンブラーノといった投手陣の柱を欠きながらも、強力打線を武器に準決勝進出を果たした。第3回大会では強豪のプエルトリコ、ドミニカ共和国と同じ組だった1次ラウンドで敗退した。1940年代から50年代にかけては世界選手権で優勝3度を記録するなどキューバ等と並ぶアマチュアの強豪として君臨していたが、米州他国が強化を推し進めたのに加え、国内選手のMLB志向が強くなっていったため代表チームの低迷が続き、オリンピックには北京大会まで一度も出場を果たせなかった。アメリカの強い影響によりバスケットボールもベネズエラで盛んなスポーツのひとつに挙げられている。ヒューストン・ロケッツでプレーしたオスカー・トーレスや現トロント・ラプターズのグレイビス・バスケスらNBAプレイヤーも輩出しており、カール・ヘレラ(トリニダード・トバゴ出身)はベネズエラでプロデビューし、NBA、ナショナルチームでも活躍していた。また、ハロルド・キーリングも米国生まれながらベネズエラ代表に名を連ねていた。1974年にはプロリーグのLPBが発足されており、リーガ・スダメリカーナではが2度ベスト4に進出している。国内ではボクシングに代わってバスケットボールが野球と並ぶ人気スポーツになりつつある。バスケットボールベネズエラ代表チームは1990年に世界選手権初出場を果たし、1991年には南米選手権初優勝、1992年にはアメリカ選手権準優勝を決めてバルセロナオリンピックに出場。21世紀に入っても2002年・2006年と2大会連続で世界選手権に出場している。オリンピック出場は前出のバルセロナ大会1回のみであるが、2012年ロンドン大会は世界最終予選まで進み自国開催した。2015年アメリカ選手権ではバスケスらを欠きNBAプレイヤー不在も準決勝で主力にNBAプレイヤーを揃えたカナダを撃破、そして決勝でもアルゼンチンを下して初優勝とともに24年ぶり2度目のオリンピック切符を掴んだ。日本との関係としては桜木ジェイアールが挙げられる。桜木はアメリカ出身で現在は日本国籍であるが、来日前にLPBのマリノス・デ・アンソアテギに在籍していた。南米諸国の中では数少ない、サッカーが最も盛んなスポーツではない国であるが、近年は人気が高まりつつある。同国代表は南米サッカー連盟所属10ヶ国で唯一、W杯本大会出場経験がない。また、南米選手権「コパ・アメリカ」では初の母国開催となった2007年大会でベスト8入り。続く2011年大会では第4位に輝くなど、南米大陸中心の国際大会では好成績を残すこともある。ボクシングも有名であり、かつては最古の国際機構であるWBAの本部が置かれており、4階級王者レオ・ガメス、27戦全KO勝ちを収めながら自殺した2階級制覇のエドウィン・バレロ、日本を拠点として3階級制覇を達成したホルヘ・リナレスら世界王者も多数輩出しているが、近年は興行数も激減し低迷気味。さらに2007年からは、WBAの本部も前本部のパナマに戻っている。また、オリンピックではロンドン大会まで獲得したメダル12個のうち金メダル1個を含む5個はボクシングで獲得したものであり、競技別では最多である。二輪モータースポーツでは1990年代終わりまでは優秀なライダーを多数輩出していた。WGP250のチャンピオン、カルロス・ラバード、同じくWGPで活躍しF1に転向したジョニー・チェコットなどが知られる。ベネズエラ人のF1ドライバーパストール・マルドナドは、2011年にウィリアムズF1と契約。その年の第3戦中国グランプリで初完走。2012年第5戦となるスペイングランプリで初表彰台、初優勝を成し遂げた。他にベネズエラ人F1ドライバーとしては、1960年のエットーレ・キメリ(同国初のF1ドライバー。総合格闘技・レスリングでは、真騎士が高校入学時から日本に留学、仙台育英学園高等学校から日本大学(いずれもレスリング名門)と進み、卒業後、育成選手として戦極と契約した。2009年8月8日には第3代ライト級キング・オブ・パンクラシスト(パンクラス王者)となった。BMXではここ数年でトップライダーになったダニエル・デアーズが有名である。

出典:wikipedia

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