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コートジボワール

コートジボワール共和国(コートジボワールきょうわこく)、通称コートジボワールは、西アフリカに位置する共和制国家。東にガーナ、北にブルキナファソ、マリ、西にギニア、リベリアと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はヤムスクロ(ただし、実質上の首都機能は旧首都のアビジャンが担っている)。かつて日本では「象牙海岸共和国」と呼ばれていたが、後述の理由から現在は用いられない。独立後、親仏政策の下でイボワールの奇跡()と呼ばれる高度経済成長を達成したが、1990年代の政治不安の後、2002年にはが勃発したほか、2010年の大統領選挙の結果をめぐり4ヶ月間も混乱が生じた()。国名は公用語のフランス語を正式名称としており、(レピュブリック・ドゥ・コットディヴワール)。通称が ( )。フランス語では、国名・地名などの固有名詞が2つ以上の単語から成る場合はトレデュニオン(ハイフン)で繋げることになっているため "Côte-d'Ivoire" との表記も見られるが、同国政府はトレデュニオンを挟まないものを正式名称としている。"Côte d'Ivoire" は、Côte(海岸)、d'(「〜の」を意味する de のエリジオン)、Ivoire(象牙)、すなわち「象牙の海岸」という意味である。独立以前の植民地時代から、この地域にある海岸の名称として以下のように各国語への意訳が行われていた。独立後も各国はこれらの意訳を外名(エクソニム)として用いていたが、1985年にフランコフォニー国際機関がフランス語の国名"Côte d'Ivoire"を意訳しないよう求める決議を行い、翌1986年から政府が意訳による外名の使用取りやめとフランス語国名の採用を各国に要請している。そのため、現在の英語表記はフランス語に従って、(リパブリク・ァヴ・コウトゥ・ディヴワ)、通称が ()とされ、アメリカ合衆国政府もこの呼称を採用しているが、英語圏の民間レベルでは今なお意訳の"Ivory Coast"が頻繁に見られる。中国語の場合、外交関係を有する中華人民共和国政府では音韻転写の'(クォウトゥディウワー)を用いているが、外交関係を有しない中華民国(台湾)政府では現在も'(シャンヤーハイアン)が用いられている。日本ではコートジボワール政府から外名変更を要請された1986年以降、外務省大臣官房総務課が内規として定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワール」も選択表記と言う形で公文書への使用が可とされた。これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『世界の国一覧表』が「象牙海岸」から「コートジボワール」に表記を変更し、日本郵便の宛先表記やNHKを始めとするマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワール」が使用されるようになっている。それ以降も法文上はなお「象牙海岸共和国」が使用されていたが、2003年に国名の日本語標準表記の根拠法令とされる在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(在外公館設置法)別表1の改正で当時は既に一般的でなくなっていた他の国名表記と合わせて見直しが実施され、法文上の表記に関しても「象牙海岸」を廃して「コートジボワール」に統一された。これは政体の変革等に伴う変更を別にすれば、日本語における国名の標準表記が変更された初めての例である。2003年に行われた在外公館設置法の別表1改正以降の日本語表記は、コートジボワール共和国。通称がコートジボワール。一部の地図帳や教科書などでは、コートジボアールと言う表記ゆれも見られる。日本語では字数が多いためコートジと略されることもあるが、駐日コートジボワール大使館は「コートジボワールという国名に残念ながら、略称は存在しない。コートジボワールとそのまま表記してほしい」としており、在コートジボワール日本大使館では公式としての略称ではなく関係者間で何について話しているか分かっているという前提であるとしている。15世紀にポルトガル、イギリス、オランダなどヨーロッパの貿易船が奴隷と象牙の売買に来航した。、胡椒海岸(穀物海岸)、奴隷海岸などとともに、この地には象牙の海岸(Côte d'Ivoire)という名が付けられた。17世紀半ばにフランスが西アフリカ経営に乗り出した。1843年から1844年にがグラン・バッサムの王と条約を締結して保護国とし、徐々に沿岸部から内陸部へと支配領域を拡大した。(1806年 - 1807年)、(1811年)、(1814年 - 1816年)、(1823年 - 1831年、1863年 - 1864年、1873年 - 1874年、1895年 - 1897年)、(1900年)。アフリカ分割が始まると、1893年にフランスの植民地フランス領西アフリカとなり、1904年にアビジャン(1983年まで首都)が建設された。全土の制圧は1917年にまでもつれ込んだ。シャルル・ド・ゴール仏大統領の植民地放棄の流れの中で、1958年12月4日にフランス共同体自治国となり、1960年8月7日に正式独立、初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)のフェリックス・ウフェ=ボワニが就任した。PDCIによる一党制とウフェ=ボワニ大統領のカリスマ性によって政治は安定し、開放政策が採られ、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を遂げ、その発展は「イボワールの奇跡」()と呼ばれた。冷戦終結に伴う国際的な民主化の流れの中で、1990年10月に初の複数候補による大統領選が行われ、ウフェ=ボワニ大統領が7選。11月には初の複数政党制での総選挙が実施されたが、PDCIが圧勝したが、イボワール人民戦線(FPI)など野党も議席を獲得した。1993年にウフェ=ボワニ大統領が在職33年で死去すると、憲法上の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任した。1995年10月の大統領選では、主要野党がボイコットするなか、ベディエ大統領が圧勝。11月の総選挙でPDCIが絶対多数を確保した。1999年12月24日、現職に不満を持った軍のロベール・ゲイ元参謀長らがクーデターを強行し、翌日には軍事政権「国家国民救済委員会」を設置、2000年1月にゲイが第3代大統領に就任した。5月にゲイ大統領は民政復帰に向け、新憲法制定のための国民投票や大統領選、議会選を順次実施する方針を発表した。7月に新憲法草案が国民投票で承認され、10月22日には大統領選も実施されたが、軍事政権は集計作業を中断させてゲイ大統領の当選を一方的に発表した。しかし、市民らの抗議行動でゲイは逃亡し、10月26日にはFPIのローラン・バグボが第4代大統領に就任した。バグボ大統領は27日にFPI選挙対策幹部のンゲサン・アフィ()を首相に指名、挙国一致内閣が成立したが、共和連合(RDR)は新政府に参加しなかった。2002年4月、ゲイによるクーデターでフランスに亡命したベディエ元大統領がPDCI党首に再選された。6月29日にはブルキナファソ国籍と見なされて大統領選などへの立候補を拒否されたRDR党首のアラサン・ワタラ元首相がコートジボワール国籍を取得し、大統領選へ出馬するものと考えられた。2003年9月19日、バグボ大統領の軍機構改革で退役を迫られたことなどを不服とする軍人ら約750人による反乱軍「」(MPCI)が、アビジャンやブアケなど主要都市で蜂起した()。政府軍との戦闘によって、反乱軍の黒幕と見られるゲイ前大統領が死亡。一方の政府はドゥドゥ内相が殺害され、アミチア・スポーツ相も身柄を拘束され、22日までに戦闘による死者は270人、負傷者は300人に上った。22日にフランスは自国民らの保護を目的に国軍をコートジボワールへ派遣し、27日までに日本人11人を含む1,500人を救出した。29日には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)がガーナのアクラで緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。バグボ大統領は10月12日にクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。対する反乱軍は17日にブアケでセネガルなどの調停に応じて停戦協定に調印、政府側も停戦に応じた。ECOWASは26日に停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、11月には政府と反乱軍がトーゴのロメで和平交渉を開始した。11月28日に西部のマン周辺で(MJP)や(MPIGO)を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、29~30日にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、2003年1月にパリ郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「停戦」を宣言した。この内戦の段階で反乱軍コートジボワール新勢力(FN)が急速に勢力を伸ばし、北部の地域を占領して支配下に置いた。政府は病院関係者や教師に対して、FN支配地域からの移動を命令したため、北部では医療・教育が崩壊し、衛生環境悪化など人道危機に直面している。「停戦」後も政府とFNの対立は続いて南北の分断は固定化し、国民の移動は禁じられた。2004年10月にFNが挙国一致内閣より離脱した。政府軍は11月4日にFN占領地域を空爆、6日に政府軍がブアケのフランス軍を誤爆し、9名の仏軍兵士が死亡した。フランス軍は報復として、アビジャン空港などに駐機していたコートジボワール空軍機(Su-25×2機、ヘリコプター5機)を破壊した。この反動で、政府放送の扇動を受けた、シャルル・ブレ・グデが指導する「」(バグボ大統領派の愛国青年運動)がアビジャン市各所で暴動を始め、フランス人の民家やフランス関連施設などに対する略奪・暴行・殺人事件が発生した。避難できない外国人およそ数百名を急遽退去させるため、仏軍は市内の要所を一時的に確保、その間に退去者をヘリコプターでアビジャン空港まで移送した。また、この際にフランス軍と群衆の間で銃撃事件が発生したが、実際の死傷者数、威嚇射撃の有無などに関する両国政府の主張に食い違いがある。2005年4月、南アフリカの仲裁によって政府とFNら反政府グループの間で、「敵対関係の解消」「反政府組織の武装解除」などが合意されたが、手続きは停滞した。国際連合安全保障理事会は10月に大統領選挙を行うことを計画していたが、武装解除と大統領選挙実施に必要な住民登録ができないために、9月にバグボ大統領の任期を1年延長することを認めた。12月にはセイドゥ・エリマン・ジャラ()首相に代わって、西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)総裁のシャルル・コナン・バニー()が首相に指名され、挙国一致内閣が再度組閣された。2006年1月、国際連合コートジボワール活動(UNOCI)やアフリカ連合(AU)傘下の作業グループが、国民議会の任期延長認めないと発表したとして、「ジュンヌ・パトリオット」たちがアビジャン市内の道路を封鎖した。また、国内のフランス軍とPKOに従事する各国軍(バングラデシュ、モロッコ、セネガルなど)の基地、フランス大使館、国営テレビ前で抗議活動が行われた。西部に駐留するバングラデシュ軍はそれらに発砲して4名が死亡した。結局、ナイジェリアのオルシェグン・オバサンジョ大統領が、作業グループにはそのような権限はないと認めて、騒動に終止符を打った。しかし7月19日、シャルル・コナン・バニー首相の推し進めている、選挙実施のための身分証明書の発行方法に不満を持つ「ジュンヌ・パトリオット」が、アビジャン市内の主要な道路にバリケードを築いて、交通を遮断するなど、騒動が再燃した。2010年10月31日、内戦終結後の和平プロセスの停滞から再三延期されていた大統領選挙が行われた。選挙には14人が立候補し、過半数を得た候補者はおらず、現職のローラン・バグボ大統領("Laurent Gbagbo"、2000年10月26日就任、イボワール人民戦線)と野党を率いるアラサン・ワタラ元首相の上位2人が決選投票に進み、11月28日に投票が行われた。選挙管理委員会は2日、ワタラ候補が投票総数54%を得て、45%のバグボ大統領を破ったと発表した。しかし、バグボ陣営はワタラ陣営による不正があったと主張し、バグボ大統領派の影響力が強く、中立性が疑われている憲法評議会は3日、「北部でワタラ陣営による投票行為の妨害や不正があった」として一部地域での投票結果を取り消し、バグボを当選者とすると発表した。これに反発してソロ首相は辞任した。5日、バグボはアビジャンにおいて大統領就任宣誓式を行った。これに対抗してワタラも同じアビジャン市内のホテルで国連平和維持部隊に守られながら就任宣誓を行い、ソロ前首相の続投を承認した。欧米諸国や国連は、ワタラ当選の選管発表を支持するとの声明を出している。これによりコートジボワールは二重政府状態に陥り、混乱が続いた。二重政府のバグボ政権は12月6日にジルベール・アケ("Gilbert Marie N'gbo Aké")を首相に任命し、首相もギヨーム・ソロとアケのふたりが存在するという異常事態が続いた。しかし、2011年4月11日、ワタラ側の軍の攻撃によってバグボが拘束され、バグボとアケの失脚が確定した。これを受け、4月12日にはバグボ側の軍の参謀総長や警察と憲兵隊のトップらがワタラに対して忠誠を誓い、5月6日にはワタラが就任宣誓を改めて行い、異常事態は解消された。コートジボワールの著作権法では、著作権の保護期間を「著作者の死後99年」と定めている。この規定は世界で2番目に長い保護期間である(2003年以降はメキシコの「100年」が最長)。コートジボワール軍は陸軍、海軍、空軍の三軍と憲兵隊、大統領親衛隊から構成される。兵制は選抜徴兵制である。人員は陸軍が6,500人、海軍が900人、空軍が700人、憲兵隊7,600人、大統領親衛隊1,350人である。2007年の国防予算は3億ドルだった。コートジボワールは2011年以降、12の地方(District)と2つの自治区(Districts Autonome)から成る。ケッペンの気候区分によれば、海岸部は高温多湿の熱帯性気候、内陸部のサバンナはサバナ気候に属する。1年の平均気温は25度C~33度Cで、11月~3月が暖かく乾燥、3月~5月が暑く乾燥、6月~10月が暑く湿潤と分けられる。海岸には多数の川が注ぎ、ラグーンと熱帯雨林が発達する。最北部の500mへ徐々に高度を上げる。最高地点は西部国境のニンバ山(Nimba)で標高は1752m。天然港が無く、高波と雨季の洪水が自然災害である。IMFの統計によると、2013年の国内総生産(GDP)は約282億ドルであり、佐賀県とほぼ同じ経済規模である。また、同年の一人当たりGDPは1,175ドルであり、世界的には非常に低い水準である。独立後経済は順調に推移し、「西アフリカの優等生」と呼ばれ、「イボワールの奇跡」の下で比較的高い経済水準を維持した。一人当たりのGDPも他のブラックアフリカ諸国と比較した場合は低くない水準である。主要産業はカカオ(世界一の輸出国)、コーヒー、イモ類、天然ゴムの生産を中心とする農業。他に鉱業(石油、ダイヤモンド)、林業、工業(食品加工、石油製品)も盛ん。カカオ、石油製品、材木の輸出が好調なことにより貿易は毎年約10億ドルの黒字を記録しているが、膨大な累積債務を抱え財政を圧迫。(バウレ人、アンイイ族など)、周辺に住むの潟湖系Lagunaire(など)、クル系(、、など)、(Dans、など)、(マリンケ人、など)、を話すヴォルタイック系(、、など)の6大グループがあり、国内には63もの民族が住んでいる。フェリックス・ウフェ=ボワニの政策により周辺国から多くの移民が流入した。公用語はフランス語である。他にジュラ語、バウレ語、セヌフォ語、、ヤクバ語、アンイイ語、コロ・ジュラ語、セメ語などの各部族語も使用。2008年の推計によれば、北部を中心にイスラームが国民の38.6%、南部を中心にキリスト教が国民の32.8%を擁し、土着の伝統宗教が11.9%、無宗教が16.7%である。6歳から12歳までの6年間が初等教育、12歳から16歳までの4年間が前期中等教育となり、16歳から19歳までの3年間の後期中等教育の後、高等教育への道が開ける。初等教育からフランス語は教授され、前期中等教育から英語などの外国語の教授が始まる。2000年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は48.7%(男性:60.8%、女性:38.6%)である。主な高等教育機関としてココディ大学(1964)、ダボボ・アジャメ大学(1966)の名が挙げられる。通常の総合大学の他にもグランゼコールや各種高等専門学校が存在する。コートジボワールはカリブ海やアメリカ合衆国の音楽を輸入することには長けていたが、ガーナやギニアのように独自の音楽ジャンルを生み出すことはなかった。一時エルネスト・ジェジェによって伝統音楽を見直す潮流が出来たが、ジェジェが1983年に死去するとその試みは中途で止まり、現在もコートジボワール独自の音楽ジャンルは生まれていない。しかし、そのためにむしろレゲエやヒップ・ホップなどの外来音楽の消化は盛んに行われた。特に全アフリカを代表するレゲエ歌手としてアルファ・ブロンディが挙げられる。コートジボワール国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が3件、文化遺産が1件、合わせて4件が存在する。また、無形文化遺産にはコートジボワール単独の『アファウンカハのグボフェ「社会の横吹きラッパの音楽」』(2008年)や、他二国との共同により「マリ、ブルキナファソ、コートジボワールののにまつわる文化的な慣習と表現」(2012年)が登録されている。幾つかの祝祭日は信仰する宗教や宗派により違ってくる。イスラーム関連の祝祭日に関してはイスラム暦によるため直前にならないと確定しないだけではなく、年によりいつ頃の季節になるかさえ違ってくる。サッカーが盛んであり、コートジボワール代表は1992年のアフリカネイションズカップで優勝し、2006年のドイツ大会では予選でカメルーン代表を破って本戦への初出場を果たした。主なプロクラブとしてはASECミモザ、アフリカ・スポールなどの名が挙げられる。2021年にはアフリカネイションズカップの開催国となる予定である。開催されれば1984年大会以来37年ぶりの開催となる。

出典:wikipedia

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