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軍刀

軍刀(ぐんとう)とは、軍用に供された刀剣類の総称。戦闘や指揮時の装備品、正装・礼装や儀仗時の服飾用として使用される、刃のつけられていない模擬刀身仕込みの儀礼用の刀剣・短剣類も軍刀に含められるが、銃剣やナイフ類は範囲には含まない。本項では主に日本の軍刀について詳述する。明治維新を経てまもない大日本帝国は、富国強兵のもと近代的な軍隊を創設するために欧州列強国の指導を受け、喇叭から火砲に至るまで装備の西洋化を推し進めた。まずフランスに範をとった帝国陸軍は1875年(明治8年)の太政官布告にて軍刀(「刀」)を制式し、将校(士官)が佩用(帯刀)する刀は外装・刀身ともに純サーベルとした。なお、同布告では野戦や常勤時に使用する軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も制式されており(のちに廃止され軍刀に一本化)、様式はサーベルではなくエペとされていた。しかし西南戦争における抜刀隊に対する評価や、日本人古来の刀に対する認識などから、外装は制式のサーベル様式を踏襲しながらも、刀身を日本刀に変え佩用する事が次第に一般的となっていった。更に1935年(昭和10年)前後には、陸海軍ともに従来のサーベル様式外装に代わり、当時の時勢と戦訓を反映した日本古来の太刀を模した外装が制定された。時代や状況にもよるが、基本的に軍刀を佩用できた軍人は陸海軍の兵科(兵種)・各部/科を問わない全ての将校/士官(海軍では特務士官を含む)と准士官、陸軍の見習士官、および陸軍士官学校/海軍兵学校の本科に属する士官候補生(将校生徒)。更に陸軍の下士官兵においては、乗馬本分者たる騎兵・憲兵・輜重兵といった特定の兵科・兵種に属する帯刀本分者と、徒歩本分者である歩兵などでも連隊・大隊本部附、営外居住者たる曹長を中心とする一部の上級下士官も該当する。下士官兵(帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり管理も兵器扱いであるが、将校准士官の軍刀は上述の1875年の太政官布告以降、陸海軍解体に至るまで基本的に陸海軍服制上の制式であり、そのため純粋な兵器ではなくあくまで軍服などと同じ軍装品扱いであった。そのため他の軍装品一式と同様に官給品ではなく私物であったため、階級に見合う軍刀を自弁調達する必要があった。外装など軍刀としての形は大まかには制式されていたものの、軍服と同じく各個人の嗜好や趣味により実に様々な拵や刀身の軍刀が存在した。また、前述の通り官給品が支給されていた下士官兵の間でも、上級下士官や、外地・前線にいる者は私物として誂え軍刀を佩用することもあった。20世紀以降は兵器の近代化と進化した戦闘ドクトリン、騎銃とともに軍刀を主装備とする陸軍の花形兵科であった騎兵の衰退により、概ね第一次世界大戦から戦間期を境に各国では野戦における軍刀の使用のみならず、常勤時の佩用までも廃止する傾向にあった。第二次世界大戦の時点で軍刀を軍人の主要装備とし、また将校准士官が軍装品として常時佩用していたのは日本陸海軍と幾つかの国のみであった。第二次大戦後の現代では、日本の自衛隊を含む各国軍とも完全に儀礼用の服飾品という扱いとなっている。陸海軍の大元帥たる天皇は大元帥佩刀(大元帥刀、天皇佩刀)を佩用した。大元帥佩刀の外装は陸海軍の軍刀剣類に準じ、陸軍式御服着用時は陸軍の刀を、海軍式御服を着用時は海軍の刀を佩用する。元帥たる陸海軍大将は元帥佩刀(元帥刀)を佩用した。元帥佩刀は後述の陸海軍の軍刀剣類とは外装や刀身、および刀としての位置づけはまったく異なる。陸海軍の軍人軍属を問わず、上記の制式軍刀外装とは異なり旧来の日本刀拵(打刀・太刀)を軍刀として使用できるように改造したものである。最低限軍刀の形を成すため、鞘に革覆を巻き吊鐶を付したものが大半で、鍔や兜金の一部を軍刀部品に変更したものもある。その歴史は古く、日露戦争当時の写真にも佩用がみられる。支那事変勃発以降、折からの軍刀供給不足によりこうした改造品の佩用は認められていた(陸軍は昭和13年制式時に制式刀外装に類似する刀の使用を認めている)。軍刀/長剣と異なり刀身は細身の模擬刀身で、柄も片手握りの純西洋式のサーベルである。将校准士官のみが佩用する。基本的に陸海軍の将校/士官は最低限この指揮刀/儀礼長剣と軍刀/長剣の2振を所有し、概ね正装時・礼装時・演習時・平時の常勤には前者を、戦地・戦時には概ね後者を佩用し使い分けていた。太平洋戦争勃発後は軍刀を常時佩用することが多くなり次第に指揮刀/儀礼長剣は廃れていったが、少なくない数が引き続き終戦まで使用されている。本身を仕込む軍刀には多くの場合、刀身の不意な先走りや脱落を防ぐストッパーの役割を果たす独特の機構が備わっている。柄の縁にボタンを有し、鍔を通り鞘の口金部分とを繋ぐ金属バネ仕組みの駐爪留め(ちゅうそう)と、縁および切羽部分に付けた革バンドを鍔に通し鞘のスナップボタンまたはバックルに合体させる釦留め/革バンド留め、護拳の端部分が可動し凹部を鞘の凸部に引っ掛ける護拳留め、また古来日本刀拵からの伝統である単純なハバキ留めが存在する。他に少数ではあるが飯田式錠蓋といった複雑で特殊なつくりの物もあった。刀緒/手貫糸、剣緒とは、軍刀の柄頭に付けられる紐状の物で、階級の誇示や一種の装飾、抜刀時に手を通し不意の脱落を防ぐなどの意味がある。軍刀本体と一組のセットになるもの。将校准士官の軍刀には、古刀から現代刀まで旧来の日本刀の刀身(打刀・太刀)をそのまま軍刀外装に納めたものと、試行錯誤の末に軍刀向けに考案製造された工業刀(特殊軍刀々身)の二種類がある。なお、どちらの刀身も相当数が軍刀として使用された。前者の場合、高価な本鍛錬刀や家伝の刀を持っているということから精神的に心強かったと言われるが、反面「本格の刀だから」「家宝だから」などの理由だけで実用性を考慮していない場合もままあり、実戦では失格レベルの脆い刀や鈍刀(なまくら)、砥ぎ減りなどで傷みの進んだ刀を戦地に持ち出して手痛い目に遭ったという話も多い。また、価値ある古い刀が戦地で大量に失われる原因ともなった。これらを考慮し、一部では新たに軍刀向けの刀を作る刀匠に対し、鍛えた刀が実戦に耐えられるかどうか落下装置を用いた耐久テストが課せられていた。なお、下士官兵用の官給軍刀は外装刀身ともに陸軍造兵廠などで生産された工業刀である。後者には極めて多くの種類が存在する。古くは明治期、主力小銃である村田銃の開発者である村田経芳陸軍少将が、裁断した日本刀とゾーリンゲン鋼を元として考案した村田刀があり、これは試斬試験のみならず日清戦争・日露戦争の実戦において実用刀としての性能の高さが証明された。続いて昭和期に登場した工業刀の一群がある。これらは昭和刀と一括りにされるが、実際には製造法により様々な種類がある。単純に鋼を刀の形にして丸のまま油焼入れを施した大型ナイフとでも言うべきものから、作刀の工程の一部に機械を導入したもの、旧来の日本刀と同じく塗土を用いて焼入れをして刃紋のあるもの、複数種の鋼を組み合わせて作られたものなど千差万別である。使用された鋼の種類も多岐に渡るが、昭和期には安来鋼へと収斂していった。開発者・製造者も、上は国家予算を用い多数の技術者(軍人のみならず帝国大学など民間の技術者も多く含む)と資料を擁し最高の設備をもつ軍造兵廠(工廠)や、高度な技術力をもつ公立や民間の施設、大学の研究所などから、市井の小規模工場・鍛冶場まで多数にわたる。砥師として有名な本阿弥家も工場を持っていた。また戦地で臨時に代用品として自動車のリーフスプリングを刀に仕立てた例もある(「スプリング刀」の呼称はここから来ている)。性能もまた相当の差があり、切味・耐久性共に劣る粗悪品(特に初期)から、「折れず曲がらず良く切れる」と旧来の日本刀を凌駕する高性能品まである。多くは主に切味の持続性よりも、修理や交換が利きにくい軍刀の性格から、長期使用に耐える粘りがあって折れないことに重点を置いた設計になっていた。このため代償として、最初の数撃は素晴らしい切味を示すが、砥がずに使っているうちに切味が非常に悪くなった。しかし、前述の通り補給に余裕のない戦地では、その折れない頑丈さや惜し気無く使える点が高く評価されていた。上記の点や歴史的経緯、特に第二次世界大戦敗戦後の連合国軍最高司令官総司令部による刀狩に対し、日本刀の定義の極端な固定化("玉鋼を原料とし折返鍛錬によって作刀された美術品")がされたため、戦後は軍刀に対し偏見や誤った悪評(主に特殊軍刀々身:昭和刀や官給軍刀に対し、新々刀製法至上主義や美術刀至上主義による盲目的な粗悪扱い。例、満鉄刀は鉄道線路の軌条(レール)を玉鋼の代用にした粗悪刀説など)が事実のように喧伝されていたが、現在は国内外の軍刀研究家の働きやインターネットの普及により正しい研究や再評価がされている。反面、昨今の急激な軍刀人気に対し、希少な官給軍刀外装を中心にその精巧複製品を実物と称しての偽装販売や、後世の手を加えた合わせ品の横行など問題も発生している。以下は主に将校准士官刀として組織的に作刀された現代刀。軍人以外では陸海軍軍属、消防吏員(警察含む)、鉄道省、総督府といった省官庁などに勤める文官や、有爵者などにも常勤・正装時の佩刀剣の定めが存在していたともされる。特に軍属などの刀の外装は陸海軍の軍刀に準ずるないし擬似するものが多い。自衛隊では、儀礼刀(陸上・海上・航空三自衛隊共通)として刀が採用されている。外装はサーベル様式で刀身は模擬刀身である。民間業者が納入している。旧日本軍と同様に、幹部自衛官の儀礼刀の扱いは兵器ではなく服装(服制)の一部となっている。儀礼刀は防衛駐在官などが外国において礼装をする場合、儀仗隊指揮官が特別儀仗服装をして儀仗を行う場合、練習艦隊が遠洋航海に際して儀仗を行う場合などのほか、幕僚長が国際儀礼上特に必要があると認め、儀礼刀を着用することを命じた場合に佩用される。また、防衛大学校学生も儀礼刀を着用することがある。その制式は自衛隊法施行規則(昭和29年総理府令第40号)の別表の定めるところによる。軍刀を使う戦技として、陸軍戸山学校は明治期に片手軍刀術を、大正期に両手軍刀術を制定した。武道家が考案した流派としては、台湾出兵・西南戦争に従軍した隈元実道が編み出した振気流や、第一次世界大戦の青島の戦いに従軍した大島治喜太の片手軍刀流がある。昭和期には陸軍戸山学校で短期速成的な軍刀操法が制定された。この軍刀操法は太平洋戦争後、戸山流という名称の居合道となり、民間に普及した。海軍は陸戦主体でないため、陸軍に比較すれば熱意は低かったが、昭和期に軍属の高山政吉が考案した高山流抜刀術が指導されていた。軍刀は「登録が受けられない、所持ができないといった誤解」が多いが、決してすべての軍刀が登録を受けられないわけではない。むしろ古式半鍛錬刀などは多く登録を受けており、造兵刀・満鉄刀も登録済刀身が相当数現存している。原則、登録が受けられないのは三十二年式軍刀・九五式軍刀など明らかな工業刀である。これらは日本刀という概念から外れ道具と見なされるため、登録せずとも所持することが許されている。終戦後、相当数の軍刀は官給刀を中心に廃棄処分または連合軍将兵の戦利品・スーベニアとして海外に流出したが、元来私物である将校准士官刀は供出品を除き元の佩用者が所有し続けている事が多い。古美術品として価値がある古刀・新刀・新々刀などは勿論のこと、一般的に美術刀剣界で価値がないと言われている昭和刀も文化庁ないし各都道府県教育委員会で登録を受けたものは、元佩用者本人や遺族以外にコレクターなどが所有している。工業刀など登録を受けられなかった刀身は博物館など公共施設による管理を受けている例もある。また例外として一代限りの所有許可を受けて本人や遺族が所有している場合もある。近年所有者の高齢化・刀剣類所持の規定が厳格に運用されている現状を鑑み、所有者の死去に伴い処分若しくは最寄りの市町村教育委員会・博物館・自衛隊広報施設への寄贈が行われている。

出典:wikipedia

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