九十九里浜(くじゅうくりはま)は、千葉県房総半島東岸にある、刑部岬と太東崎の間の、太平洋に面している全長約66キロメートルの海岸。日本の白砂青松100選と日本の渚百選に選定されている。ここを中心にして円を描くと、南西諸島を除く北海道から九州までが調度半円内に収まり、犬吠埼とともに日本列島を扇に見立てた要の位置にある。また日本列島に沿って北上する黒潮がここを境に離れる個所でもあり、「黒潮文化」の北限に位置している。だがその一方九十九里平野中央を流れる栗山川は「サケの回帰の南限の川」とされ、親潮の影響を受ける南端の地域でもある。沿岸には、日本全体の40パーセントに相当する80例にのぼる丸木舟の出土があり、九十九里浜は香取海とともに危険な犬吠埼沖を通過を避けて設定された、四国・近畿地方から東北地方を結ぶ水上交通の要衝であった。北東側の下海上国造の領域には、古墳時代当時の海岸に面した高台にしゃくし塚古墳・北条塚古墳・御前鬼塚古墳などが築造され、その後壬申の乱に敗れた大友皇子の妃耳面刀自媛が父藤原鎌足の故地鹿島を目指し上陸したが、病に倒れ亡くなったといわれ匝瑳市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある。また平安時代、アテルイに敗れた征東大将軍紀古佐美が真光寺を建立、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は蝦夷征討の途中松崎神社に参拝したと伝えられ、天慶2年(939年)承平天慶の乱に際しては、寛朝僧正が難波津から下向している。なお、奈良時代東国巡錫のおり行基が海難防止のため一宇を建立したことに始まり、平安時代空海によって改修されたと伝わる不動院長勝寺は、その後幾度かの改修を経て維持され続け、文化遺産として現存している。古名は玉浦(玉の浦)であるが、源頼朝の命で1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名で、中央とされる山武市蓮沼には箭挿神社がある。またその故事に因んで、矢指浦の別称がある。有史以前には、貝塚などの遺跡のほか、多数の丸木舟の出土例があり古くから水上交通を通した文化圏が形成されていたとみられている。なお、丸木舟の出土地点は現在の栗山川とその支流借当川流域の、旧椿海周辺の海抜4メートル前後の地点に集中しており、当時海岸であったことがわかる。5世紀以前この地域は、千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した「大海上国」ともいうべき勢力圏の一部であったが、6世紀に畿内の大王の有力な外戚である和珥氏の一族武社国造が進出、大海上国は上海上国造と下海上国造に分割され、衰退したとする考えもある。文献史料によるものとして、正史である『日本書紀』卷7景行天皇40年10月の条は、日本武尊が「海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至った」とし、茂原市本納には弟橘媛を祀る橘樹神社がある。また『続日本後紀』承和2年(835年)3月16日条の物部匝瑳熊猪改姓記事には、「昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、……」とあり、日本武尊東征のほか物部氏も進出したとされ、小川台古墳群を物部氏の奥都城とする説もある。古墳時代が終わり仏教が導入されると、下総国では現在の匝瑳市に大寺が置かれた。匝瑳市大寺にある龍尾寺には香取海上流の龍角寺とともに印旛沼の龍伝説が伝えられ、古代の官寺があった地であることをものがたる。また奈良時代上総国では、宝亀5年(774年)に上総介となった藤原黒麻呂が、現在の茂原市付近の牧を開発、初期荘園藻原荘が成立している。平安時代になると、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、小事の子孫とされる物部匝瑳氏が、足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられ、この地は陸奥国への要衝であり朝廷の蝦夷経営の拠点であった。また、寛平元年(889年)宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下した平高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ子の良兼ともに上総国に下向、武射郡の屋形を本拠とした。なお、当時の上総国の国府は茂原市付近にあったとされる。奈良時代に藤原黒麻呂が開発した藻原荘は、曾孫の菅根等によって寛平2年(890年)興福寺に寄進された。この功績の他、菅根は左遷を諫止するため参内しようとした宇多上皇を内裏の門前で阻み、菅原道真大宰府左遷に果たした功績もあり、後に参議に任じられ公卿に列するが雷に打たれて死に道真の祟りと噂された。治承・寿永の乱に際し、千田荘の領家藤原親政が、源頼朝に加担した千葉氏に敗れ、後上総広常が粛清され、九十九里浜沿いの各地においても千葉氏一門の台頭を招くことになった。嫡流の千田氏の領した千田荘の他、匝瑳南条荘は千葉常胤の弟椎名胤光に譲られ、子孫の椎名氏が代々地頭を勤めた。建長年間(1249年-1256年)には椎名氏の外護を受けた浄土宗第3祖の良忠が、ここを拠点に関東各地の教化を行った。南北朝の騒乱においては、千田荘を本拠とした千田胤貞は、従弟の貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没し宗家復帰はならなかった。このため宗家の地位を失った千田氏はその後衰退していった。その後、享徳の乱で、原胤房に襲われた千葉胤直・胤宣親子が千田荘に逃れるが、馬加康胤に討たれて千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。胤直の弟胤賢の子実胤と自胤は八幡荘に落ちのび、将軍足利義政が派遣した東常縁の支援はあったが、足利成氏が敵対的な介入を図ったため、さらに武蔵国に逃れることとなり下総帰還は叶わなかった。この時常縁に同行していた酒井定隆は常縁の帰国には同行せず、後に土気城に入り上総酒井氏の祖となった。徳川家康の関東移封にともない、九十九里浜沿岸には木曾義昌・保科正光・本多康俊・石川康通らが入部したが、木曾氏が改易された他は関ヶ原の戦いの後加増移封、幕府直轄地や旗本知行地となり大きな藩は置かれなかった。大坂冬の陣の前年の慶長18年(1613年)、徳川家康の命により、江戸城と九十九里浜の中央を結ぶ(鷹狩を名目とした軍事プレゼンスとされる)、ほぼ一直線の道路が作られた。このルートは大政奉還後、小間子牧の開墾(鍋島藩)、陸軍練兵場=現在の自衛隊下志津駐屯地(明治新政府)、房総導水路東金ダム(水資源開発公団)などによって分断されたが、山武市小松からが、千葉県道124号緑海東金線(砂押県道)、船橋までは、千葉県道69号長沼船橋線(船橋から江戸城までは京葉道路)として現存している。江戸時代には、現在の白子町や大網白里市、九十九里町などの九十九里浜の南部の地域では紀州漁民の入植が盛んとなり、紀州とのつながりと漁業による繁栄があり、「九十九里浜といえば地引き網によるいわし漁」のように言われるようになった。明治維新後機械揚繰網が登場すると、遠浅な砂浜海岸であり良港に恵まれず漁船の大型化への対応がむずかしかった九十九里浜の漁業は衰退し、農業や観光が産業の主体となった。
出典:wikipedia
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