THE ALFEE(ジ・アルフィー)は、1974年8月25日にデビューした、日本のロックバンド。EMI Records Japan所属。事務所はProject III(田辺エージェンシーのグループ会社。1985年3月30日設立)。元は明治学院高等学校の生徒を中心とした「コンフィデンス」というグループだったが、メンバーの入れ替わりを経て、そこにいた桜井賢と、都立墨田川高校に在学していた坂崎幸之助、明治学院高校のまた別のバンドにいた高見沢俊彦、コンフィデンスのオリジナルメンバーだった三宅康夫(G)の4人でデビュー。1975年、三宅が脱退し3人になり、現在に至る。アイドルフォークバンド「ALFIE」としてデビュー。レコード会社からの脱退を経て、1979年に自作の曲で「Alfee」として再デビュー。元来はフォークグループだったが、アルバム『doubt,』以降、ロックの要素を取り入れ、シングル「別れの律動」からバンド名を「ALFEE」と表記変更し、ロックバンドとして活動を始める。その後、ヘヴィメタルやプログレッシヴ・ロック、パンク・ロックあるいはダンスミュージックなどの要素も取り入れて活動を展開。アルバム『夢幻の果てに』のインタビューで、高見沢は「レゲエだけはどうしても理解できない」と話している。1983年の「メリーアン」のヒット以降、30年以上にわたりTHE ALFEE名義において全てのシングルをチャートインさせるなど、コンスタントなセールスを維持している(詳しくは後述)。1986年、シングル「SWEAT&TEARS」のジャケットから、グループ表記をALFEEからTHE ALFEEに変更。「コンフィデンス」→「Alfie」「ALFEE」→定冠詞THEの追加、というバンド名変遷の理由は特になかった。2014年3月18日付でこれまでの功績が称えられ、明治学院大学で初の名誉学士称号が授与された。高見沢は、「やっとプロフィールから『中退』を外せる。これからはTHE ALFEE(大卒)と名前を変えて頑張ります」と、喜びを語った。ルーツとされるのは1960〜70年代の洋・邦楽ロック&フォークソングであるが、時にはシンセサイザーの多用やギター奏法など、その時々の音楽、ハード・ロックやヘヴィメタル、プログレッシヴ・ロック、ニューミュージック等も取り入れている。メンバー3人が均等にリードヴォーカルをとり、曲毎(曲によってはパート毎)にリードヴォーカルを変える。THE ALFEE自体及び、メンバー各々に異業種とのコラボレーションもこなす。ジャン・ポール・ゴルチエとの共同企画によるコンサートやエルメスによるアルバム「orb」のジャケットのアートワーク製作等、アパレル業種とのコラボレーションや、レーシングドライバーの野田英樹や、1997、1998年のル・マン24時間レースに日産自動車から参戦した星野一義へのパーソナルスポンサー等を務めている。野田英樹には応援歌「Wild Bahn!」を書き下ろしている。明治学院高校在学中に、桜井の美声に目をつけた同級生が誘ってフォークグループ「コンフィデンス」を結成、サイモンとガーファンクル等のコピーをしていた。バンド名の由来は、S&Gの「ブックエンド」の歌詞に「confidence」とあることから。同時期に高見沢は別のクラスでロックバンド(ツェッペリン・ジュニア・スペシャル)を結成し、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル等をコピー演奏していた。コンフィデンスが出場したアマチュアフォークコンテストにて、坂崎と出会う。坂崎は別のグループを結成して活動するが、その後坂崎のグループが解散したのを機に坂崎はコンフィデンスの一員としてその後のコンテストに飛び入り参加して出場。小室等に注目されデビューのきっかけをつかむ。桜井、坂崎、高見沢、三宅の4人は明治学院大学に進学した。ロックバンドを解散していた高見沢を坂崎が引き入れ4人体制となった。大学は坂崎は1年で学費未納により除籍処分、桜井と高見沢は中退のため卒業はしていなかったが、前述の通り2014年3月、明治学院大学よりミュージシャンとしての功績を評価され、同大学初となる名誉学士の学位が授与された。3人は名誉卒業生として明治学院大学学位授与・卒業式へ出席し40年越しの卒業を達成した。当初は全員が作詞・作曲していたが、1979年の再デビュー以降はほぼ全て高見沢が作っている。コンフィデンスの名はデビューに際して、株式会社オリジナルコンフィデンス(現オリコン株式会社)、及び同社発行の音楽業界誌と混同の恐れがあるとして、赤坂にあるTBS会館(彼らの原盤権を持つ日音が入居していた)の下にある店の名前と、ドレミファソラシドのシドの両方の意味で「シド」という名前で動き出した。それがいつの間にか「Alfie(アルフィー)」に変わっていたという。いずれも所属事務所の田辺エージェンシーによる決定であり、坂崎は「着せ替え人形のようなものだった」と語っている。デビューに際し『リーダーは誰だ』と訊かれ『当番制だ』と答えると怒られ、きちんとしたリーダーがいた方がいいだろうと言うことで坂崎が話術の巧みだということでリーダーに選ばれたといわれる。ビクター音楽産業から「浪漫派アルフィー」のキャッチフレーズのもとにアイドルフォークバンドとして、シングル「夏しぐれ」デビューする。デビューは1974年8月25日で、銀座の山野楽器でイベントを行っている。しかし、このデビュー曲はヒットには至らず、続く「青春の記憶」も同様であった。1975年に三宅康夫が脱退し3人体制となった直後の3枚目のシングル「府中捕物控」(作詞・作曲:山本正之)が発売日直前に会社の意向で一方的に発売中止となったのを機にビクターとの契約を解除する。その後、レコード会社の所属のない時代が続き、事務所の先輩である研ナオコ・由紀さおり・かまやつひろし・堀内護(MARK)等のバックバンドを務めながらライブハウスで活動を続けた。ステージでは何とか観客をつかもうとコミカルな演出やMCを行う等、自身を印象付けようと努力を重ねるが、その一方で「このままでいいのだろうか」というジレンマに悩みながらの試行錯誤が続く。その間、メンバーの3人はオリジナル詞曲作成に取り組み始める。中でも大野真澄(元ガロ)からアドバイスを仰いだ高見沢が、楽曲の質、量ともに一番優っていたとされる。ライブハウス時代の楽曲で、再デビュー後にレコード化された曲、タイトルが変更された曲もある(シングル曲やアルバムのページを参照)。また現在でもCD化されていない曲もある。「ラブレター」や「星空のディスタンス」は当時は、ギターインストゥルメンタルとして演奏されていた。2015年春ツアーのパンフレットの特典のトークCDでは、ライブハウス時代に「東京」という楽曲があったことを明かしている。1979年にAlfee(アルフィー)と改称してキャニオンレコードから「ラブレター」(作詞・作曲:高見沢俊彦)で再デビューする。アルフィーのリーダーは1974年のデビューの頃から長い間坂崎が務めていた。フォークグループとして、高見沢も長年アルフィーではエレキギターを弾かない事にこだわっていたが、1980年に出された3rdアルバム『讃集詩』のプロデューサー井上鑑の提案で、「落日の風」の間奏でエレキのソロを入れる。またその頃、雑誌のインタビューで「アルフィーの曲は室内向けだよね」と言われたことに高見沢が反発。翌年の夏に野外イベントを開催することになる。また1982年リリースの5枚目のアルバム『doubt,』からロック系のアレンジで発表する曲を増やし、さらにリーダーを高見沢に交替し、ロックグループとしての色彩を強くする。1982年夏に、所沢航空記念公園で行われた初の野外イベント「ROCK'N'ROLL FIGHTING NIGHT」では、サポートメンバーを加え、ドラムス・キーボードを含むいわゆるロックバンド編成で演奏を行った。この年の暮れに発売されたシングル「別れの律動」以降、再デビュー時から用いていた「Alfee」のロゴマークを変更し「ALFEE」とした。この年よりサポートメンバーを加えて演奏されるのが通常のスタイルとなった(サポートメンバーの歴史は#全国ツアーの項を参照のこと)。ロック編成初期の頃からドラムスがツーバスでアレンジされている曲もあった。ロック・バンドとしてのイメージ作りとして、高見沢がマーシャルのギターアンプにこだわり、1983年初の日本武道館公演で、セットとしてマーシャルのスピーカーを積み上げたり(マーシャル・ウォール)、変形ギターを多用してテレビ出演するなどの演出がされた。1983年、コンサート動員力はあったもののヒット曲がない状況で8月24日に初の日本武道館公演を行う。それに続く形でアルバム収録曲の予定であったがシングルで6月にリリースしていた「メリーアン」がヒットし、同年の『第34回NHK紅白歌合戦』にも出演することとなった。これに続いて翌年には「星空のディスタンス」、「STARSHIP -光を求めて-」などのヒット曲が続き、『ザ・ベストテン』(TBS系)などの音楽番組の常連ともなった。またこの頃より、歌番組以外のいわゆるバラエティ番組への出演も増加した。「メリーアン」以降のシングルCD(レコード)が50作連続でオリコンのランキングトップ10に入り続けている(2016年現在)。毎年1月下旬頃に行われる「大阪国際女子マラソン」のイメージソングを、1987年の第6回大会における「夢よ急げ」以来担当し続けている。1994年、20周年を記念してポニーキャニオン内に独自レーベル(BE∀T BOYSも含む)「Zeit」を立ち上げる。また、同年9月より毎月20日を「THE ALFEEの日」と銘打ち、数か月間シングルまたはアルバムを定期的にリリースした。1996年のアルバム『LOVE』や1998年のアルバム『Nouvelle Vague』ではストリングスアレンジが多用され、1997年に東芝EMI(→EMIミュージック・ジャパン→現・ユニバーサルミュージック)に移籍した。2001年のシングル「Juliet」、アルバム『GLINT BEAT』ではブリティッシュ・ロック、パンク・ロックのサウンドを取り入れた。春・秋のライヴツアー・夏のイベントライヴを中心に活動中。2000年以降は、シングルは年に1枚(2009年はデビュー35周年を記念して3枚のシングルが発売された)。オリジナルアルバムは3 - 5年に1枚、その他新録音のベスト・アルバムやアニバーサリーイヤー企画のリリースをしている。ライヴDVDは毎年発売され、2008年8月からはEMIミュージック・ジャパンからではなく、プライベートレーベルのアルフレッドからになっている。2015年2月21日より、ドキュメンタリー映画『THE ALFEE 40th Anniversary Film THE LAST GENESIS 〜40年の軌跡と奇跡〜』が全国ロードショーにて上映された(前日の2月20日には、東京・シネマメディアージュにて、メンバーの舞台挨拶と先行上映が行われた)。THE ALFEEは1982年夏ごろより、コンサートツアーにタイトルをつけ、毎年全国を回ってコンサートツアーを行っている。基本的に春(3月下旬〜7月上旬)と秋(9月中旬〜12月下旬)の2回ツアー(以下、「春ツアー」、「秋ツアー」と記述)が行われ、春ツアーと秋ツアーでステージセットやツアーの基本となるセットリストが変わる。また、2011年より秋ツアー終盤の日本武道館、大阪城ホールでのアリーナ公演を「ファイナルシリーズ」と銘打ち構成を一新、大ホール向けの照明演出を用いた演出、特別グッズの販売等が行われる。その為アリーナツアーは、冬のイベント(冬イベ)的な要素がある。1公演ごとにセットリストが大幅に変わる場合がある。最も多い年では年間113公演をこなし、2015年現在でも年間50公演から60公演以上を行うなど、ライブを中心に活動を続けている。※サポート体制が、ツインドラム、ツインキーボードの体制の時期あり。ツアーだけではなく、レコーディングでも多くの楽曲に関わっている。1990年代の一時期にはライブ活動時に限りTHE ALFEEの名を「バンド」扱いとし、コンサートのビデオソフト等ではTHE ALFEEの正メンバー3人とほぼ同格にサポートミュージシャン名も列挙するなどしていたが短期間で終わり、それ以降は明確に区別されている。彼らは夏の風物詩として野外で大規模なコンサートを行ってきた。数回の例外はあるが例年屋根のない場所で行われ、原則として同じ場所での公演は控えてきた。しかし晩年は場所探しの難航から、これらの原則は守ることが徐々に困難となっていた。2007年にはそれまで25年間連続して行ってきた夏のイベントを一時休止、2009年8月8日、9日に開催された「YOKOHAMA PERFECT BURN」をもって、長年続けてきた夏の野外イベントは終了した。その後屋内ではあるが、さいたまスーパーアリーナで夏のイベントが3公演開催されている。1998年にはニューヨーク、1999年にはベルリンと、企画あるいはイベントのオファーにより海外においてコンサートを行っている。2000年から2001年の年明け、2004年から2005年の年明けまで現時点では通算2度のカウントダウンイベントを行っている(2015年現在)。ALFEEとして出場NHK-FM『THE ALFEE 終わらない夢』※当欄では「3人がレギュラー出演」の番組のみを指す。1981年、ディスコ調に乗せてビートルズの曲のサビ部分をメドレーで繋ぐ「ショッキング・ビートルズ〜スターズ・オン45」(Stars on 45)などのアーティストのメドレー物の世界的流行を受け、『吉田拓郎のオールナイトニッポン』の番組企画で、吉田拓郎のメドレー曲をアルフィーが制作。これが思わぬ反響を呼び、アルフィーの名を伏せ、覆面バンド・ビートボーイズ(BEAT BOYS、1988年以降はBE∀T BOYS)名で「スターズ☆オン23 吉田拓郎(後に『ショック!! TAKURO 23』と改名。CDはこの名前で発売された。現在は廃盤)」としてレコード発売。ビートボーイズとは、ビートルズとビーチボーイズから由来する。歌っているのは誰か? とクイズを出したが、殆どの葉書がアルフィーとの答えだった。この正解発表時に正体を伏せたまま(坂崎がじょんのれん、高見沢がポール・マッカーサー、桜井が祥寺張扇(じょうじ・はりせん)と名乗った)『吉田拓郎のオールナイトニッポン』に覆面を被り乱入した。そのレコードは本人たちの意に反してアルフィー本体の過去最高レコード売り上げ枚数を超えて売れた。その後BE∀T BOYSは、1988年に趣向を変えダンスグループとして活動を開始した。この際も、アルフィーとは全く違うとして本名を用いず、サクライ(桜井賢)をリーダーとし、アルバム、シングルをそれぞれリリースし、アルフィーのコンサート活動を縮小してこちらのコンサートツアーや野外ライブ「GO! GO! NAGOYA-DAGANE!」(チケットは宝地図)も行われた。また、アルフィーに敵愾心を持っている設定をしており、楽器を持っての演奏はしなかった。現に『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演した時は「僕たちはアルフィーは嫌いだ」と発言し正体を隠した。同番組で1度だけアルフィーと共演を果たしている。また『歌のトップテン』に出演した際には、アルフィーとの違いを以下のように説明している。ライブ活動は1989年以来行っていなかったが、1996年の冬の日本武道館・1998年の立川での夏のイベント前夜祭、2004年のアルフィー秋ツアー内でゲスト出演、2006年、2007年の秋ツアーにも同行した。2007年の武道館公演では新曲を披露した。2009年、2014年の武道館公演でも登場し、数曲演奏した。CDシングルのリリースとしては、突発的に行われていたが、THE ALFEEの東芝EMI(現・EMIミュージック)移籍以降は発売されていない。1988年以降は、作詞に松井五郎や麻生圭子、アレンジャーに 武部聡志、コーラスに鈴木康博、等など外部の音楽家を起用。さらに『GO!GO! BE∀T BOYS!!』に収録された「Let's! Break Dance!!」では小室哲哉がアレンジを担当。当時、BE∀T BOYS(ALFEE)とTM NETWORKが共演したラジオ番組『日立FAN!FUN!TODAY』で高見沢が「小室君から戻ってきたら違う曲になっていた」と発言。これに対し小室が「でき上がった曲を聞いたら違う曲になっていました」と冗談半分に発言していた。高見沢は、明石家さんま・とんねるず・猿岩石・小泉今日子・瀬能あづさ・後藤久美子・新田恵利・真璃子・Skirt・鈴木彩子等多くのタレント・アイドルに楽曲を提供している。他にも、古舘伊知郎の芝居『トーキング・ブルース』の音楽監督を務めたり、『ドラえもん』の劇場版や『フィギュア17 つばさ&ヒカル』等への楽曲提供、ドラマでの音楽監督、KinKi Kids司会の番組『堂本兄弟』に出演したり、また坂崎は2002年に期間限定で再結成したザ・フォーク・クルセダーズに参加したり、フォークソングのイベントなどでの司会を務めたりなどと、バンド以外での活動も多く、アイドル(KinKi Kids、篠原ともえなど)やフォーク歌手(吉田拓郎、南こうせつなど)との交流がある田辺エージェンシーでは、所属歌手に歌手活動以外にバラエティ番組への出演をさせる方針がとられていた。THE ALFEEも例に漏れず、ALFEE時代の1984年にTBS系列で『アルフィーのある日ィ突然!』という単発ドラマが放送されている。この番組は『ザ・ベストテン&「ある日ィ突然」complete edition 2000』というタイトルでDVD化されており、現在でも入手可能である(ただし、放送では流れたビートルズの曲が収録されておらず、放送で流れた曲名が字幕で紹介されている)。現在は田辺エージェンシー所属ではなく、そこから独立した事務所・Project III(プロジェクト・スリー)に所属しているが、その頃からの流れは続き、グループあるいは単独でテレビ・ラジオのバラエティー番組に数多く出演している。過去のシングル・アルバム等の版権は田辺エージェンシーの系列の田辺音楽出版が所持をしており、現在でも各種クレジットには田辺昭知の名が記載されているように田辺エージェンシーとは密接な関係である。芸能人ではかつてはとんねるずとの交流は深かった。『とんねるずのみなさんのおかげです』で行った卓球対決が人気となり、日本武道館での最終決戦も行われた。その功績が評価され、1992年には日本卓球協会から名誉初段を贈られている。また、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』では、高見沢が二度にわたってスペインでの闘牛に参加している(ただ、2度目の出演時に左手人差し指を骨折してしまい、そのすぐ後のツアーに悪い影響を与えてしまっている)。
出典:wikipedia
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