小淵沢町(こぶちさわちょう)は、山梨県北西部の北巨摩郡下に存在した町である。長野県との県境に位置し、八ヶ岳高原の山梨県側表玄関口として知られる。2006年3月15日、平成の大合併によって隣接する北杜市へ編入合併したため消滅した。現在は同市の行政地区名の一つ、北杜市小淵沢町地区となっている。かつては「こぶちざわちょう」と読まれていた。この町にある小淵沢駅は「こぶちざわえき」である。一方、中央自動車道の小淵沢ICは「こぶちさわインターチェンジ」、道の駅は「道の駅こぶちさわ」である。小渕沢町とも表記される。小淵沢町は甲信国境の地にあり、甲府盆地と諏訪盆地のほぼ中間に位置するため、古来より交通の要衝とされていた。交通機関の発達した現代においてもその位置付けは同様で、町内を中央本線・小海線の2つの鉄道路線が走り、中央自動車道のインターチェンジが置かれている。さらに、小淵沢駅は中央本線の特急も停車するため、東京都心部(新宿駅)からも乗り換え無しで訪れることができ、首都圏からのアクセスは良好である。小淵沢町は、NHKの大河ドラマ『武田信玄』の騎馬シーンの撮影が行われるなど「乗馬の町」として知られており、現在では以前より盛んであった馬術・乗馬や登山などに加え、温泉やアウトレットモールの出店など観光地としての地位を着実に上げつつある。また、定年退職を迎えた者の居住なども見られるようになってきている。小淵沢町は1954年に当時の小淵沢村と篠尾村が、昭和の大合併に基づき山梨県内で最初の合併を行い成立した町で、法人格の存在する地方自治体としては、2006年の北杜市への編入までの約半世紀間存在した。北にそびえる八ヶ岳連峰を頂点に南側に向かってなだらかな傾斜をしている「八ヶ岳南麓の町」であり、町のほぼ全域が3°以上の傾斜地となっている。町域のほとんどの部分は「七里岩」と呼ばれる台地の上に存在しているが、七里岩台下に流れる釜無川までが当町域に含まれる。台下を流れる釜無川を境に白州町地区と接している。七里岩は釜無川の手前で切り立った崖となるため、最高地点から最低地点までの町内標高差は約2,100mにも及ぶ。また町の西端には甲六川が流れ、富士見町との県境を形成している。町の形はちょうど、左手で「拳銃を撃つポーズ」(人差し指・親指を伸ばして残りの指を握る)をしたときに似ており、その際に伸ばした指に相当するのが旧小淵沢村、握った指に相当するのが旧篠尾村、人差し指の先端が編笠山・権現岳である。更新世後期の「小淵沢山麓砂礫層」が標高1,300m - 700mの山麓を覆っており、町の全面積の70%を占めている。当町における集落を始めとする可住地域のほとんどがこの地質によって占められているといってよい。小淵沢町は八ヶ岳南麓の高原に位置しているため、夏季においても涼しく過ごしやすい。しかし、冬季には八ヶ岳から吹き下ろす八ヶ岳颪(やつがたけおろし)と呼ばれる極めて冷涼な北風が吹くため、厳しい気候となる。気候区分では、中央高地型の内陸性気候区に分類される。降水量が少なく晴天が多いことから、年間の日照時間は約2,200時間と全国でも有数の長時間となっている。小淵沢町は山梨県北巨摩郡下において、昭和の大合併では最初に誕生し、平成の大合併では最後に消滅した町である。また、その発足は諏訪郡富士見町よりも早かった。そのため、設置から廃止までの間に、明治期の町村制施行から昭和の大合併を経て平成の大合併に至るまでの、隣接する町村の変遷全てを経験している。(以下、北側より時計回り順)近世(慶長年間)から「小淵沢村」の名は検地帳などの文献に散見されており、明治期の町村制施行時にも適正規模であるとして他村との合併を経験せず「小淵沢」の名が残った。そのため小淵沢町は北巨摩郡において近世からの村落名が21世紀に至るまで自治体名として存続した唯一の町村となった。また、旧小淵沢村を除いた、小淵沢町を構成する各旧村の名前の由来は以下の通りである。小淵沢町の行政地名(住所などに用いられる地名)は次の通り。小淵沢町では他に条例等において町内を分ける際の行政上の地域区分として、東地区・西地区の区分が用いられている。旧小淵沢村が西地区であり、旧篠尾村が東地区である。町道の路線番号は「東(西)何級何号線」で採番されており、保育園などでも東西の区分が用いられている。ただし行政上の便宜を図る目的で用いられているため、住所・登記には全く登場しない。小淵沢町では、古くから存在していた地域コミュニティの地理的範囲をほぼそのまま継承する形で行政区が設置されている(行政区は「通称地名」とも呼ばれることがある)。小淵沢町には現在13の行政区が存在し、上笹尾・下笹尾・松向を除いて住所表記や不動産登記には用いられないものの、位置付けとしては大字という扱いである。旧小淵沢村(西地区)には8つの行政区が置かれている。大字「上笹尾」・「下笹尾」・「松向」は、かつてはそれぞれが独立した村だったことから、行政区の下にさらに小字に相当する「地区」が存在する(ただし、登記簿などに記載されている正式な小字とは必ずしも一致しない)。一部の地区を除いて各「地区」には公民館や公会堂などの集会施設が設置されている。旧篠尾村(東地区)では、清春村から松向が分かれて合併して以降、戦後まで長らく1大字1行政区の3区体制となっていた。1919年(大正8年)3月14日に区の名称を改めるまで、上笹尾区が「第一区」、下笹尾区が「第二区」、松向区が「第三区」という名称であった。その後1948年の開拓農業協同組合の設置を機に誕生した戦後開拓地区として「篠原」と「女取」が、大字上では上笹尾であるものの独立した行政区となり、現在では5区体制となっている。新宿駅から小淵沢駅までのおよその所要時間は、特急あずさ号で2時間0分台、特急スーパーあずさ号で1時間50分台である。また、中央自動車道を経由する中央高速バスの場合、新宿駅西口バスターミナルから中央道小淵沢バス停までの標準所要時間は2時間30分ちょうどである(鉄道・高速バスのいずれも2009年9月現在)。小淵沢町は南部に七里岩の断崖が存在するため、南の白州町旧鳳来村地区や富士見町旧落合村地区といった国道20号沿線地域への交通を確保するために非常な労力を要した。平成に入るまで、町内と国道20号を直接結ぶ幹線道路は、松木坂と呼ばれるつづら折れの急峻な県道だけであった。小淵沢町誌(1983年)には明治期以前からの松木坂のルートの幾度もの変遷が掲載されており、この区間に先人達がいかに苦心していたかが窺える。現在のルートは1935年(昭和10年)に開削されたものであり、その開削には発破を使用するなどかなりの大工事であったといわれている。平成に入り、技術の進歩によって従来よりも遥かに快適な道路が完成した。1995年(平成7年)に開通した町道西1級7号線、通称「インター白州ライン」のすずらん大橋である。この橋は山梨県内でも珍しいループ橋であり、七里岩の断崖部分の約50mの高低差をループで下る構造となっている。深沢川の侵食谷の斜面に沿う形で南下するこの路線の開通により、町内から甲府方面の国道20号への、そして国道20号から小淵沢駅・小淵沢インターチェンジへのアクセスが大きく改善された。第二次大戦後は米麦生産・養蚕・酪農といった第一次産業が主要産業であった。近年では立地環境を生かしたバイオ・化粧品関連の企業を中心に第二次産業が、また高原の気候を生かした観光・レジャー産業を中心とする第三次産業が増え、バランスの取れた産業形態を見せている。小淵沢町は、交通の利便性、八ヶ岳南麓の高原に位置しているため夏でも涼しい気候であるという特性、そして自然環境や歴史文化といった風物を活かした滞在型の観光地として発展しており、ペンションなどの宿泊施設が多く見られる。主な観光資源には以下のようなものが挙げられる。しかしながら、これらの観光施設は駅から離れ自動車での交通を主体とする町北部にあるため、駅前の空洞化がきわめて深刻である。そのため、2006年度から、TMO事業に基づく有限会社によるまちづくり事業者(まちづくり小淵沢)の設立や、国土交通省からまちづくり交付金を得るなど、中心市街地の活性化を目指している。小淵沢は古くから甲州街道原路や棒道といった交通路が走り、甲斐国と信濃国との国境という要衝に位置していたものの、これといった人口扶養力の高い産業や豊富な天然資源が存在しているわけではなかった。何故そのような産業や資源に乏しい小淵沢が発展したのかということを説明する説の一つに、この地がかつてアジールだったのではないかという説がある。北巨摩郡北西部は731年(天平3年)まで諏訪国だったといわれ、そのため諏訪神社が多く存在しているとされる。諏訪には出雲から建御名方神が逃れて住み着いたという神話が存在する(諏訪大社の項参照)。また、小淵沢には源平合戦(治承・寿永の乱)に敗れた源氏の一派が住み着き、それら源氏によって小淵沢の町が興されたのではないかとする説がある。これらのことから、小淵沢は中央権力からの逃亡者達が心安らかに住まって、文化を築き上げる聖地であった、としている。小淵沢町のうち旧小淵沢村は「行政地名(大字)」の項目にあるように大字がない、すなわち町村制施行に伴う合併を経験せずに古くから「小淵沢村」として存在していた村である。しかし小淵沢町のうち旧篠尾村にはかつて上笹尾村、下笹尾村、松向村の3村が存在し、小淵沢村に隣接する他村も町村制施行以前には以下のような村々が存在していた(以下北側から時計回り順)。このように周辺旧村のほぼ全てにおいて、古くは小淵沢町でいう「行政区」単位で村落が存在していた。小淵沢町を含む北巨摩郡北西部はかつて諏訪国だったといわれるが、旧小淵沢村のみ町村制施行時にも他村との合併が不要と判断された規模を古くから有していたことになり、同じ国(諏訪国)に属した周辺各村に比べてかなり特異な存在であったといえる。だが旧小淵沢村においても、村を構成していた岩窪、尾根、高野、宮久保の4集落はそれぞれが名主、長百姓、百姓代を置き、対外的に代表名主を選んでおり、あたかも一村の体を成していたといわれる。つまり中世以前には、他の周辺各村と同様に各集落(現在の行政区)の単位で村々が存在していたとも考えることができる。このようにかつては岩窪村、尾根村、高野村、宮久保村として独立した村々であったとも推測される4集落を統合し、「小淵沢郷」、そして「小淵沢村」の成立に重要な役割を果たしたのが、五百石堰と北野天神社であると考えられている。五百石堰は井詰湧水から湧き出る水を村内各地に送り、小淵沢村の水田開発を支えた基幹水路であり、現在でも農業灌漑用水として利用されている。「五百石堰」の名は、この堰によって五百石の石高の増加を見たことからこの名が付けられたものである。一方、北野天神社は当初は町内区域に存在する多くの神社の一つであったが、祭祀権の拡張(影響力の拡大)を進めて、この付近の一宮として認められる程の格式を持った神社へと成長した、小淵沢村・小淵沢町を代表する神社である。五百石堰の開削にはこの北野天神社の神主を代々務めた小井詰氏が関わっているとされ、北野天神社の影響力の拡大期と同時代であるとみられる。小井詰氏による堰の開削は、井詰湧水の水を小淵沢村内の各集落へと行き渡らせることとなり、一つの水を共同で利用しているという同郷意識を各集落に芽生えさせることになった。また、北野天神社の影響力の拡大は、祭祀を同じくするという精神的な繋がりを意識させることとなった。五百石堰による地理的・経済的な意識の統合、そして北野天神社による宗教的・文化的な意識の統合によって、各地に点在していた小規模な村落共同体が、一つの「小淵沢」という大きな共同体として統合されるに至ったのではないかと考えられている。小淵沢町の北部の西側においては、アカマツの林が鬱蒼と広がり、そこにアウトレットモールや宿泊施設などが点在するという景観が特徴となっている。このアカマツの林は原生林ではなく、元々は存在しなかった人工林である。古来より八ヶ岳南麓の荒涼とした原野に拓かれた小淵沢村では、北西より吹き付ける八ヶ岳颪による寒風のため、農作物はしばしば冷害に悩まされてきた。また、荒地は保水力が少ないため、降雨時には泥水による水害が村民の生活を脅かしてきた。そこで風水害から村を守るため、1687年(貞享4年)、アカマツの苗の試植を始め、続いて1689年(元禄2年)に幕府の許可の下、甲六川から上笹尾村の篠原に至るまでの720間(約1,310m)、幅3間(5.4m)の約30haに渡って風除林を設けることとなった。東西より始められた植林が終了したのは1715年(正徳5年)のことで、30年近くにも渡る長い年月と多額の費用を費やした一大事業であった。最後の植林の場所、すなわち村の東西より始められた植林が最後に落ち合った場所には祠が建立され、落ち合った場所という意味で「揉合(もみあわせ)神社」の敬称が付けられた。江戸時代にこれ程の規模の植林が民衆の申し出と費用負担によって行われたのは稀であろう。当初の幅は5m程度に過ぎず、また第二次大戦下には資材として大量に切り出され荒廃もしたが、村民・町民の努力により現在では数百mにも及ぶ幅を有する森となっている。「植木(うえき)」とも通称されるこの林は現在でも風水害から町を守っており、小淵沢財産区がその保護管理に当たっている。山梨県では明治40年の大水害以降、御料地として国有化されていた山林の荒廃が問題視され、明治時代末に県有財産として恩賜林が下賜された。その際に恩賜林の管理は自治体の責任で行うことが明確化された。小淵沢町北部の林野も恩賜林として下賜されており、これら山林の管理のため、町内には3つの財産区が設置されている。また、長野県富士見町との間でも、編笠山の県境沿いの斜面の地域を対象とする保護組合が存在するこれらのうちほとんどが旧小淵沢村で、旧篠尾村は1つしかない。これはかつて篠尾村には小淵沢村との合併前に「篠尾村外一ヶ村恩賜県有財産保護組合」(秋田村旧大八田村地区)と「篠尾村外二ヶ村恩賜県有財産保護組合」(秋田村旧大八田村地区・小泉村旧大井ヶ森村地区)が存在していたが、戦後開拓の際に入植者に払い下げおよび譲渡し解散したためである。また、財産区の他にかつて小淵沢町が入会地として利用していた地域に、長野県富士見町の「広原山」がある。この地域は古来から小淵沢村と蔦木村(現富士見町)など諏訪郡の11の村で入会利用がされていた。しかし諏訪郡の各村は小淵沢村の入会権を無視除外しようとしたため係争が発生し、小淵沢村では名主繁宮利左衛門を総代として江戸町奉行所に提訴を行った。以来十数年に渡り訴訟が行われ、繁宮氏は自己の所有する土地や家財を売り払い、訴訟費用に当てたという。そして1717年(享保2年)3月9日に、ついに小淵沢村勝訴の裁決状が下された。これによって入会利用を継続して行えるようになったものの、近現代の都道府県をベースとした自治体制度により県境をまたいだ管理が煩雑になったことや、昭和40年代になって富士見町と長野県企業局による広原山の開発が決まり、広原山の譲渡の打診を受けたことなどから入会権を譲渡し、その際の譲渡金を簡易水道敷設費に当てている。小淵沢町の北部地域の歴史において、戦後開拓は非常に重要な位置を占める出来事である。戦後の食糧増産や引揚者への就業支援などの目的のため、1945年(昭和20年)11月に「緊急開拓事業実施要綱」が閣議決定され、山梨県内では八ヶ岳・茅ヶ岳・富士山麓の高冷地が開拓地の大部分として指定された。小淵沢町では開拓組合として小淵沢組合(棒道1、2)・篠原組合(篠原、篠原2、三里原)・篠八田組合、篠尾組合(上笹尾1、2、3)の4組合が存在した。小淵沢組合の大富組・東和組・豊畑組は合併して大東豊区となった。篠原区は女取開拓団と八ツ原開拓団が合併して篠原開拓組合となり、上笹尾区から独立したものである。女取区は篠八田組合と篠尾組合の小野組が合併したもので、その際に篠尾組合に属していた三蔵主は松向区へと編入された。初期の開拓者の生活は極めて困難なものであった。開拓者の多くはトウモロコシやジャガイモを主食とし、時折祝祭日などに米飯を炊いて、皆で祈るようにして食べたという。人力による飲料水の長距離運搬や電灯ではなくランプによる生活、そして不毛地が多く、収穫量で一家を養えないため日雇い収入に頼るしかなく、それによって開墾が進まないという悪循環などで離農者が続出した。しかしこのような困難の中でも開拓者の働きかけや努力により、電気の架設や篠尾小学校分校の設置、開拓道路の開削など徐々に進歩を見せ、作付作物も穀物から高原野菜や酪農へと転換することで付加価値を高めていった。そして現在ではエコツーリズムや乗馬体験といった滞在型・体験型の高原観光地として、小淵沢町の経済を支える重要な地位を占めるまでになった。小淵沢町には以下の神社・寺院が存在している。各寺社の旧社格・祭神や宗派・本尊、由来やいわれなどは以下の通りである。小淵沢町は地理的には南北に長い形状をしているが、地域としてみると、町役場から最周辺である下笹尾区大下地域まで3,500m程度という、半径4km程度の同心円の中に集落が分布している。このように比較的コンパクトに集落がまとまっているため、小淵沢村と篠尾村の合併後に小中学校の統合を行ったときにも、通学距離による問題は少なくて済んだ。これらの集落は、八ヶ岳の裾野を放射状に伸びる谷戸やそれらの間の尾根、小円丘の斜面や低い土地に沿って開かれている。小淵沢町は行政上の区分としては西地区と東地区に分けられている。しかし地域の特色で見た場合、古くから居住が行われていた南部地域と、戦後になってから居住が見られるようになった北部地域の大きく二つに分けられ、それぞれが異なった特色を有している。南北の境界は、町内を横断する中央自動車道に概ね近い。各集落は行政区として組織されており、各行政区は町内会(自治会)と同じような機能を有し、区ごとに公民館(正確には「小淵沢町公民館○○区分館」)が設置されている。区では公民館を中心として伝統行事の執り行ないや、区内の清掃、自治的業務の決定などがなされており、町民体育大会なども行政区単位の対抗戦となるため、多くの町民にとって基礎的な生活範囲となっている。また、各行政区の多くは、その区域が更に「1号組」、「2号組」といった、数字が付された組で区分けされている。区内の清掃の当番範囲なども組で割り当てが行われることが多く、一部では旅行などの親睦活動を現在でも行っている組も存在しており、行政区内における「組」が最も基礎的な自治の単位となっている。岩窪・久保・高野の3区は、小淵沢ICのそばから深い谷を形成している西沢川の右岸(西岸)に位置している(ただし高野区は左岸にも集落がある)。この西沢川の左岸(東岸)から旧篠尾村との村界にあたる深沢川に至るまでの町のほぼ中心地に位置し、人口や市街地規模の面でも町の中心地区となっているのが、尾根、小淵、本町、宮久保の4集落である。小淵沢町においては小字は住所の表示には用いられず、口頭で使用されるか、不動産登記の登記簿や土地建物取引に関する契約書などの公的な文書でしか使われていない。しかし使用頻度は低いものの、慶長年間の検地帳から見られる小字や、「島屋敷」や「鍛冶屋原」のように、かつて戦国時代にそこがどのような場所であったかを表した小字などもあり、それぞれの地域の特色や歴史を永く受け継いでいるものである。下記の小字の表記・読み方は、1980年当時におけるデータである。小淵沢町では誕生から北杜市との合併による消滅までの間に、9名・計15代の町長が在職している。小淵沢町では町発注の競争入札に対して以下の取り組みを行うことで、コスト削減による財政負担の軽減や公共工事に絡む不正の発生を防止することを目指した。また、談合等の防止のためには以下の取り組みを行った。これらの取り組みにより落札金額も低下し、1993年(平成5年)から2003年(平成15年)までの10年間で約23億円の入札差金(剰余金)が生じた。これらの取り組みは全国の自治体から注目を集め、当時は入札制度以外の視察も含めて2,000名近くの視察者があったといわれる。小淵沢町は高度経済成長期においては典型的な地方農村であり、他の地方農村と同様に過疎化にも悩まされていた。町財政も豊かとは言えず、例えば町道の舗装が本格化したのは、1971年(昭和46年)に過疎地域に指定され、過疎債の起債が可能になってからのことである。しかし高度経済成長が一段落し、中央自動車道が開通したことによって「首都圏から日帰り・短期滞在で訪れることが出来る余暇スポット」という立地条件に恵まれたため、昭和50年代中頃から高原観光地として観光産業の発展が著しくなった。それに伴い過疎地域の指定も解除され、1990年代に入ってからは上記の入札制度改革が行われたこともあり町財政の健全化が進んだ。2003年(平成15年)における財政力指数(3ヵ年平均)は0.559と、北巨摩郡下においては双葉町と同率でトップの数値を示した。ちなみに財政力指数は、0.5が自治体の自立の目安とされる。参考までに比較対象として、その当時(2003年)の北巨摩郡下他町村の財政力指数を以下に示す。平成の大合併により北杜市が成立し、北巨摩郡は消滅した。しかし、北巨摩郡の中でも縁の部分にあり、長野県との境に位置する小淵沢町では、大規模合併により弊害が生じることが予想されたため、市町村合併について町を二分する議論がある。合併に至るまでのいきさつは以下の通り。小淵沢町は長坂町に所在する長坂警察署の管轄内となって久しく、町内には長坂警察署小淵沢駐在所が設置されている。長坂警察署は小淵沢町が北杜市に編入されたのちに、北杜警察署に再編され現在に至っている。また、小淵沢町には警察協力団体として下記のものが存在する。小淵沢町は韮崎市と北巨摩郡の計1市7町3村(合併前)の間で峡北広域行政事務組合を組織しており、常備消防は峡北広域行政事務組合消防本部(峡北消防本部)が所管している。町内には峡北消防本部の消防署の内、長坂消防署小淵沢分遣所が中心市街地と小淵沢インターチェンジの両方に近い、尾根地区内に設置されている。小淵沢町には峡北消防本部による常備消防のほかに、第一部〜第十一部の消防団が設置されており、消火や火災予防などの消防活動を行っている。各消防団の担当行政区は以下の通りである。小淵沢町内には下記の2局の郵便局が設置されている。また、小淵沢町域における郵便番号は下記の通りである(2010年1月現在)。小淵沢町の次に番地がくる場合の郵便番号は408-0044であるが、小淵沢町役場には大口事業所個別番号による「408-8555」という事業所の個別郵便番号が設定されていた(北杜市への編入合併後も「北杜市役所 小淵沢総合支所」に対し継続して同じ番号が設定されている)。かつて郵便番号が5桁の時代には、町内全域が「409-16」であった。
出典:wikipedia
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