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愛宕上杉通り

愛宕上杉通(あたごかみすぎどおり)は、仙台市都心部を南北に縦貫する道路の1つ。北端を「昭和町交差点」とし、上杉地区およびJR仙台駅前を経由して、愛宕大橋南詰を南端とする。ほとんどの区間が青葉区内であるが、愛宕大橋南詰周辺は太白区である。「昭和町交差点」では泉中央副都心に至る宮城県道22号仙台泉線(旧国道4号)と接続し、愛宕大橋南詰では長町副都心方面に至る広瀬河畔通と接続するため、南北の両副都心と都心部とを繋ぐ道の一翼を担っている。高度経済成長後の1970年代、仙台市では大正時代以来の仙台市電に合わせた街づくりから、モータリゼーションに合わせた街づくりに変化させ、市電を廃止する一方で市内各所で道路の新設・拡幅を行った。道路整備が一段落した1980年代初頭には、広幅員化された各々の道に愛称を付けることになり、「上杉山通」「東五番丁」「清水小路」などが拡幅されて1本の道となった当道は「愛宕上杉通」と命名された。仙台城下町では「○○通」は「○○に通じる道」「沿道に○○がある道」という意味であるが、当道は、その南端で仙臺総鎮守「愛宕神社」に通じ、その北部沿道では住居表示の実施で「上杉」と命名された街区を貫いている。「愛宕上杉通」との命名後も、旧町名や街路名として江戸時代から使用されてきた各構成道路の名称は残り、今でも「上杉山通」と「東五番丁」は頻繁に使われている。その一方で、「清水小路」は一部が国道286号となったため、道路名としてはあまり使われなくなり、「日吉丁」は存在すら忘れられた。当道は複雑な経緯で造られたため、かつての各街路の区間とは異なるのに、定禅寺通(国道45号)との交差部である錦町公園前を境にして、北側を上杉山通、南側を東五番丁と認識している市民が見られる。また、仙台市道青葉1153号・愛宕上杉通1号線の区間である中央2丁目交差点(広瀬通と交差)から昭和町交差点まではイチョウ並木が整備されているが、このうち、中央2丁目交差点から錦町公園までの坂は「銀杏坂」との異名で呼ばれるようになった。1987年(昭和62年)、仙台市地下鉄南北線工事の路面復旧および同線開業に合わせて、東五番丁を中心に仙台駅西口周辺には英国製ガス灯(一部の柱頂部にはミニチュアの伊達政宗騎馬像が付置)が114基設置されたため、東五番丁の仙台駅前付近には「ガス灯のある街 五番街」という愛称が付けられた。このように、正式な道路名や愛称の他に、様々な呼称を持つのが当道の特徴である。当道は、北端の昭和町交差点から北四番丁通との接続部までの区間が片側2車線、北四番丁から東二番丁通との接続部(仙台市立病院前交差点)までの区間が片側3車線、市立病院前から愛宕大橋北詰までの区間が南行きが4車線、北行きが6車線、これより南の愛宕大橋は朝のラッシュアワーが北行き4車線と南行き2車線、それ以外の時間帯が片側3車線ずつのリバーシブルレーンとなっていたが、時代の流れによる交通変化を受けて、2016年3月21日をもって、上下線ともに片側3車線通行に固定され、廃止となった。途中、勝山公園近くの北六番丁通と北五番丁通間の区間に、かつて上杉山通が1車線の一方通行時代からあった樹木を中央分離帯に残したため、上下線とも蛇行する形になっている。なお、当道の一部を構成する「清水小路」は、標準語・共通語では「しみずこうじ」と読むが、仙台弁では「しずこうじ」「すずこうじ」と読む(仙台弁#仙台弁の地名・固有名詞参照)。愛宕上杉通は、以下の道路の総称である。なお、愛宕上杉通が広瀬通と交差する「中央2丁目交差点」で、仙台市道は南北に分割されて管理されており、同交差点を両者の起点としている。現在の愛宕上杉通は、江戸時代の仙台城下町では1本の道として存在しておらず、いくつかに分かれていた。それは、仙台が広瀬川の河岸段丘上につくられたことと関係している。のちに愛宕上杉通となる道は、仙台上町段丘面には上杉山通(南北道)が北七番丁通から北一番丁通まであり、段丘崖下の仙台中町段丘面には元寺小路と丁字路を形成して日吉丁(くの字に屈曲する道)があり、やや筋違いに東五番丁通(北西から南東に延びる道)が続き、六道の辻で筋違いに清水小路(南北道)がさらに接続して、奥州街道を通す荒町(東西道)まで続いていた。荒町より南には段丘崖があって、仙台下町段丘面の土樋(東西道)に繋がる道は無かった。上杉山通では、城下町としての町割りは北七番丁までであったが、北六番丁通を四ツ谷用水が流れていることもあって、概ね北六以北は台原段丘の麓まで農地が広がり、細い在郷道があるのみだった。また、上町と中町の両段丘の間の段丘崖に上杉山通と日吉丁との間を繋ぐ道はなく、中町と下町の両段丘の間の段丘崖に清水小路と広瀬川河畔を繋ぐ道もなかった。1887年(明治20年)12月15日に仙台区(現仙台市)には日本鉄道本線(現JR東北本線)が開通するが、同線が通過する六道の辻ではこのとき、筋違いだった東五番丁と清水小路が直接繋げられ、くの字状に1本の道となった。1923年(大正12年)には宮城師範学校が、1925年(大正14年)には(旧制)第二高等学校が、当時もまだ農地だった上杉山通沿いの北六番丁より北側に相次いで移転した。これにより、北八番丁辺りまで上杉山通は市街化された。1931年(昭和6年)4月 仙台市が宮城郡七北田村荒巻(北仙台地区など)および北根を編入合併。これにより、七北田村内だった現在の当道北端部分も仙台市内になる。仙台市電が1926年(大正15年)に開通するが、このときは長町線が荒町までの開通で留まった。その後、1933年(昭和8年)に清水小路の南端から段丘崖下の下町段丘面に降りる新道と共に荒町 - 愛宕橋間の市電が開通する。第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月10日、仙台市街地(おおよその現在の仙台市都心部)は仙台空襲により焦土と化すが、戦後に特別都市計画法に基いて戦災復興都市計画がつくられ、1946年(昭和21年)5月に仙台特別都市計画復興土地区画整理事業の区域(423.5ha)が決定、1947年(昭和22年)2月より戦災復興土地区画整理事業が施行された。このとき、東五番丁を拡幅の上で日吉丁を取り込んで北に延長し、段丘崖に新道を建設して上杉山道の南端に接続する道が造られ、また、元寺小路の南側に東西道の広瀬通が造られた。1970年代半ばになると、五橋通が南端だった東二番丁通が南に延伸されて清水小路と接続し、清水小路の南側に続く道と広瀬川の対岸に新設された広瀬河畔通との間を繋ぐ愛宕大橋も完成する一方、仙台市電が廃止された。また、広瀬通から泉市(現・仙台市泉区)の旧七北田宿辺りまで続く「都市計画道路3.3.28元寺小路七北田線」が計画され、1979年(昭和54年)10月15日に上杉山通(北行き一方通行)を拡幅する形で、北一番丁から仙山線ガード(昭和町交差点)までの1,196mの区間が供用開始された(1985年(昭和60年)12月には仙山線ガードから泉市役所までの区間が供用開始)。このような道路整備によって1本の道となった昭和町交差点から愛宕大橋南詰までの区間は、1980年代初頭に愛称が募集され、「愛宕上杉通」と命名された。仙台城下町では「○○通」は「○○に通じる道」「沿道に○○がある道」という意味であるが、当道は、その南端で仙臺総鎮守「愛宕神社」に通じ、その北部沿道では1970年(昭和45年)から始まる住居表示で新規に命名された「上杉」という街区を貫いている。

出典:wikipedia

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