勝沼町(かつぬまちょう)は、山梨県にあった町で、東山梨郡に属した。県中央から西部、郡南東部、甲府盆地東端に位置。国中地域と郡内地方の境に位置する。方形の町域で、中央から西部は甲府盆地の平坦地で、突出した東部と南部は山岳地帯。東部の山間部に発する深沢川は日川へ合流して平野部を西流するほか、田草川や北西境には重川が流れる。縄文時代中期の遺跡として、勝沼には釈迦堂遺跡群の文化圏に含まれる集落跡である宮之上遺跡がある。甲府盆地東部は古代に仏教文化を先進的に受容した地域であるが、町域には古代豪族三枝氏の氏寺である大善寺をはじめとした古刹が分布する。また、柏尾山頂の柏尾山経塚は東国では早期の康正5年(1103年)銘をもつ鋳銅製経筒が発見されている経塚として知られる。中世には石和(笛吹市石和町)に本拠を置いた甲斐国守護・武田氏の所領があり、下岩崎には武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡がある。町域には戦国期の武家居館である勝沼氏館が所在し、勝沼氏居館と中心とした町割が形成されている。勝沼氏居館は武田信虎が弟の信友を祖とする親族衆・勝沼氏の居館で、武田氏のが郡内領主の小山田氏を服従させると、郡内地方への目付として築造された館であるという。町域は甲州市塩山の黒川金山にも近く、近年には勝沼氏居館から金の加工に関わる金熔融物付着土器が出土していることも注目される。江戸時代に成立した九筋二領では、日川を境界に北部が山梨郡栗原筋に、南部が八代郡石和筋に属する。領主支配は江戸時代初期は各村とも幕府直轄領となり石和代官所支配になったと考えられているが、その後の変遷は各村で異なる。勝沼村は宝永2年(1705年)から甲斐一国が幕府直轄領化される享保9年(1724年)まで甲府藩領に属する。柏尾村は勝沼村に属するが大善寺領として独立していた。旗本領、甲府新田藩領、御三家・田安家領も存在している。小佐手村の大半は甲府勤番役知。勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置される。辻家文書」に拠れば、等々力村の万福寺では享保17年(1732年)から甲斐国では初となる富くじの興行が行われていたという。勝沼村・上岩崎村・下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が、「和漢三才図絵」『裏見寒話』など地誌類においては梨や柿と共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている。慶応4年(1868年)、大善寺付近において旧幕府方の近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が新政府板垣退助率いる征東軍に駆逐されて敗走している(甲州勝沼の戦い)。明治にも勝沼宿を中心に繁栄を続けた。1903年(明治36年)に中央線が甲府駅まで開通するが、町域に鉄道駅は設置されなかったため、東山梨郡における交通・経済的中心地は塩山に移った。その後、町域でも駅設置運動が起こり、1913年(大正2年)には菱山に勝沼駅が開設された。江戸時代後期においてブドウ栽培は勝沼の一部でしか行われなかったが、明治初期の山梨県令・藤村紫朗の主導した殖産興業政策においては果樹栽培やワイン醸造業が奨励された。1877年(明治10年)には日本葡萄酒会社が設立され、フランスへも伝習生を派遣して醸造技術やワイン醸造に適した葡萄の栽培や品種改良に取り組んだ。明治20年代から明治30年代にはブドウ栽培農家も増加し、宮光園をははじめ多数の醸造会社も設立された。醸造用品種の品種改良や栽培技術の改良、販売方法など様々な試行錯誤が実施された。戦時下においては減反政策が行われたこともあったが、戦後に飛躍的に発展した。戦後は峡東地域における中核都市として発達し、今日ではぶどうとワインの大産地として知られている。また、街のシンボルマークとして明治時代に当時最先端のワイン醸造の技術を習得するためにフランスに派遣された高野正誠と土屋助次郎の2人の洋服姿の写真をモチーフにしたマークが町の各所に見られる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。