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法解釈

法解釈(ほうかいしゃく)とは、各種の法源について、その内容を確定することをいう。法源とは、法解釈の対象となる、法の存在する形式のことをいう。文字に表された抽象的規範ないし法則は、たとえそれ自体は一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、不可避的に解釈上の疑義を生む(右画像参照)。法学の対象とする法もまた例外でないから、法律を暗記してもそれだけでは役に立つものではなく、ここに法解釈の必要が生じる(→#論理解釈)。法解釈においては、単に具体的事件のみに妥当な結論を導くことができれば足りるものではなく、同種の事件が生じたときにも、同様の結論を得ることができるように客観的に行われなければならない。さもなければ、どのような行為があればどのように法的に判断・処理されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態、すなわち法的安定性(独:Rechtssicherheit; 仏:sécurité juridique; 英:legal certainty)が害されてしまうからである。したがって、法解釈においては、法的安定性を害すること無く、いかにして個別の事案についての社会的正義、すなわち具体的妥当性を発揮するかが最大の課題である(→#立法者意思説と法律意思説)。そして、注意しなければならないのは、法的安定性と具体的妥当性のどちらを重視し、両者をどこで調和させるかは、時代によって(→#概念法学と自由法論)、また法律の領域によっても異なってくるということである(→#刑法及び行政法における慣習法)。要するに、解釈という論理操作を経ずに意味の明瞭な法は、一つも無いと言ってよい。そこで、次のように言われている。近現代における法解釈学は、イルネリウスをはじめとする註釈学派がスコラ神学における聖書解釈技法を取り入れて、成文のローマ法大全の解釈方法としたものに由来するところが大きい。しかし、法源は法典を始めとする明文の制定法(成文法)に限られないから、慣習法や判例法などの不文法についても、解釈は必要である。成文法以外に法源を認めるか、認めるとして成文法との関係をどのように捉えるのかについては、法解釈の基本的態度の違いに直結するから、裁判の前提たる法源を明らかにする法源論は、法解釈のあり方を考察するにあたって必須の一大要素である。慣習法とは、慣習に基づいて成立する法のことをいう。判例を含めたものをいう場合もある。歴史的沿革のうえでは、慣習法は成文の制定法に先立つものであるから、両者に共通する法解釈の根本問題は慣習法より生まれた。すなわち、原初社会においては、人々は例えば正義の女神テミスの名を冠した神託裁判によってなされたというだけでその結果を受け入れるのが普通であったが、社会の発達にしたがってその思想は次第に変化し、公平さを求めて次第に神託そのものも同種の事件は同様に扱うようになっていった。故に、そのような神託裁判もまた慣習法の起源もしくはその一種であると考えられている。法的安定性の重視を端的に表す有名な法格言、「悪(酷)法もまた法なり」(羅:Dura lex, sed lex)も、本来は古代ローマにおいて制定法ではなく慣習法についていわれたものである。慣習法は民衆一般より自然的に生じるものであるから、たとえ他民族からみてそれが過酷に過ぎるものであっても、当該社会では通常のこととして認識されるからである。一方、制定法においては、これとは逆に人為的に社会を改善しようとするものであるから、「至厳の法は最大の不正義」(悪法は法にあらず)という法律格言がかなり古くから行われていたことはキケロの著書中に確認することができ、この格言はイギリスの衡平法裁判の起源となるなど、ヨーロッパ各国に継承されたのであるが、後の18世紀末から19世紀の立法権過信時代には、かえって正反対の「悪法も法なり」が制定法について承認され、道徳と法律の厳格な峻別が主張されるに及んだのである。その結果として現れたのは、裁判官の権力縮小と、慣習法の効力否認であった。つまり、法解釈においては、悪法もまた法であるとのテーゼに対し、これを肯定的に解して客観的な成文法のみをその対象とすることで司法を拘束し、もっぱら立法によってその是正を図ろうとする立場と、それとは逆に、司法を信頼して成文法以外に広くその対象を求めることによって悪法の不備を是正しようとする立場との二大潮流がありうることになる。元々既存の成文法中に存在が予定されていなかった現象であっても、譲渡担保のように独自の発展を遂げ、裁判実務上もしばしばその俎上にあがるものがある。日本では、平成16年には動産の譲渡担保を正面から認める立法が成立したが、そのような法律が存在しなかった時代においては、民法上認められた質による以外の担保方法は法律上の保護を与えられないと解する余地も理論上ありえた。このように、人為的に制定された成文法すなわち実定法のみが法源であって、慣習法などの不文法は実定法が明文を持って許容しない限りは法源になることはないという考え方を、法実証主義という。これに対し、判例・通説において承認されていたように、民法上の質権の規定を、動産担保の全てを規律する規定ではなく、動産を質という制度で担保にする場合だけの規定だと解釈すると、所有権を譲渡する方法で担保にすることについては、民法の規定が欠けているということになるから、慣習法による補充が許容されるということになる。このように、慣習法の解釈においては、慣習そのものが本来明確なものでないから、その存在、内容などをある程度はっきり確定させ、#成文法と調和させることが重要な任務になる。慣習法と成文法の調和の仕方を巡っては、成文法の優位を説いて法と道徳の峻別を重視する法実証主義と、成文法と慣習法の連続性を強調して両者の共通点に着目する自然法論の対立があり、前者が慣習法を排除して悪法もまた法なりのテーゼを肯定するのに対して、後者が悪法は法ではないとの立場に結びつくものであると説明されることがある。しかし、歴史法学の立場から、自然法論を批判する論者が慣習法の尊重を説くこともあり、また逆に自然法論者が不文の慣習法の排除を説いて悪法もまた法なりに傾斜することもあるから、厳密に言えば、両者が必ずしも対応するわけではないとも考えられている。例えば、18世紀から19世紀にかけてのフランスにおいては、自然法の現れとみなされたナポレオン諸法典による慣習法の統一を背景に、法典化されなかった慣習法の効力を否定して、紛争はことごとく法文解釈の枠にはめて規律しようとしていた。一方、ドイツにおいては、1794年に成立したプロイセン一般ラント法が同様の見地を徹底して詳細かつ網羅的な立法を試みたが、その故に法典が極度に膨張して挫折を強いられ、法の普遍性を強調する自然法学派に対し、法の歴史的必然性を強調する歴史法学派により、フランスとは逆に、早急な人為的立法によることなく、社会的な自然の慣習法の発達に多くを委ねるべきとの立場が有力になった。当時ヨーロッパを席巻していたロマン主義(右画像参照)や進化論、及び分断化されていたドイツの政治的事情が背景にある。ナポレオン戦争の影響によって、ティボーらにより、国家統一のための統一的な法典整備の必要が叫ばれたのに対し、サヴィニーをはじめとする歴史法学派が反対したのはこのためであった(法典論争)。ところが、19世紀末から20世紀にかけて、ナポレオン法典の老朽化とドイツ民法典の制定によって、両国の解釈態度は逆転し始めたのである。これに対し、英米法特にイギリス法は、このようなフランス・ドイツを中心とする大陸法における法典化運動、すなわち慣習法の全面的な制定法化には従わなかった。むしろ、かつてドイツの歴史法学派が主張したように、成文法の制定は慣習法の個々の点について生じた誤りを是正するためにのみなされるべきだと考えられたのである。これは、成文法は立法者の恣意によって変動しうるから、それよりも何世紀にもわたる慣習法と判例法の蓄積によって、裁判官を拘束し恣意的判断を防ぐことが合理的であると考えられたためである。一方、大陸法の法制度を採る国々においては、もし法源として成文法を重視する主義に立てば、法源の明確さゆえに法的安定性の確保に資するが、反面、慣習法や判例法のような不文法をも重視する主義によれば、柔軟な解釈によって、より具体的妥当性を実現しやすいと考えられている(もっとも、過度の成文法偏重はかえって法的安定性を損なうと考えられるし、成文法を重視する立場に立っても、しばしば成文法規の中に「書かれざる法」を読み込もうとすることについては後述)。近代刑法においては、「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」という法格言に表されるように、どのような行為が犯罪となり、どのような刑罰が科されるのか、あらかじめ成文法で定められていなければならないという罪刑法定主義の原則があるため、慣習法や#条理を独立の法源とすることは許されない。もっとも、例えば「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とする、日本刑法35条のように、成文の「法令」によらない慣習法の解釈に委ねたとみられる規定もあることから、成文法規の解釈に当たって慣習や条理を考慮することまで排除されるわけではない。行政法分野においても、法的安定性の確保及び三権分立による国家権力の恣意的行使の抑制という見地から、現に存在している法律による行政の原理に依拠した国家権力のコントロールが重要になる。つまり、慣習法の成立する余地は本来少ない。したがって、この観点からは、日本において広く行われている行政指導には批判がある。行政指導に従うべき法的な義務は無いが、これに抵抗することは実際上困難なことが多く、違背すると法令の根拠があるとは限らないにもかかわらず、しばしば事実上の不利益を受けるからである。もっとも、問題のある行為に対して、いきなり法令の適用という最終手段に訴えることを抑制しつつ、望ましい適法状態の具体的実現を図ることによって、具体的妥当性を実現しうるという積極的意義をも認めることができる。一方で、行政指導を信頼してした私人の行為に対し、行政機関が先の行政指導と矛盾した扱いをする場合、信義誠実の原則違反、禁反言の法理に対する違反を理由に(→#概念法学と自由法論)、不利益を受けた私人の側からの行政訴訟を提起される場合が多々あり、行政法学上重要な解釈問題になっている。また、税法分野は特に法的安定性への要請が強い領域であり、近代法の下では租税法律主義が妥当するから、法解釈において慣習法の入り込む余地は更に少なくなる。租税は国民から強制的に財産権を奪うものである以上、近代法治主義の理念に基づき、立法機関の承認を受けたものでなければならないからであり、租税法律主義の趣旨を損なわない範囲で、規定の細部を政令などに委任することが許されるだけである。逆に言えば、法律に特別な規定のない限り、政府の先例それ自体には原則として裁判官への拘束力は認められないが、行政庁における長年にわたる取扱例が、広く一般国民の間に社会的な法的確信を得るに至った場合、これを無視することは法的安定性を害するから、行政先例法と呼ぶ一種の慣習法として、先例にも解釈上一定の法的拘束力が認められる場合がある(→#法解釈の主体)。罪刑法定主義や行政による法律の原理のような厳格な要請がない民事法(私法)分野においても、国民の権利・利益に関するものである以上、裁判はなるべく立法府の適法な手続によって制定された成文法によるべきではないのか、そもそも法とは何であるかの問題と深く関わっている。特に、成文法を中心とする大陸法においては、成文法を正面から否定する解釈態度は避けなければならない。そこで、刑法と同様、成文法の解釈上慣習法を取り込むことによって、両者を調和させる努力をすべきことになる(#論理解釈)。注意すべきは、たとえ同じ民法の解釈であっても、債権のように当事者の個別的関係を取り扱うものについては、具体的妥当性により重きを置くべきものが多くなると考えられているのに対して、物権・相続・法人のようなものは、統一的取り扱いの必要から、少なくとも一般論としては法的安定性の要請が比較的強くなると考えられていることである。例えば、現代の複雑な法律関係を簡明に処理するためには、当事者にとっても第三者にとっても、婚姻成立を客観的に明確にしておくことが望ましいとの立法趣旨から、日本民法第739条(旧775条)は戸籍法上の「届出」という適法な手続を経ることを「婚姻」の成立要件として要求しており、慣習に則って結婚式をし、夫婦の実質を伴った共同生活をしていようとも、それだけでは法律上の「婚姻」と認めることはできない。だとすれば、「届出」を経ない内縁については、本来一切の法律的効果は認められないはずである(反対解釈)。これに対し、世間一般では夫婦と認められるにもかかわらず、法律が夫婦と認めないという関係は民法の予定しないものであると解釈すると、内縁関係に適用される法律の規定が無いことになり、慣習法による補充は法の許容するものだという結論を導くことができる。現在の判例・学説は、内縁を社会の習俗・道徳と法律の食い違いから生じた一種の準婚関係とみて、一定の範囲で婚姻に準じた取扱いをしようとして、本来の立法趣旨である法的安定性を尊重しつつ、具体的妥当性を発揮させようと努力している。このほか、訴訟法などの手続法の分野においても、裁判所書記官などによる事務の慣習が実務上一定の役割を果たし、立法化されることもある。主に主権国家間の関係を規律する国際法においても、慣習法の存在を認めることができる。これに対し、法の本質を主権者による命令であるとするオースティンらによって、主権者による強制という要素を欠く国際法の法的性質を否定する見解もかつては主張されていたが、1921年に制定された常設国際司法裁判所規程は、国際条約のみならず、国際慣習法が裁判上の直接の基準となることを認めており、国際慣習法は国際条約と並ぶ重要な法源として機能している。伝統的な通説は国家の意思が明示的又は黙示的に国際慣習法に同意していることをその根拠であるとしており、ある事項に関する諸国家の一般的な慣行が認められることと、その慣行が全ての国によって遵守・履行されなければならないという法的ないし必要的信念という二要件を慣習法の形成要件として立ててその解釈基準としている。そのような意思的・主観的要件への批判もある(→#概念法学と自由法論)。「判例」という言葉は、一般には、過去に出された裁判例を指して用いられることもあるが、法解釈分野においては、過去の裁判の内、現在も法源として拘束力を持つものをいい、とくにこれを判例法ということがある。判例法の解釈においては、個々の具体的裁判例を帰納的に観察し、類似の事案から一定の抽象的法則を抽出して、一般的に妥当する射程を明らかにすることが必要である。判例を法源としてどれだけ尊重し、判例法としての事実上又は法的な拘束力を認めるかは、法的安定性を脅かすことのないよう、かつ個々の事案についての具体的妥当性を実現させるという、矛盾・対立する要請をいかに調和させるかの問題でもある(→#立法的解釈の問題点)。特にイギリスでは、法的安定の確保のために上級審の判例遵守(英:stare decisis)の原則が立てられている。もっとも、1966年には、厳格な先例拘束の原則が緩和され、判例の変更が可能になった。これに対し、アメリカ法においてはイギリスのような中世以来の判例法の伝統を欠いており、フランス法系のルイジアナ州に典型的にみられるように各州の法制度の独立性が高いこと、訴訟が頻発し判例の蓄積が極めて膨大という社会的事情などと相まって、判例の拘束力は相対的に弱いものとなっている。英米法では、勝訴・敗訴や違憲・合憲といった判決の結論それ自体や、判決文が言及する一般論の全てが法源としての拘束力を持つものとは考えられておらず、一般に、判例とは判決の結論を導くうえで重要な意味のある法的理由付け、即ち判決理由(羅:ratio decidendi、レイシオ・デシデンダイ)のことを言い、そのような意味を持たない傍論(羅:obiter dictum)との区別(英:distinguish)の手法が発達している。これに対し、大陸法においては直接の法源とはならないが、成文法を補充するものとして、事実上の法源としての一定の拘束力を認めることができる。この範囲については、英米法の国々との比較においてさえ最高裁判所の判例をより強く重視する傾向の強い日本法においても、英米法と同様判例はレイシオ・デシデンダイのみに限られると解するのが通説であるが、実際には必ずしも厳密に区別されて運用されているわけではなく、最高裁判所の傍論もまた下級審の裁判実務に指導的な役割を果たし、事実上の法源として機能する事が少なくない。罪刑法定主義の下では、一般に判例の法源性は否定されている。しかし、法律の規定を超えて犯罪や刑罰をみとめるのではなく、成文法の抽象的内容を解釈によって具体化してその内容をより明確にする、という意味での二次的な判例法を認めるのであれば罪刑法定主義に反しないばかりか、法的安定性の確保に役立つという意味で、むしろ罪刑法定主義の要請するところであるとも考えられている。行政法についてもこれに準じて考えられるが、成文法が整備されていない分野も少なくないため、法律による行政の原理にもかかわらず、判例の果たす役割が実際上極めて重要であると指摘されている。民事法の領域では判例法による新たな法規範の生成は顕著にみられる。民事事件では、刑事事件と異なり裁判所は該当する法律が存在しない(法の欠缺)という理由で紛争当事者が求める裁判を拒否することは許されないから、事案に適合する規範を発見・創造して裁判しなければならないためである。手続法の分野についても同様で、たとえ詳細な成文法令が整備されていても、なお法の予定しなかった問題が生ずることは避けられないから、やはり判例法が重要な役割を果たす。国際法においても、前述の国際司法裁判所規程により、判例法を二次的な法源とすることが認められている。しかし、判決におけるレイシオ・デシデンダイと傍論とを区別しないで引用するという慣行が裁判上定着しており、解釈上の問題点となっている。条理とは、物事の筋道であり、人間の理性に基づいて考えられるものをいう。ある事件について適用すべき制定法の不備・欠缺があり、適当な慣習法も判例法も無い場合に、この条理に基づく裁判をすることができるかは困難な問題である。なぜなら、裁判官が裁判に際して制定法・慣習法のほかに拠るべき基準を自ら発見するのは困難が伴うとともに、その判断の客観性が問題とならざるをえないからである。そこで、英米法においてしばしば条理として採用されたのはローマ法であった。また、自然法論者であったトマス・アクィナスは、人の法は神の法によって補完されなければならないと主張したが、聖書が法源となることによってかえって魔女裁判のような恣意的な裁判を許し、アンシャン・レジームの理論的支柱となって、フランス革命の遠因になったと批判されている。19世紀の歴史法学が、自然法思想を徹底的に排撃しようとしたのはこのような背景がある。一方、成文法がある程度整備されている場合には、近代的な三権分立の原則から、可能な限り成文法の枠内で補充的に条理を取り込む解釈によって、法的安定性と具体的妥当性の調和をはかることができると主張される(→#論理解釈の典型例)。このような立場からは、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』や大岡忠相の大岡政談などに対しては、狡猾な脱法行為であるとして法的安定性の観点から批判的な目が向けられることもある。もっとも、いかに成文法の解釈及び判例・慣習法による補充をもってしても、なお法律の不備が生じることは避けがたいと考えられる。そこで、司法を信頼して裁判官の自由な裁量を認め(→#立法的解釈か学理解釈か)、正面から条理の法源性を肯定すべきであるという自由法学に代表される立場も有力化しており、例えば後述するスイス民法1条をはじめ、オーストリア普通民法7条やイタリア法例3条2項等は、明文で条理の法源性を認めたものと解されている。このような立場は、人為的な成文法の上に普遍的な自然法を認める自然法学派の主張が形を変えて現れたものとみることができる。日本でも、明治8年には、民法典が制定されておらず、統一的・近代的な法慣習も無かったことから、明治八年太政官布告百三号裁判事務心得第三条において、「民事ノ裁判二成文ノ法律ナキモノハ習慣二依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」とされ、これに基づく裁判が為されたが、何をもって条理とすべきか紛糾した。フランス法系の法律学校で学んだ者はフランス法を条理であるとし、イギリス法系の法律学校で学んだ者はイギリス法を条理として援用し、日本の昔の教育を受けた者は昔の道徳倫理を基礎に物事を決し、その不統一が問題となったのである。実際に施行されることのなかった旧民法が公布されたときにおいても、裁判官や学者がこれを事実上の法源として利用・研究したのはこのためであった。民法典が制定された直後には、条理を法源から排除すべきと主張されたこともあったが、この裁判事務心得の規定は21世紀に入っても廃止されておらず、なお効力を保っているとみられており、古い判決文の中にも「筋合」とか新しい時代の「社会の観念」を理由とするものがしばしば見受けられる。特に、国際私法分野において強調されることが多い。しかし、これは成文法の解釈にあたって考慮すべき一要素として条理があるという当然のことを確認した規定にすぎないとみることもできるから、必ずしも条理の独立の法源性を強調する必要はないと考えることも可能であり、法解釈の考え方の違いを巡って理論的な対立がある。学説も、歴史的には法源たりえてきた。特に、古代ローマ帝政時代には皇帝の勅許に基づいて法学者に法律問題を解答する権限が与えられ、ハドリアヌス帝の時代になると、解答権を有する法学者の意見が合致するときには、法律としての効力が認められた。その集大成が、ユスティニアヌス帝の命によって編纂され、後のパンデクテン法学で重要視されてドイツ民法典の基盤となった、ローマ法大全中の要部を占める『[ 学説彙纂]』である。ただし、ユスティニアヌス帝の時代には、学説は法典化された限りにおいて法源として承認されたにとどまり、これに対する学説の法源性は完全に否定されていたことに注意する必要がある(後述)。近世においても、権威ある学者の学説はしばしば法源と同等の価値を認められ、例えば、17世紀のザクセンにおいては、ライプチィヒ大学の正教授であったの著書『プラクティカ・ノーヴァ』は、1世紀以上にもわたってほとんど刑法典と同等の効力を認められていた。近代以降においても、学説は問題解決の手がかりを与え、新たな立法や判例法の形成、条理の探求等において、成文法を補う二次的・補助的な法源としての性格を認めることは可能である(→#学理的解釈の問題点)。例えば、19世紀の終わりの30年の間、ドイツの裁判所では、ローマ法を基本的な法源としつつも、多くの事案がローマ法大全を体系化・抽象化したベルンハルト・ヴィントシャイトの主著『パンデクテン法教科書』に従って判断・処理された。また、1900年に成立したドイツ民法典もヴィントシャイトの学説の影響が非常に強く、特にその第一草案は「小ヴィントシャイト」と呼ばれたほどであった。しかし、近代三権分立原則の下においては、学説は単独で法源となることはない。20世紀以降の現代においては、成文法の草案の立法理由書や、著作群に現れた起草委員の学説であっても、裁判官を直接拘束する法源とはならないというのが一般的な理解である(法律意思説)。起草者個人は立法権を有する立法者自身ではないからである。むろん、重要な解釈資料としての価値までが失われるわけではない。一方、イスラム法系においては、第一次的な法源はコーラン及びムハンマドの言行録であるハディースであるが、イスラム法学者の著作群にも伝統的に一定の範囲で法源としての効力が認められてきた。もっとも、その解釈手法においてはスンニ派の四学派と、これに対するシーア派とがあり、各派により解釈の手順・内容が異なっている。なお、日本の律令制を含む中国法系においては、時代によっては司法官僚による法解釈技術自体は相応に高度なものを有していたが、法家思想が衰退したことによって法学者が育たず、一貫したものとしての体系的な法解釈学が後世に継承され発展するところヨーロッパ法学に比べて稀であった。大陸法系において最も重要な任務は、文字によって明示され、一定の手続を経て制定された成文法(制定法、実定法)の解釈である。成文法規は、主権者の委任により、立法権に基づき、司法的判断の恣意性を排除し、客観性を保障する機能を持つべく制定されたものであり、法規自体がひとつの利益衡量に基づく結果の集積ともいえるものであるから、客観的な条文を離れていたずらに理論学説に走り、あるいは法律の立場を離れた生の主観的価値判断、いわゆる裸の利益衡量のみによって法律を議論することは厳に慎まなくてはならないとしばしば警告される。もっとも、立法府が制定した法律を補充するものとして、政令・規則等の命令や条例等があるから、これらを含めた法令全体が法解釈の対象になる。なお、行政機関が統一的取り扱いの確立のために内部的に発する訓令・通達などは、前述のとおり慣習法となりうるものの、直接には裁判官を拘束する法令には含まれない。ある事柄につき一般的に規定した法令がある場合に、同じ事柄について、ある特定の事物に限って、異なる内容を定めた法令が制定されているときには、この二つの法令は、一般法(羅:ius generale; 独:gemeines Recht; 仏:droit général; 英:general law)と特別法(羅:ius speciale; 独:Spezialrecht, Partikularrecht; 仏:droit spécial, droit particulier; 英:special law, particular law)の関係に立つといわれ、特別法が優先して適用される。例えば、民法は私法の一般法であるが、商事については、商法が特別法となる。もっとも、商法の特別法もまた観念しうるのであって、この一般法・特別法の区分は相対的なものに過ぎない。法令によっては明文の定めを置く場合もあるが(#立法的解釈)、そういう明文の定めが無い場合においても、当該法令全体の趣旨から判断する必要がある(#論理解釈)。また、同一の法令の各規定同士の関係においても、同様な判断が必要である。各種の法形式相互間で、競合する所管事項について内容に矛盾衝突が生じることがある。この場合、異論もあるが、例えば国会の制定した法律の方が各種の命令・規則よりも上位の法であるとして優先される。つまり、上位法は常に下位法よりも強い効力をもつため、下位法は上位法に反する解釈を採ることができない。憲法は上位法の典型例であり、法律は可能な限り憲法に適合するように解釈しなければならないことは、特にアメリカの判例が多く言及するところである。憲法と条約とが矛盾するとき、どちらが上位法として優先されるかについては議論があるが、条約の高度の政治性故に、アメリカ及び日本の司法は伝統的に違憲審査の適用には慎重な態度を採っている。司法はどこまで行政の政治的判断を尊重すべきか、三権分立の理解にかかわる問題である。上記と異なり、ある法律と別の法律というように、同等の効力を持つ同位の制定法の内容が矛盾する場合、時間的に後に出来た方が優先する。立法者の意思を推定・仮定すれば、前法に矛盾する後法をあえて制定するのは、前法を改める趣旨であると考えられるからである。したがって、例えば甲法が制定・公布された後、それが施行される前に乙法が制定・公布され施行された場合でも、甲法を改めるのが乙法の立法趣旨であると考えられるから、先に施行された乙法の方が後法であるとして優先することになる(→#立法的解釈)。もっとも、いかなる法体系の下にも当然にこのように考えられるわけではない。例えば、イスラム法系においては、法源たるコーランは神が創ったものであるから、人為的な後法によってこれを改変することは許されない。社会主義国家における法体系も、マルクス主義に代表される一定の思想ないし世界観を基盤としたものであるし、イギリスのコモン・ロー法体系における古来の不文の慣習法についても同様に、人為的な後法による改変には限界があると考えられる。そのような法体系を採らない国々においても、国家の最高法規である憲法典については、憲法の基礎にある人類普遍の原理と考えられるものまでは改正によって排除することはできないと考えられることが多い。立法府をどこまで信頼することができるか、法治主義の本質の理解に関わる問題である。強行法規(強行規定)とは、公益上の理由に基き、意思によって適用を免れることが許されないものをいい、刑法をはじめとする公法に属する法規はその典型である。また、私法中においても公の秩序に関する規定については一般にこの効力を有するものと解される。これに対して任意法規(任意規定)とは、当事者の意思をもって適用を免れることができるものをいう。民法中の規定はその典型であるが、任意法規かどうかは、一法律中の各条規に付いて為す区別であるため、民法だから当然に全て任意法規であるというわけではなく、民法典中にも当事者の意思や合意によって排除することができないものは存在する。法令の最終的な解釈は司法権を有する裁判所が行うものであるとすることは、裁判所のみが法令の解釈をすることを意味しない。国、地方公共団体の立法機関や、行政機関、学者、弁護士、その他の一般私人も、学問的探求のため、或いは紛争の解決・予防のために、法令の解釈を行うことが必要になる。その解釈によって裁判所を拘束することができるかは別問題であるというだけである。そこで、多様な解釈が成立しうる中で、個々の学者や弁護士などの一般私人による解釈すなわち#学理的解釈(無権的解釈、私解釈)に対比して、権威を持つ公的機関(裁判所のみならず立法府、行政機関等)による解釈を有権解釈(公解釈、公定解釈、公権的解釈、英:authentic interpretation)と呼ぶことがある。この有権解釈の内、行政機関のする有権解釈を特に行政解釈と呼ぶこともあるほか、後述するように、立法府による有権解釈の意味で有権的解釈、強制的解釈、又は#立法的解釈と呼ぶことがある(本項では立法的解釈で統一する)。一般に、法の解釈といえば広義の法解釈から立法的解釈を除いた学理的解釈を指すのが通常であり、学理的解釈と有権解釈とを区別するのは、有権解釈が学理的解釈と異なり事実上法律と同一の拘束力を生ずることを理由とするが、この区別は解釈の主体及び効力に関する形式上の区別に過ぎず、解釈手法に関係に直接の関係がないため、その法原理を説明するに付き特別の価値あるものではないと説明されることもある。しかし、歴史的には常にそのように考えられてきたわけではなく、個々人による学理的解釈が全く否定され、むしろ立法的解釈のみが適法な法解釈とされたことがある。例えば、前述のユスティニアヌス帝は、ローマ法大全の解釈権は立法者である皇帝の専権である旨宣言して、その学理的解釈を勅令によって厳禁した。これは、「法を解釈する権利は法を作る者に属す」というローマ法の法格言に依拠したものであると共に、また法源の明確化とスリム化によって、過去無数の解釈論がローマ法全体を混乱状態に陥れた轍を踏むことを避け、法的安定性を実現しようとする実践的な目的に基づくものであった。また18世紀後半におけるオーストリア、プロイセン等の諸法典も、立法権過信思想を背景として、その内容に疑義のあるときであっても、裁判官による学理的解釈は法律によって禁止され、いちいち議会や法律委員会の決議に依ることを要するものとして法的安定性を確保しようとしたから、かえって訴訟経済の観点からも重大な不都合を生じることとなり法典の利益が損なわれる事甚だしく、裁判官の権限を極度に縮小したそれらの諸規定は短命に終わり、19世紀から20世紀にかけては、裁判官に法解釈権限があることを当然の前提としつつ、成文法を超えた法の自由発見のあり方が議論されていくことになる。そこで私人による学理的解釈と裁判所をはじめとする公的機関による有権解釈を比較すれば、後者は前者に比して事実上広く一般国民に影響を及ぼしやすいものであることは明らかであるから、その解釈にあたってはあくまで最大限現行法の尊重に立脚しつつ、法的安定性への要請がより強く要求される。すなわち、有権解釈においては、当該機関がその解釈を覆すまでは、他の下位諸機関を法的又は事実上拘束し(→#判例法)、それによって法的安定性が保たれることになるから、これをみだりに軽視して安易に学者の説を採用することは、国民の予測可能性を奪い、社会に無用な混乱を引き起こすおそれがあると考えられ、したがって裁判官が具体的妥当性を重視して既存の有権解釈に反する独自の学理的解釈を採る場合には、相応の論証が要求されることになる(→#刑法及び行政法における慣習法)。これに対し、立法府により、ある特定の行政機関や職員個人に一定の範囲で法令の解釈権限が委任されている場合もある。この場合の有権解釈(立法的解釈)は一般国民をも広く直接に拘束することになる。成文の法令解釈の方法については、論者によりバリエーションがあり用語法も一定しないが、概ね以下のように分類することができる。立法的解釈、有権的解釈、法規的解釈とは、立法者自身が解釈問題を解決して、法律の意義を確定することをいう。EUによるヨーロッパ統合を背景としたドイツの民法典大改正はその典型例である。民法施行法による場合など、当該法律制定後になされることが多いが、一般人が迷ったり、誤ったりすることを予防する目的から、予め立法時に定義規定を置く場合もある。立法的解釈の目的は規定の法律がその後付加した意義を最初から有していたものとして裁判官を拘束することにあり、実際に最初からそのような意味を有していたかどうかは問題ではないため、訴訟の未確定の場合においても遡及すると考えられている。法律は、その時々の国民の代表である議会の意思を表すものであると考えられるから、議会の意思が変われば、過去の議会意思である旧法に優先して効力を持つためである。ただし、罪刑法定主義の下においては、遡及処罰禁止の原則が妥当する。古代法は為政者のみが法律の内容を理解できれば足りたから、その内容は必ずしも平易明解である必要はなかったが、近世ヨーロッパにおいては法律の遵守を広く人民ないし国民一般に要求する以上、その内容はわかりやすくなければならないことが強く意識された。その結果、例えば、デンマークのクリスティアン五世の法典は、一家に一冊聖書と並べて飾られる程国民に親しまれたという。また、ナポレオンは、自らフランス民法典の編纂に直接関与し、逐一口を挟んで自分が理解できるよう起草することを求めたという逸話も残っている。さらに、前述のプロイセン一般ラント法は、教会で唱和することを予定され、法典自体を法学入門の教科書として、子供にもわかるものを目指して成立したものであった。ところが、誰にでも分かる平易な言葉は曖昧である。説明的・通俗的な文章は一面において内容の正確や実用性を犠牲にせざるを得ず、18世紀に成立した諸法典が陥ったように、一字一句に疑問を生じ、法文の激増がかえって解釈の必要を激増させるとも考えられる。ドイツ民法典の編纂時にもこの点が問題となり、ドイツ民法典編纂委員会は、法典中の法律用語はなるべくドイツ固有の言語を用いなければならず、ローマ法由来のラテン語の学術語は、既に広く一般に浸透したもの以外はこれを採用しないものと決議し、そのために生じうる内容の不備を補うためには新たな術語を創造することも辞さないものとして一般国民への配慮を図った。しかし、なおギールケはドイツ民法第一議会草案に対しその文体が民衆向きでないと批判し、起草委員のヴィントシャイトは法典は裁判官の為に作るのであってもっぱら俗人のためではないと反論したが、修正を経て出来上がったドイツ民法典は、説明的に過ぎ、冗長なものとなって、古今独歩の美法典と讃えられた第一草案に比べ、学理的正確性の劣るものとなってしまったと評されている。日本の民法典編纂においてもドイツの議論の影響を受け、内容のわかりやすさと論理的構成の二兎を負うことが志向され、当時としてはかなり思い切った方針によって、平易簡明を旨として編纂されることとなった。しかし、その点を疑問視し、よりいっそう一般国民を名宛人としたものであるべきとする改正論も主張されている。これに対しては、曖昧な説明的規定を増やして法典を膨張・複雑化させても、かえって一般人にもわかりにくくなるとの批判もなされている。また、曖昧な理解を得てもそれだけでは現実の紛争の予防・解決に具体的解答を得ることは困難であるから、結局は専門の法律家に頼らざるを得ないとも主張されている。このように、成文法の第一次的な名宛人は国民であるのか(行為規範)、それとも裁判官であるのか(裁判規範)という問題は、民法のみならず刑法解釈論においても行為無価値論と結果無価値論の問題として激しく争われている。結局、何をもってわかりやすいとするかは人によって一様でなく、言語としての限界もある以上、如何に立法的解釈によって法典自体をわかりやすくしようとしても、解釈問題が生じることは不可避である。立法的解釈を重視するか、後述する学理的解釈に多くを委ねるべきかは、法律における根本問題である。なぜなら、立法的解釈は、法源の明確さ故に法的安定性の確保に資する一方、過度にこれを多用すると裁判実務における柔軟な解釈・運用が阻害されて具体的妥当性を害し、また法令が複雑化し、一般国民はおろか法律の専門家にさえ理解困難なものになって、制定法と一般国民の法意識との乖離を招き、実務も混乱することによって、かえって法的安定性を害することになるからである。ドイツの法典論争、日本の民法典論争において、自然法論者のティボー、梅謙次郎らが法的安定性の確保のために早急な統一的成文法典の制定を主張したのに対し、サヴィニーや穂積陳重、富井政章らが法的安定の目的そのものには同調しつつも、法解釈を支える学問の充実が不可欠であり、拙速な立法は無用に社会を混乱させるとして反対したのはこのような理由があった。現に、例えば、ケマル主義体制下における近代トルコにおいては、旧弊を一掃して社会を変革する目的により、十分な社会的・学問的土壌の無いまま、スイス民法を直輸入する等して極めて短期間に近代的な諸法典を成立させた結果、従前のイスラム系社会との軋轢を招いたのみならず、優秀な裁判官の育成・確保が困難となって、一時的に控訴審の廃止に追い込まれるまでに至っている。反面、法律が社会を積極的に変革・改善するのに指導的な役割を果たす作用もまた否定できないのであるから、日本においては短期間の立法作業で、学問的土壌も未熟であったにもかかわらず、近代諸法典への移行が大きな混乱もなくスムーズに進んだことから、この限りにおいて歴史法学の主張は正しくないといわれることもある。特に、フランス民法典や日本の旧民法、会社法については、立法的解釈への過度の傾斜であるとの批判が強い。立法的解釈による無用かつ不正確な定義は学問を拘束し、その発展の妨げとなるおそれがあるとも指摘されている。これに対し、フランス民法典及び日本の旧民法に好意的な立場からは、国語的な文理解釈と専門的な学理解釈(特に論理解釈)の結果の乖離が進行すると、一般国民にとっては理解が困難となり法治主義の観点から問題であるから、解釈に疑義のある場合は、積極的な立法的解釈によって解決すべきと主張される。実際にこのような細目網羅型かつ一般人向けの平易な教科書型法典を採るものも少なくなく、その典型として前述のプロイセン一般ラント法があるが、法典の膨張と長文化は避けられず、民法だけで一万七千条以上にも及ぶ膨大でかえってわかりづらく扱いづらいものとなってしまっていた。そこで、いかに成文法が改正されても、その度に新しい判例法と慣習法が出現し、これらを無視することはできないのだから、むしろ成文法はより簡明にして理解を容易にしつつ、条文解釈の枠内での広範な学理的解釈の発達に委ねるべきであり、それが法治主義の観点からも望ましいとの見解も主張されている。社会事情の変動に立法的解釈・文理解釈の偏重を合わせようとすれば朝令暮改の弊害を招き、国民の意識と法律との乖離を招いて、かえって法的安定性が害されてしまうと考えられるからである。日本の民法典はこの立場に立って起草されたものである。大陸法の中でも特に条文数が少ないのは、判例国である英米法学からの影響の可能性が指摘されている。もっとも、フランス民法典が全面的にプロイセン一般ラント法におけるような極度の立法的解釈万能主義を採用していたわけではなく、激しい論争の末、どれほど公平に基づく主張であっても、法に明文の無い限りこれを却下すべきとする見解を退けて、裁判官は法の不明もしくは不存在の場合にも自らの正義・公平の観念によって裁判を下すべきであるとして、以下のような規定が制定されていたことに注意しなければならないと指摘されている。この規定は後にフランスで自由法説が興隆する伏線となるのである。また、商法・手続法などの専門的・技術的な法律については、ある程度までは迅速・複雑な立法的解釈を重視せざるをえない面もあることが指摘されている。特に税法の場合、前述のように租税法律主義が妥当するため、その規定は他の法律に比べ著しく詳細かつ具体的なものとならざるをえない。そこで、現行日本民法典の根本的改修を主張する論者は、スイス債務法典に代表される民法と商法の一体化の流れを日本民法に取り入れるべきことをその理由の一つに挙げている。一方、罪刑法定主義の支配する刑法分野においては、形式的な条文からは当該行為が処罰できるかどうか曖昧であるが、社会的には処罰の必要性があるという場合に、迂遠な立法的解釈を待つことなく柔軟な学理的解釈に委ねるか、それとも人権保障の観点から、処罰の必要性という具体的妥当性をある程度犠牲にしてでも、立法的解釈によって解決すべきかという形で古くから議論されている。要するに、これは三権分立において立法府を信頼するか、司法を信頼すべきかの問題であり、換言すれば、客観的な制定法に対して、どの程度まで裁判官は学理的解釈による主観的判断を踏み込ませるべきなのかという問題なのであるから、憲法分野においては司法積極主義と司法消極主義の問題であると共に、大陸法と英米法、あるいは自然法学と歴史法学の対立が形を変えて現れたものとみることができるのである(→#条理)。学理的解釈とは、学者をはじめとする学問上の努力によって、個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすることをいい(→#法解釈の主体)、普通に法令の解釈といえば成文法規の学理的解釈を意味する。これには、文理解釈(独:sprachwissenschaftliche Auslegung)と論理解釈(独:logische Auslegung)とがあると分析される。近代国家において司法権は一般に裁判所の専権であるから、個々の解釈者も現実社会において実際に通用している判例を無視して議論することはできないが、これをどこまで尊重すべきかは実務家であると学者であるとを問わず、解釈者によって大きく異なる。判例・実務の立場とかけ離れた学理的解釈は机上の空論となりがちであるし、反面、判例を追認するだけでは、新しい問題に対応できず、また学問の進歩も望めないからである。学問は必ずしも現実の具体的紛争を解決することだけを主たる目的とするわけではないので、実務と一致するとは限らないが、既存の法令・実務に拘束されない分だけ、立法的解釈への提言、即ち立法論や新たな学理的解釈論を提案して、その陳腐化を防ぐ意義を認めることができる(→#立法者意思説と法律意思説)。なお、学問の担い手は学者に限られるものではないから、裁判官をはじめとする実務家による学理的解釈がしばしば判例・学説を動かすことがあるのは勿論である。文理解釈(独:sprachwissenschaftliche Auslegung)とは、文字解釈(独:sprachliche Auslegung)又は文典解釈ともいい、当該条文の文字の普通の意味に従って解釈することをいう。文理解釈と文字解釈を区別することもあり、この場合文理解釈(英:gramatical interpretation)とは複雑な構文を文法に従って解釈することをいい、文字解釈とは難解な字句を辞典等を引いて解釈することをいう。日本語ではもっぱら文理解釈の語を用いるのが普通である(以下本項では文理解釈で統一する)。もとより条文の解釈に当たっては、国民の期待に反しないよう、その文言の素直な国語的意味を尊重すべきである。しかし、立法に当たっては法文に意味内容を慎重に凝縮したものであるから、一言一句に十分注意して解釈しなければならないのは勿論、フランス註釈学派や概念法学と異なり成文法の不完全(欠缺)、法源としての非完結性を認める以上(→#立法的解釈の問題点)、大陸法においては、他の条文との整合性及び制度の趣旨・目的等を考慮した、後述する論理解釈をも併用しなければ解釈は完成しないと考えられている。文理解釈にも問題はある。先述のように、もしもっぱら通俗的な語のみを法文に用いると、法令が漠然・冗長・不明瞭なものとなり、法的安定性を損ない余計な紛争を招きかねないために、法令の用語は日常用語とは異なり、特有の専門用語も少なくない。また、日常用語に属する語であっても、所有と占有、質と抵当、離婚と離縁のように、通俗的には特に区別されずに用いられていても、法律用語としては明確に区別されている場合も少なくない。そのため、しばしば歴史的沿革に遡って字義を確定しなければならず、言語の多義性・抽象性と相まって、国語的な文理解釈が必ずしも容易かつ明確であるとは言えない。また、法令を字句のとおり厳格に解釈しようとする傾向は、特に新法実施に伴い発生しやすい現象であるが、かえって具体的妥当性を欠いて当事者の権利を不当に害し、法律の趣旨を損なうおそれがあると指摘されている。論理解釈が必要とされる所以である。いかなる文も、その具体的文脈を無視して解釈することは困難ないしは不可能であり、法文の解釈もまた例外ではないから、法体系全体の論理的文脈、あるいは更に目を広げてその社会的文脈を読み込むことが必要である。そこで、論理解釈(独:logische Auslegung、英:logical interpretation)とは、法令の文理のみにとらわれることなく、色々な道理・理屈を取り入れて解釈することをいう。ローマ帝政時代において、ローマ共和制時代における厳格な文理解釈に相対して認められたものに由来する。東洋では古代中国発祥の比附がこれに相当すると考えられるが、相違点もある。論理解釈の内容・区分は論者により微妙な違いがあり、狭義にはもっぱら法体系全体の論理的文脈を尊重する解釈のみを意味する場合もあるが(形式的論理解釈)、その論理的構成は、より実践的・目的的な論理に従って構成することもできるから、後者を目的的解釈として前者の形式論的な論理解釈と区別することができる(目的的論理解釈)。前者のような、他の制度との比較・均衡等を考慮して解釈する論理解釈は体系的解釈(英:systematic interpetation、独:systematische Auslegung)と言い換えることがあるほか、後者のような解釈の内、社会情勢や社会的必要性を考慮して解釈することを特に社会学的解釈方法(英:sociological interpretation)ということがある。もっとも、これらの区分は理念的なものであって、各解釈の結論が全く異なるとは限らないし、形式論的な論理解釈と目的的な論理解釈とは必ずしも矛盾・対立するものではないとも考えられている。なぜなら、法文の文理から離れた結論を正当化するための論法としては、法文の背後にある立法目的や制度の趣旨を考慮した目的解釈又は目的論的解釈(独:teleogische Auslegung)によって、制度本来の目的から解釈すればこのような結論になる、と論じられるのが普通であるが、そのような立法目的論は、解釈者が実現を望むもののために主張されるのが通常であるから(目的的解釈)、解釈者は、自らの主観的な価値観に立脚しつつも、客観的な法文がそのような解釈を許容するものであることを客観的に論証する必要性に迫られるからである(→#論理解釈の典型例)。また、それとは逆に、論理解釈が形式論理に偏するときは、実際生活に適合しない不当な結論を生み、個別の事案についての具体的妥当性を実現できない概念法学であるとの批判があるため、社会的な目的論もまた軽視するわけにはいかないためである。類似した甲乙二つの事実のうち甲についてだけ規定のある場合に、乙については甲と反対の結果を認めるものが反対解釈(羅:argumentum e contrario)であり、乙についても甲と同様の結果を認めるものが類推解釈(独:Analogie;仏:analogie;英:analogy)である。類推解釈は、自然法論に相対する19世紀の歴史法学派により、慣習法を一度立法化した限りは、社会生活は可能な限り成文法規の解釈の形式によって規律されるべきとする法実証主義から説かれたものである。刑法においては罪刑法定主義が妥当するため、被告人に不利な類推解釈は原則的に禁止されるから、反対解釈と後述する拡張解釈のいずれが妥当するかを巡ってしばしば対立が起きるが、民事事件においては、類推解釈と反対解釈は相反する関係に立つ。形式論を重視すれば反対解釈に結び付きやすいが文理解釈同様具体的妥当性を欠くおそれがあり、目的論を重視すれば類推解釈に結び付きやすいが法律の文言と離れた解釈になる分、法的安定性を害するおそれがある。そこで、どちらの解釈によるべきかは、特に当該制度・法規の趣旨・目的を考慮しなければならない。甲についての制度趣旨(立法趣旨)が、乙についても妥当するもので、たまたま甲を典型的な場合として挙げたに過ぎないとすれば乙について類推解釈(類推適用)が導かれるし、あえて甲のみについて規定した趣旨だと理解すれば反対解釈が導かれる事になる(→#概要画像)。これに対し、類推解釈を採るべきことが極めて明白な場合を勿論解釈(羅:argumentum a fortiori)ということがある。例えば、日本民法第738条は、「成年被後見人が婚姻をするには、その成年後見人の同意を要しない」と規定しており、事理弁識能力を欠く成年被後見人についてのみ規定し、その能力が不十分である被保佐人については規定していないが、行為能力の欠ける程度が高く、正常な判断のできない成年被後見人ですら成年後見人の同意が不要であることから、それより行為能力の欠ける程度が低く、正常な判断が困難であるというに過ぎない被保佐人については、論ずるまでもなく、保佐人の同意は必要ないと解釈されている。なお、類推解釈の体系的な位置付けについては諸説あり、可能な限り明文の成文法解釈の枠内に納めるべきことを強調する立場からは、むしろその実質は新たな立法に等しく、もはや解釈とは言えないとする説も主張されている。この立場からは、論理解釈の一種としての類推解釈ではなく類推適用と呼ばれ、理論上区別されることになる。サヴィニーは解釈と類推適用を峻別する立場である。制度の趣旨に鑑みることで、文理解釈の場合に比べて個々の条文の文理を多少拡張的に解釈することを拡大解釈又は拡張解釈(羅:interpretatio extensiva; 英:extensive interpretation)、縮小して解釈することを縮小解釈(羅:interpretatio restrictiva; 英:restrictive interpretation)という。拡張解釈は類推解釈と似ているが、類推解釈は、文字の意味に含ませえないものに拡張する場合であるのに対し、拡張解釈は、文字の意味の枠内に含ませる場合である。例えば、鳥獣保護法において弓矢を使用する方法による「捕獲」が禁止されている場合に、鳥獣の保護という制度趣旨の論理的文脈に鑑みて、実際に「捕獲」することのみならず、「捕獲」しようとする行為をも含む意味に解釈する場合、これを拡張解釈(拡大解釈)の一例と評価することができるが、罪刑法定主義及び刑法の自由保障機能を重視する立場からは、このような拡張解釈は法的安定性を害しうるからできるだけ避けるべきであり、矢が全然当たらなくても「捕獲」だというのは、社会常識の範囲を超えているとの批判がなされることになる。これに対し、縮小解釈の例として、日本民法177条の「第三者」を、およそ全ての第三者ではなく、登記の欠缺を主張する正当な利益を有する第三者に限るとする解釈論が有名である。すなわち、民法177条は、「不動産に関する物権の得喪及び変更は……法律の定めるところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない。」としているが、例えば、他人の家屋を不法に占拠した者に対しては、所有権者が自らの所有権が侵害さ

出典:wikipedia

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