椎葉村(しいばそん)は、宮崎県の北西部にある村である。東臼杵郡に属する。宮崎県内陸部の九州山地、耳川上流部の源流域に位置する。村としては日本第5位の広大な面積を有し、北西部の国見岳をはじめ、全体が九州山地中央部の標高1000~1700m級の山々に囲まれ、其の合間を縫うように耳川・十根川などの河川が源を発し流れる。村中心部の耳川上流側には日本初の大規模アーチダムである上椎葉ダムがあり、日向椎葉湖がその水を湛える。最も低い松尾地区の耳川付近でも約400mの標高があり、可住地面積は村域の僅か4%に過ぎず、川沿いや、山の主に中腹域の緩斜面に点々と集落が存在している。十根川地区には国の天然記念物に指定されている八村杉(別名:十根の杉)があり、不土野地区には日本で唯一、焼畑農業を継承している農家がある。村内の26地区で国の重要無形民俗文化財である椎葉神楽が伝承されており、また、平家の落人伝説の地でもある。その地理的特徴・民俗的特徴から日本三大秘境の一つに数えられ、毎年11月には椎葉平家まつりが開かれるなど、今なお伝承文化が息づく村である。気候は高い標高のため九州南部としては冷涼で、上椎葉アメダスの年降水量は約2800mmに達するなど非常に多雨であり、夏から秋にかけて台風からの湿った南東風の影響で大雨となることがある。冬は寒く、雪が積もることがある。村域の多くが九州中央山地国定公園に指定されている。※地籍調査の進捗率は平成26年度末時点で49%である。戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大河内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。1618年(元和4年)、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。以降、天領となり1656年(明暦2年)隣接する人吉藩の預かり地となった。伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)。日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記した。これには当時の椎葉村長中瀬淳の協力も大きかったという。衆議院小選挙区選挙では宮崎2区(延岡・日向・西都・児湯郡・西臼杵郡・東臼杵郡)に属する。近年選出の議員は以下のとおり。本村と美郷町、諸塚村、門川町で選挙区をなす。定数は2人。近年選出の議員は以下のとおり。高速道路の最寄りインターチェンジは九州自動車道御船インターチェンジ、東九州自動車道日向インターチェンジなど。昭和初期まで自動車交通可能な道路が存在せず、上述のように上椎葉ダム建設に際して国道327号が耳川沿いの崖地に建設され、下流の日向市と結ばれた。その後も村外との交通には国道とは名ばかりの川沿いや峠越えの険しいルートを余儀なくされていたが、近年1996年になって国道265号国見峠直下に国見トンネルが開通、また耳側沿いの国道327号も拡幅改良工事が行われ、夜狩内地区と美郷町中山の間が中山トンネルで結ばれるなど、その円滑化が進んでいる。また、国道265号と、中山トンネル前後の道路が、広域観光ルートのひむか神話街道に指定されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。