タバスコ(Tabasco、タバスコソース)は、メキシコ・タバスコ州原産のキダチトウガラシの一品種チレ・タバスコ(タバスコペッパー)を使った辛味調味料である。アメリカ合衆国ルイジアナ州に本社を置くマキルへニー社 (McIlhenny Company) の創業者が19世紀後半に考案し現在も同社が商標権を持つ(日本における商標登録番号は第1002001号ほか全6件)アメリカの調味料である。赤い色をした製品が多く、ぴりっとした刺激的な辛さが特徴で、世界的にホットソースの代名詞となっている。調味料として各種料理に使用される。原材料は、唐辛子(タバスコペッパー、辛さは約5万スコヴィル値)、岩塩、穀物酢で、まるごとすり潰したタバスコペッパーをオーク樽(楢樽)で3年間長期熟成させる。蓋をした樽の上に塩をかぶせることで発酵した液体が塩に染みこみその結果、塩が固まることで樽を密閉する。熟成の後、酢を加え辛さを4000スコヴィルほどに薄め最大1ヶ月ほど寝かせることでタバスコが完成する。製造を開始した1868年以来基本的な製法は変わっていない。日本では、卓上調味料としてピザやスパゲティなどのパスタに用いられることが多い。アメリカ合衆国における主な使用法はステーキソースやバーベキューソース、マヨネーズなどの味付け、あるいはブラッディ・マリーの味付けなどである。また、アメリカ軍の制式携帯糧食であるMREにも封入されていることがある。もともとは「生牡蠣用ソース」として作られたものである(後述)が、日本国内ではあまり知られていない。オイスターバーにも、必ずというわけではないが置かれていることがある。俗に「ピザにタバスコをかけるのは日本だけ」という蘊蓄があるが、これは極論であり、日本以外の国にもピザやパスタにタバスコをかける人は存在する。ただしイタリアでは料理の辛味付けにタバスコを用いる習慣はなく、唐辛子を漬けたオリーブオイルを使用する。またアメリカ合衆国では乾燥唐辛子を砕いたクラッシュト・ペパーを用いるのが一般的であり、タバスコをピザの調味料として第一選択とするのはやはり日本においてのみ特徴的にみられる現象である。マキレニー社の創業者は、ニューオーリンズで銀行家をしていたメリーランド州出身の(1815年生-1890年没)である。スコットランド人とアイルランド人の血を引く、ひげを蓄えた美食家だったといわれている。南北戦争の頃、エドムンドはメキシコのタバスコ州から帰還した南軍兵士(フレンド・グリーソンと考えられている)から唐辛子の種を入手したとされる。1862年にニューオーリンズが北軍によって陥落したため、マキレニー一家は岩塩の産地として有名だったエイヴァリーアイランドへと移り住み、そこで唐辛子の種をまいたという。ところが、南軍に塩を供給していた関係で北軍の攻撃にさらされることになり、さらにテキサス州へと逃れた。終戦後の1865年に戻ってきたとき、すっかり荒れ果てていた土地に、一株のタバスコペッパーが生えているのを見つける。エドムンド・マキレニーはこの時、自分自身の大好物である生牡蠣のソースを作ることを思いつき、タバスコペッパーの果実をとって潰し、出てきた汁に蒸留酢と塩を混ぜたとされる。それから3年後の1868年、このソースを香水の空き瓶に詰め、卸売業者を通じて350本売った。そのときの香水の瓶は、今日のタバスコソースの瓶の形に受け継がれている。1870年に、彼は自ら考案したタバスコソースの製法を特許登録した。現在では全世界100カ国以上で販売されている。タバスコが最初に日本に入ってきたのは昭和20年代といわれる。その後、喫茶店やレストランなどに置かれる様になると一般にも認知される。プロレスラーのアントニオ猪木が経営していたアントントレーディング社が1970年代に代理店契約を結び日本人にその味を定着させた。なお猪木は初代・タイガーマスク(佐山聡)とともにCM出演の経験がある。現在、オリジナルのタバスコ・ペッパーソースの他に、チポトレ、ハバネロ、ハラペーニョを材料としたグリーンペッパー、スイート&スパイシー、ガーリックといった様々なフレーバーのものや、ステーキソースからキャンデーに至る非常に多彩な商品展開が行われている。グリーンペッパー・タバスコ以外は原材料にタバスコペッパーを含む。日本独自のものとしては正田醤油がタバスコ味の醤油やケチャップなどを製造販売している。都市部の輸入食品店では各種のタバスコが販売されており、非常に辛く作られたタバスコは他社のホットソースと同様に「面白商品」として扱われている。主にパーティーやプレゼントで罰ゲームのために購入する者が多いが、辛い物好きな人は調味料として愛用している。
出典:wikipedia
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