ゾマホン・イドゥス・ルフィン("Zomahoun Idossou Rufin"、1964年6月15日 - )は、西アフリカ・ベナン共和国出身の駐日ベナン国大使、タレント。TBS系列のバラエティ番組「ここがヘンだよ日本人」で所謂外国人タレントとして日本でその名を知られるようになり、大使になるまではオフィス北野に所属し、タレント活動をしていた。21世紀になってからはNPO法人の設立および運営、ベナン共和国第4代大統領ヤイ・ボニのアジア・オセアニア関連大統領特別顧問、駐日特命全権大使を兼務している。幼少時にカトリックの洗礼を受けているカトリック信者(クリスチャン)でもあり、本名のルフィンは洗礼名である。1964年6月15日に西アフリカのダホメ共和国(現:ベナン共和国)ダサズメ・イガンガン村で生まれた。公務員の父の下、10人兄弟の末っ子として生まれる。しかしベナンは乳幼児死亡率が高い国家で、ゾマホンの兄と姉に当たる兄弟は、2人を残して皆ゾマホンが生まれる前に死んでしまったという。ゾマホンの父は厳格で、幼少時のゾマホンにとっては非常に怖い存在であり、常に敬語を使って会話をしていたという。15歳の時にその父が過労による病気で急死し、ゾマホンは父方の叔父の家のあるコトヌー市に移り、叔父の家に住まいながら中学校に通う。当時のベナンにおける義務教育は有料であったが、父が教育に熱心で貧しい生活ながらも力を入れて子ども達を小学校に通わせたため、ゾマホンは勉強好きになる。成績は非常に優秀で、1986年に当時ベナン唯一の国立大学であった国立ベナン大学(現国立アボメ・カラビ大学)に合格したが、父親が既に他界していたため、学費はもちろん、文房具を買うお金にさえも困っていた。ゾマホンが日本に興味を持つようになったきっかけは、中学時代に授業で「日本人は、アジアで最も野蛮で恐ろしい民族だ。1938年に、南京で大勢の中国人を虐殺した(南京事件)」と、非常に野蛮な国だと教えられたことであった。しかし、同時に日本がベナンとは比べものにならない程の先進国であることから、やがて日本へ行ってみたいという気持ちにつながっていった。大学在学中に漢字に興味を持ったことから、1987年に中華人民共和国の北京語言学院(現 北京語言大学)に国費留学した。学業の傍ら、アフリカ諸国の特命全権大使の専属通訳や、大使たちの車の清掃などのアルバイトをして得たお金を、母国の親族に送金していた。大学では、中国文化と中国語を専攻し、孫文や孔子の思想を学んだ。修士課程修了後、中国で知り合った日本人の友人を頼って、1994年、自費留学生として来日した。東京都江戸川区・小岩にある学旺日本語学校(現・東京日英学院)に通いながら、ビデオカメラの把手部品の製造工場での仕事、語学講師、引越し屋の手伝い等数多くのアルバイトをこなした。午前中は日本語学校に通い、その他の時間はアルバイトに充てたため、睡眠時間は通常でも1日3〜4時間、少ない時は1〜2時間という生活を送る。生活費を切り詰めるため食事は1日1食で、公園などの水のみで生活した時期もあったという。このような生活がたたり胃潰瘍になったこともある。また、留学の際に保証人となった高橋政昭の経営の工場で、作業中に激しい眠気が襲い、左手の人指し指を切断してしまう。病院での入院費その他の諸費用は、全て高橋が負担した。そのためゾマホンは著作の中で高橋を「私にとっての神様です」と敬しており、また、最初のページに「故・高橋政昭・氏に捧ぐ」と書いている。また、ゾマホンが「日本とベナンの間の掛け橋になりたい」という夢を掲げるようになったのも、高橋の影響であるという。1997年2月、上智大学大学院博士前期課程(修士課程)に入学した。修士論文のテーマは、「母国ベナンにおける初等教育普及問題点〜日本と中国を比較して〜」であった。1998年に東京都杉並区高円寺のラーメン屋にて、稲川素子事務所のスカウトマンにスカウトされ、TBS系列ビートたけし司会の「たけし×世界バトルIIここがヘンだよ日本人」という2時間スペシャルの特番に出演する。その際のゾマホンのコメントが好評を博し、「変なアフリカ人」という事で、以降、稲川事務所所属の外国人タレントとして、同テレビ局でレギュラー化された「ここがヘンだよ日本人」に出演するようになる。また、フジテレビ系人気バラエティ番組「笑っていいとも」にも出演するようになる。特に「ここがヘンだよ日本人」での独特の訛りと、議論が白熱する際のエキセントリックなリアクションでお茶の間の人気を博し、様々な番組内でのコメンテーターとして主演。さらには小学校建設などの社会福祉的な活動をはじめ、自著を出版するに至る。来日当初から講演会に招かれることもあったようだが、その数がより一層増し、様々な学校や会社などで講演活動を行っている。ビートたけしを尊敬しており、その後オフィス北野に移籍。たけしの付き人をしているので、ビートたけしのTVタックルの5秒番組予告に付き人として、2010年5月21日にカンヌ映画祭で帰国したたけしの側にいるといった感じでテレビ画面に映る事がある。また、たけしの協力を得て、母国ベナンに学校を作る計画を実現した。しかし、このような活動で著名になった為に、同時に日本人による詐欺まがいの被害にあったり、マスメディアでの様々な虚偽に当たる内容のコメントを書かれたり、また、マスメディアによる激しいバッシングを受けたりする事もあり、それが数度に渡り続いた為に、一時期日本人に対して人間不信状態に陥った事もあると、二冊目の自著「ゾマホン大いに泣く、みなさま心よりありがとう」(河出書房新社刊)にて告白している。2007年2月26日付『東京スポーツ』紙上で、従来「そのまんま東」の芸名を使用していた東国原英夫・前宮崎県知事が今後は政治家として本名で活動を行っていく方針を表明している事に伴い、ゾマホンが二代目「そのまんま東」の名前を襲名することが師匠のビートたけしより発表された。既にゾマホン本人も襲名に同意している。しかし、「そのまんま東」の芸名に関しては初代のイメージが強く定着していることや、本人も「ゾマホン」の名称が広く知られていることから、この襲名が一般に定着しているとは言い難い(たけしもテレビ番組ではゾマホンと呼んでいる)。また、マダ村越と一緒に「ゾマホンズ」という名のお笑いコンビとしての活動も行っていた。米国大統領バラク・オバマの「Yes We Can.」の物真似の直後にノッチの「ノッチでーす」の物真似をするというのを持ちネタの一つにしていた。駐日ベナン大使就任に伴いオフィス北野から離れると同時にたけし軍団からも離脱。それに伴い「二代目そのまんま東」も返上することになり、「そのまんま東」の称号は空位となった。母語であるフォン語とフランス語、日本語、中国語、ヨルバ語、英語の6か国語を操る。仕事で得た金銭で贅沢等は一切していない。2009年時点でも東京都中野区の家賃3万8,000円、風呂なしのアパートで一人暮らしをしていると答えている(なお、駐日ベナン大使就任以降は規則として大使公邸に在住しているが、住んでいたアパートを借りた状態のままにしている)。大の銭湯好きであり、来日当初から近所の「白鷺湯」という銭湯にほぼ毎日のように通っていたという。口癖は「人生甘くない」。以下、ゾマホンの道徳論や、様々な物事に対する考え方を、特に本人がはっきりと明言している事のみ、箇条書きにて列挙する。項目を設けて整理してあるが、内容によっては2つ以上の項目に該当し、重複しているものもある。1998年12月16日放送、TBS系『ここがヘンだよ日本人〜98年10大ニュース〜』の中で、「黒人社会やアフリカにはゲイ、レスビアンは存在しない。私から見れば同性愛者は精神病だ」と発言した。ゾマホンは、ベナンやアフリカの様々な問題(主として経済発展や民主化の促進、医療の復旧等)の解決のためにはどうするべきかと高校時代から悩んできたという。当初はアフリカ文学により、それらの問題の解決を図ろうとしていたが、来日して日本人の識字率が100 %である事を知り、大変驚いたという。母国であるベナン共和国はかつてフランスの植民地で、この理由から現在でも公用語はベナンの現地語ではなくフランス語である。しかし、ベナン全国民の70%以上はフランス語が出来ない。それは彼らが学校に通った事がない、または通い続けることができないためである。その識字率の低さこそがベナンの発展の遅れの最大の原因になっている。そう考えたゾマホンは教育の重要性を痛感し、当初は「日本とベナンの間の掛け橋になりたい」という理由で、私財を投じて母国ベナン共和国に日本語学校を設立しようとしていた。しかし、ベナン北部のあまりの発展の遅れや初等教育が復旧していない現実に愕然とし、識字率を上げなくては日本語学校に通う学生もおぼつかないとして、小学校建設を決意した。同時期に河出書房新社から刊行していた「ゾマホンのほん」の印税の全てと、自身のアルバイト等の働きを通して得た私財を投じて、2000年4月、ボルグー県コロボロルに「たけし小学校」を開校。この際、子供の働き手が失われるということで親達による暴動が起きたが、ゾマホンの「このままだといつまで経ってもこの苦しい生活から抜けられない」という説得に親達は理解し、結果的には、親達が学校の工事に手を貸すまでになった。2001年4月にはアタコラ県チチャクに「明治小学校」とボルグー県キカに「江戸小学校」開校。2003年9月にはコトヌー市に「たけし日本語学校」開校。たけし日本語学校では、日本語教育を行うだけではなく、文化交流や技術移転などを目的としている。さらには同校はすべて無料で授業を行っているという。また、アルバイトなどによる私財を投じて母国ベナン共和国に対して医療援助も行っているという。日本で自身の貯金で医薬品等を安く買い、帰国時などに無償で病院などに配るなど、教育という枠を超えた社会福祉活動も実践している。これらの功績により、2001年に世界最優秀青年賞(国際青年会議所 (JCI))、2002年にベナン共和国の国民栄誉賞を受賞。2001年に世界最優秀青年賞を受賞した際に財団を設立する事を勧められて、IFE財団という名の財団を設立し、その責任者にゾマホンが就任した。「IFE」とは、ベナンの現地語で「愛・分かち合い」等の意味で、その財団を通じ、教育・医療の普及や貧困・テロの撲滅、日本の援助を実際に国民の手に届ける為の活動、人権・民主化の促進など、ベナンやアフリカ諸国を中心に国際社会全体への福祉活動をも実践している。また、同時に当初の目的であった日本とベナン、そして、アフリカ全体の交流もその財団にて実践している。それら財団の運営費は全て、ゾマホン個人で支払っているという。また、日本でもゾマホンの活動を支援するための「特定非営利活動法人IFE」が設立され、ゾマホンの活動を支える活動を行っている。これらの功績が認められたのか、来日当初は自費留学生、のちにベナン共和国国費留学生として、上智大学大学院で学んだ(2006年3月まで在籍)。また、来日当初、日本とベナンの間に直接的な国交は存在しなかったが、日本における彼の活躍がきっかけとなって正式な国交が樹立し、日本にベナン大使館が設立されるといった、名実共に日本とベナンの架け橋となった功績も残している。『素敵な宇宙船地球号』によれば、ベナンにあるかつて「アフリカのヴェネツィア」と呼ばれたガンビエのあるノコエ湖の水質浄化の活動をしている。ビートたけしや所ジョージらがベナンを救う運動をやっており、2009年1月2日に放送されたクイズ$ミリオネアに出演したたけしは、賞金1000万円を獲得したらベナンに学校を建設するための資金として全額を寄付すると宣言しクイズに臨み、たけしは見事1000万円を獲得。応援団としてたけしの1000万円挑戦を見守っていたゾマホンは小切手を手渡されるとたけしを「神様です」と呼び、感激のあまり床にひれ伏した。2009年4月19日に放送されたテレビ朝日系の特番ではたけしが子供の給食費としてタレントに1万円の寄付を呼びかけ(これで1年分以上の給食費になる)、その際所の知り合いに作ってもらった子供の顔写真入りカードを渡す。所は「たけし小学校」にスクールバスやランチプレートを贈る。特にランチプレートを丁寧に洗い、破れ掛けた包装用のビニール袋に入れて大切にしている子供の姿を見た所は「もっと良いカバーを作ってあげれば良かった」と想像以上に喜んでくれた子供に感心していた。またたけしに頼まれた田中義剛がベナンに渡って畜産を教え「花畑牧場ベナン支社」の看板を掲げる。
出典:wikipedia
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