野上電気鉄道株式会社(のがみでんきてつどう、のかみでんきてつどう)は、和歌山県にかつて存在した鉄道会社である。和歌山県海南市の日方駅から同県海草郡野上町(現在の紀美野町)の登山口駅までを結ぶ鉄道路線である野上線の運営や、同線沿線地域を中心にバス事業を行っていた。野上電鉄、野鉄と呼ばれ、現在はその名をかつての関連会社であった野鉄観光、野鉄タクシーや野鉄商事(野鉄観光関連会社で直接の資本関係はなし)に残す。監督官庁認可の正式名称では「野上」の読みは「のがみ」だが、沿線においては地名と同じく「のかみ」と発音する。野上電気鉄道は、たわしやロープなどの特産品を、港のある日方町(現在の海南市)へ運搬することを目的に、1913年8月に設立された。1916年2月4日に日方 - 野上(後に紀伊野上に改称。なお、同時に阪井も紀伊阪井に改称)間が開業。紀勢本線の箕島 - 和歌山(現、紀和)間の開業よりも8年前のことであった。1928年3月29日には野上(後に紀伊野上に改称) - 生石口(後に登山口に改称)間が開業した。地場資本による経営で大手私鉄の傘下に入らず独立した経営を行っていたが、モータリゼーションの進展による乗客の減少から経営難に陥った。それと同時に特産品の輸送は次第にトラック輸送に置き替えられるようになり、1966年10月1日に小口扱い貨物を、1971年6月1日に車扱い貨物をそれぞれ廃止した。そのため1971年に全線廃止の方針を打ち出し、第一段階として1973年に沖野々 - 登山口間の廃止を国に申請している。ところが直後に起こった第一次オイルショックにより鉄道見直しの気運が高まったことを受け、1975年に廃止申請を撤回し、国や海南市など沿線自治体の補助金を受けることで延命した。その後もモータリゼーションの進展は止まることなく、利用客も沿線の高校への通学生と工場の従業員が中心となったため、1983年に交換駅である紀伊野上駅の日中時間帯無人化による運行本数の削減(1時間あたり2本を1本程度に)を実施した。鉄道施設は局部的には近代化整備を実施したものの、全体として老朽化が激しい状態であったが、幸いにも列車運転に支障をきたす重大な故障は廃線まで発生しなかった。1992年に国の地方鉄道への欠損補助金見直しにより栗原電鉄とともに支援打ち切り対象に指定され、この時改めて全線廃止、会社解散の方針を打ち出した。沿線に住民からは廃止反対運動やさまざまな改善案がだされたものの、単年度で2億4千万円もの赤字を出し、1992年当時の借入金は11億円、1992年度決算での累積赤字は7億円にも上り、退職金の資金源もなく人員削減などの合理化もできない状態であった野鉄にとって、自力再建は到底無理な話であった。方針通り1994年に野上線を廃止し、バス事業も海南市の運送会社大十株式会社に譲渡して会社は解散した。引き継いだバスは大十(2004年から子会社の大十バス)が大十オレンジバスとして運行している。末期の野上電鉄は補助金に頼り切り、ワンマン化や大手私鉄の経営指導を受け入れるなどの自助努力を怠っていたとの指摘もある。補助金が打ち切られると企業倒産を回避するためとして、全事業を廃止し会社解散の道を選んだことはこういった指摘の裏付けと考えられている。海南市の日方駅から海草郡野上町(現在の紀美野町)下佐々の登山口駅に至る野上線1路線を有していた。登山口駅から高野山(高野町)までの延伸を計画していた時期もあり、1922年(大正11年)に野上(後の紀伊野上)- 生石口(後の登山口) - 大木 - 下神野村(美里町神野市場、美里町は現在紀美野町の一部)間の免許を取得、1925年(大正14年)に大木 - 下神野村間が失効するが、登山口駅まで全通させた1928年(昭和3年)にはあらためて大木 - 下神野村 - 高野町の免許を取得し、生石口 - 神野市場間は1930年(昭和5年)までに着工された。しかし延伸について株主や社内で意見が分かれたため建設は中止となり、1931年(昭和6年)に上神野村 - 高野町間、1932年(昭和7年)に下神野村 - 上神野村間の免許が失効した。その後も生石口 - 大木 - 下神野村間の免許を維持していたが最終的に1964年(昭和39年)に失効している。延伸区間では一部の橋脚が完成していたが、その後の台風で倒壊し放置されていた。地元は野上電鉄に倒壊した橋脚の撤去を求めたが、何の対策も取られないまま会社が解散してしまった。1971年までは貨物事業も行っており、国鉄との間で連絡輸送を行っていた。このため、日方駅と隣接する国鉄海南駅との間で双方の線路が接続し、貨車の受け渡しを行っていた。電気機関車はなく、電動貨車または貨車が貨物取り扱い駅(重根駅や紀伊阪井駅など)まで電車に牽引されていた。これらの駅には貨物の保管倉庫が用意されていた。なお、貨車は古くは自社所有車、貨物営業末期は国鉄貨車を使用した。過去の接続路線日方駅の次には連絡口駅があり、JR海南駅との連絡口が設置されていた。正式には日方駅構内の別ホーム扱いで運賃計算上は日方駅と同一であった。このような経緯上、日方 - 連絡口間のみの利用はできなかった。また、連絡口での降車は紀勢本線への乗り換え客に限る旨看板があった(ただし誤って降車した乗客には例外的に海南駅改札経由での出場が認められたこともある。また、『鉄道ピクトリアル』にかつて掲載された記事によると、海南駅の裏口として国鉄のみの利用客も要領良く取り扱っていた時期もあったという)。登山口方面行は、JRからの乗り換え客が居ない場合は、連絡口を通過していた(この場合、通過可であることを示す旗が掲げられた)。連絡口駅では、国鉄区間の乗車券を発売していた。ただし、学割の使用など連絡口駅では処理できない場合もあり、そのときは一度海南駅改札から出場し、海南駅窓口での購入を指示されていた。途中、重根駅と紀伊野上駅(かつては北山駅でも)で列車交換が可能であった(列車本数の少ない時間帯では併合閉塞を行っていたため紀伊野上駅での交換はなかった)。開業以来列車運行上(案内上)は登山口行きを「上り」、日方行きを「下り」としていた。理由は今となってはわからないが、紀勢西線の開通前で原則通り東京方(東方)に向かう登山口駅行きを上りとしたとする説、登山口に向かい平均上り勾配のためとする説(地元では、登山口地区方面を『上(かみ)』、日方地区方面を『下(しも)』と呼称している)などがある。その一方で起点が日方駅、終点が登山口駅であることから路線上は登山口駅行きが下りとなり列車運行上と路線上で上下の方向が逆転していた。監督官庁からは再三にわたりどちらかに統一するように指導を受けていたが廃線まで実現しなかった。車両は元阪神電気鉄道の小型車や、富山地方鉄道の小型車が中心で、さらに阪急電鉄の草創期の車両まであって、「動く博物館」とも呼ばれた。中には明治製菓の明治アーモンドチョコレートの広告塗装車や「これが淡路かニースじゃないか」という淡路島のホテル「アイランドホテル」の奇抜な大型広告看板を車体側面に取り付けた車両もあった。モハ20形・モハ30形の集電装置は入線時のポールから後にZパンタグラフに交換されている。またデ10形をのぞいて、いずれも下回りは南海の廃車発生品といわれるものを使用していた。廃線時にはこのほかに廃車貨車が2両、資材置き場として姿を留めていた。1両はトチ3、残る1両は番号不明の無蓋車であった。末期は以下の各線で営業を行った。許認可上の正式路線名称(起点 - 終点)運行拠点は登山口営業所で、登山口駅舎(鉄道駅)内に営業所を置き、バスの駐車場も登山口駅(鉄道駅)構内にある鉄道・バス共用駅であった。並行する鉄道線にあわせ和歌山市および本社前→登山口→中新城、真国宮および小川宮駅に向かう路線が「上り」、逆が「下り」と呼ばれていた。したがって、鉄道線同様路線上とバス運行上で上下の逆転する区間が発生した。具体的には海南線(起点本社前→終点登山口)である。ただし、バス運行は正式路線区間に限らず登山口を中心に実施された。観光バス部門は1975年に野鉄観光に分社化した。なお、分社した野鉄観光との関係であるが、野鉄観光が分社後に業務拡大に伴う増資を何度か行った際、野上電気鉄道は親会社であるにもかかわらず経営上の問題から増資分を引き受けることができず、結果的に出資比率は徐々に低下。支配力が及ぶ子会社としての実態を失い、野鉄観光はなし崩し的に独立経営へと移行する形になった。なお、野上電気鉄道の会社清算時には、野上電気鉄道の出資比率はわずか数パーセント程度となっていた。
出典:wikipedia
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