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中通り

中通り(なかどおり)は、福島県の中部にあたり、西に奥羽山脈と東に阿武隈高地に挟まれた太平洋側内陸の地域である。福島県は奥羽山脈と阿武隈高地、その2つの山地によって会津と中通りと浜通りの3地域に区分されている。西に奥羽山脈、東に阿武隈高地に挟まれた南北に細長い地域で、そのほぼ中央を大小の盆地を貫きながら阿武隈川が北流する。そのため、阿武隈地方と呼ばれることもある。「中通り」は中山道に因んだ名称で、関ヶ原以前の中山道は「東山道」という名称で、高崎から宇都宮を経て現在の中通りを経由するルートであった。この東山道と似て阿武隈川に沿う経路で、東京を起点に国道4号や東北自動車道、東北本線や東北新幹線が当地を貫いている。北部の福島市、中部の郡山、南部の白河の3都市が中心的な都市として鼎立しており、これら3都市に東北新幹線の駅が設置されている。近年では更に集約されて、県庁所在地の福島市を中心とした福島都市圏(仙台寄りで米沢と親密)と、経済と交通の中心地である郡山市を中心とした郡山都市圏(宇都宮寄りで会津と親密)が二大経済地域を形成している。那須火山帯山麓は豪雪地帯で日本海側気候、それ以外の地域は太平洋側気候を呈している。農業面では福島盆地が桃をはじめとする果物の産地として全国的に知られ、県中部では主にきゅうりをはじめとする野菜や稲作が盛んである。古代には、当時のヤマト王権の中心地だった畿内から本州の内陸側を抜ける道が白河から阿武隈川沿いに信夫郡まで達し、この道は律令制以後に官道となって東山道と呼ばれた。各々の道の名前はその道沿いにある国を括る地方区分としても用いられ(五畿七道)、当地は東山道に属する陸奥国の一部をなした。養老年間(717年 - 724年)の短期間であるが、当地の会津郡、信夫郡、白河郡、石背郡、安積郡の5郡が陸奥国から分離され、石背国(いわしろのくに)として独立していた。鎌倉幕府開府に先立つ文治5年(1189年)の奥州合戦では、源頼朝が差し向けた鎌倉軍を迎え撃つために藤原泰衡が伊達郡(平安時代中期に信夫郡から分立)に阿津賀志山防塁を築いて一大激戦地となり、奥州藤原氏の本拠地だった平泉までの進撃路となった東山道は鎌倉時代に鎌倉を起点とする奥大道(奥州大路)に改まった。当地は陸奥国の他の地域と別して仙道六郡とも呼ばれるようになった。具体的には白河郡(石川郡と白川郡を分立させた後の)、岩瀬郡(石背郡が転じた)、信夫郡、伊達郡、安積郡(田村郡を含む?)、安達郡(安積郡の東北部が分立)を指した。戦国時代(安土桃山時代)には、中通り北部は伊達郡を本貫とした伊達氏、中通り中部は三春を本拠地とした田村氏を初めとして、名だたる武将が中通りを行き交って合戦を行い、領主が目まぐるしく変わった。上杉景勝の家老、直江兼続は徳川家康による会津征伐軍を迎え撃つため、白河郡革籠原(かごはら、現白河市白坂石阿弥陀)に長大な防塁を築いた。徳川時代の中通りの官道は、江戸を起点とする奥州街道となって南北に貫き、幾つもの藩や宿場町が分立していた。道沿いには福島藩、二本松藩、白河藩、棚倉藩などの藩が分立していた。白河城下からは、会津道が猪苗代湖より南の経路(現国道294号)で若松城下へ、そして、現在の下越地方の新発田城下を経て日本海沿岸の港町である新潟へと繋がり、福島城の北の桑折宿からは、羽州街道が上山城下を経て内陸部を横手盆地まで下り、それから日本海沿岸の久保田城下へと繋がっていた。1869年1月19日(明治元年12月7日)には陸奥国が分割され、信夫、伊達、安達、安積、岩瀬の5郡に、会津、大沼、河沼、耶麻の4郡を合わせた9郡で岩代国が分立し、戊辰戦争後に岩代国の領域に存続した藩は、福島藩と二本松藩のみであった。1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県時には、岩代国で藩主が藩知事から横滑りのまま県となったのは二本松県だけで、他の区域は福島県と若松県(会津地方)の2県に再編されて、明治新政府が任命した(権)知事が治めた。また、磐城国に含められた棚倉県と三春県は存続したものの、白河県(西白河郡)は明治新政府直轄県となった。こうして、中通りには福島県と二本松県と白河県の3県が鼎立した。次いで1871年12月13日(明治4年11月2日)の第一次府県統合で福島県と二本松県と白河県が合併され、同11月14日(1871年12月25日)に二本松県は福島県に改称され、県庁も福島に移転した。1876年8月21日の第二次府県統合によって、福島県1876年以前(中通り)・若松県(会津地方)、磐前県(いわさきけん。浜通り)の3県が合併され、現在の福島県が設置された。明治初期の福島県内の都市人口順位は、第1位が若松町(会津若松市、旧若松県庁所在地、1899年市制)、第2位が福島町(福島市、旧福島県庁所在地、1907年市制)という順位であり(→東北地方#人口)、県庁所在地を決める際にこの2都市が対立した。一方、浜通りには、平町(いわき市平地区、旧磐前県庁所在地、1937年市制)と中村町(相馬市中村地区、旧中村県庁所在地、1954年市制)という2つの旧県庁所在地が並立していたが、蚊帳の外に置かれてしまった。といった点が挙げられる。その後、明治政府によって安積疏水(1881年完成)を初めとした安積原野の開発事業が行われ、郡山(1924年市制)が商工都市として発展した。中通りを南北に貫く東北本線、東の平へ至る磐越東線、西の会津若松や新潟へ至る磐越西線、南東の棚倉や水戸へ至る水郡線と、次々と建設された鉄道の結節点となった郡山駅を持つ郡山が、交通都市としても勃興し、1935年には福島県第1の人口を擁する都市圏となった(→郡山都市圏)。一方、北の拠点である福島市は、南北軸である東北本線に加えて、東の中村、西の米沢や坂町への交通拠点であるが、米沢や坂町へ至る鉄道路線(奥羽本線・米坂線)は建設されたものの、中村への鉄道路線は建設されなかった(→阿武隈急行線)。第二次大戦後、高度経済成長期(1960年代)までには国道4号の舗装が完了し、1970年代には東北自動車道も建設されたため、主に京浜工業地帯の企業が、安い土地と労働力を求めて、関東地方に比較的近い福島県中エリアに進出した。これは、当時の福島県知事である木村守江が、常磐郡山新産業都市として中通り中部の開発を促したからである。中通りでは北部の福島市近辺では公共事業関連業種が発展し、中部の郡山近辺では内陸機械工業が発展し、共に資本関係からも関東との繋がりが深い地域となった。この頃から、モータリゼーションと郊外住宅地の開発が中通りで始まった。1982年6月23日には東北新幹線が開通し、各都市で第三次産業人口比率が更に大きくなった。中通りでは、福島市が業務機能の中心地、郡山が商業の中心地、白河が県南エリアの拠点という棲み分けを確立していった。1990年代には、郡山出身の佐藤栄佐久知事の下で、中通り本宮以南と会津地方が重点的にインフラを整備された。この佐藤栄佐久知事下を象徴するインフラが、1993年に須賀川付近に開設された福島空港と、1997年10月1日に全通した磐越自動車道である。この結果、中通り中部や会津地方に、流通・工業地区が集約されるようになった。2011年3月11日に発生した東日本大震災を動機に、会津地方・置賜地方~中通り~浜通りを結ぶ高速道路(通称:復興道路、復興支援道路)の整備が促進されることになった。中通りと浜通りを結ぶ連絡高速道路として、1997年10月開通の磐越自動車道(郡山~平)に加えて、2018年には東北中央自動車道(福島~中村)が開通を予定している。中通りの地域は大きく3つに分かれており、東北新幹線の駅のある福島市(行政の中心)、郡山(経済の中心)、白河が、三大拠点として定立している。福島県庁地方振興局は、福島市周辺を県北、郡山市周辺を県中、白河市周辺を県南と呼んでいる。中通りは盆地に位置しているため、同じ盆地同士である奥羽山脈以西の内陸部(会津地方、山形県置賜地方)との交流は深いが、阿武隈山地を越えた浜通りとの交流は浅い。中通りの範囲には、県北・県中・県南の3つの地方振興局が置かれている。人口は2010年(平成22年)国勢調査。都市圏(都市雇用圏、10% 都市圏)は、北から福島都市圏、郡山都市圏、白河都市圏の3か所が認められる。都道府県内の複数の都市にテレビ局が立地しているのも福島県内の特徴である。これは行政の中心地(福島市)と経済の中心地(郡山)が離れて分立しているためである。なお、福島市と郡山は45km離れている。

出典:wikipedia

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