堂本 剛(どうもと つよし、1979年4月10日 - )は、日本のアイドル、歌手、俳優、タレントである。KinKi Kidsのメンバーである。奈良県奈良市出身。ジャニーズ事務所所属。身長166cm。血液型はAB型。KinKi Kidsのメンバー・堂本光一と同姓だが、縁戚関係はない。1979年4月10日、奈良県奈良市で堂本家の長男として誕生。6歳上に姉がいる。「強い子に育つように」という想いが込められ、父親に「剛」と名づけられる。1983年、西大寺幼稚園に入園。1986年、奈良市立西大寺北小学校に入学。バスケットボール部に入り、自宅の庭にゴールを作ってもらい、毎日練習した。大人になってからも自身が出演するテレビドラマ『青の時代』や『若葉のころ』でプレイする姿を見せたり、自身の冠番組である『堂本剛の正直しんどい』でチームを作って経験者らと試合をするなどしている。小学校時代は大阪市北区にある児童劇団『劇団アカデミー』に所属し、堂本直宏(どうもとなおひろ)の芸名で子役として舞台・ドラマ・CMなどに出演していた。北島三郎の舞台では親子役で共演したり、ダウンタウンが関西ローカル時代にやっていた『ダウンタウン物語』(毎日放送)などの番組に出演したりしている。他にも事務所入所前に「堂本直宏」として国分太一などの一部のジャニーズタレントと共演した等のエピソードがある。ちなみに「直宏」という芸名の由来は、姉の初恋の人の名前から。小学5年生で子役活動は辞め、6年生からは学業に専念する。小学6年生の時、母親と6歳上の姉が本人の知らない間に履歴書をジャニーズ事務所に送ったことがきっかけで、光GENJIのコンサートに招待される。当時はバスケットボールに夢中で中学受験も考えていたため、事務所に入るつもりはなく断る予定だったが、1991年5月5日、「断るにしても自分の口で言いなさい」と母親に連れて行かれた横浜アリーナでコンサートを鑑賞し、堂本光一と出会う。そして事務所の2 - 3日預からせてほしいという申し出に即答した光一と共に、事務所入りを決める。1992年、奈良市立平城中学校に入学。地元の奈良で中学校に通いながら、仕事があるたびに新幹線で奈良と東京を往復した。中学2年の10月、14歳の時に上京。上京後は事務所の合宿所に住み、岡田准一と同じ部屋で生活していたこともある。1993年4月4日、ABCテレビ『KISSした?SMAP』にて初めて「Kinki Kids」のグループ名を発表。1994年に出演した『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら〜』、1995年から1997年に主演した『金田一少年の事件簿』シリーズは高視聴率を記録し、役者としても本格的に活動。ソロでエンディングテーマ「ひとりじゃない」も担当した。2000年夏、KinKi Kids編集の単行本『どーもとモード』の取材で健康診断を行った際、長年B型だと公言していた血液型が実はAB型だったことが発覚。横浜スタジアムのKinKi Kidsのコンサートでファンに発表、以降のプロフィールは訂正された。2002年5月29日、シングル『街/溺愛ロジック』で堂本剛名義でソロデビュー。2005年には、TOKIOの国分太一とともに期間限定ユニット「トラジ・ハイジ」でも活動。2006年10月19日、初ソロ写真集『正直I LOVE YOU』を発売。2008年4月20日、奈良市観光特別大使に就任。元々人前が苦手で何かあると胃薬を服用することが多かったが、芸能界活動に対するストレスから、CDデビューしたての頃に過呼吸を発症。2000年夏のコンサートツアーにて、ナゴヤドームでの第1部公演の途中に、過呼吸の大きな発作に見舞われる。2003年5月の「Dome F Concert」の途中体調不良で倒れたことをきっかけにして、同月、ジャニーズオフィシャル携帯サイト「Johnny's web」にて、自ら過換気症候群、パニック障害と闘病中であることを告白した。なお、その後2003年7月に行われた『ずーっといっしょ。』出版記念展覧会の記者会見でも「病気とは長く闘っている。光一にも助けてもらっている。」と発言している。苦しい時を乗り越えた現在は、「18歳からの5年間は死にたいと思っていたが、音楽が僕を救ってくれた。音楽やギターと出会えていなかったら、僕はもう居ない。」と、この“死にたかったが死ねなかった頃”について自身のソロライブや雑誌のインタビューで振り返るようになっている。高所恐怖症でありながら、1995年の第23回『新春かくし芸大会』ではスカイダイビングにチャレンジしたり、自身のバラエティ番組『つよチャン堂本舗』ではジェットコースターに乗るなど本人にとっては過酷な企画に挑戦していた。。TBS系テレビドラマ『夢のカリフォルニア』の主題歌「街」が反響を呼び、2002年4月26日、堂本剛ソロ名義でCDがリリースされることが発表され、ソロデビューが決定。同時に7月から初のソロツアーを行うことも発表された。2002年5月29日に両A面シングル『街/溺愛ロジック』が発売。KinKi Kidsのアルバムにもソロで自作曲を収録していたが、ソロでのシングル発売はこれが初。また、ジャニーズ事務所所属のタレントが自作曲でデビューするのも初めて。しかし曲調はいわゆるアイドル曲とは異なり、ラブソングではなくメッセージソングで詞の内容も男っぽかったため最初は理解が得られず、事務所に呼び出されてヘアスタイルや髭、ファッションやマニキュアなどの外見のことも含めて怒られた。しかし事務所の社長であるジャニー喜多川だけは最初からずっと「変化球を投げ続けろ」と応援してくれていたという。『夢のカリフォルニア』の主題歌をソロで担当することになったのも元々は社長の「ミュージカルやらない?」という誘いを即答で断った堂本に対しての代替案であり、社長が直々にレコード会社の社長に提案した結果、実現したものだった。これらのこともあり、「今僕が音楽をやれているのはジャニーさんのおかげ」と堂本は感謝の意を示し続けている。そして、“ジャニーズというカテゴリーの中では異端”と言われながらも、実際は全てにおいて事務所の許可を得たことしか実行してきていない。自身の意志を貫きながらもそのような姿勢を続けてきた結果、事務所の理解も得られて「今ではたくさんの人が僕のことを支えてくれている」とソロ活動10年で振り返っている。2005年12月、プロジェクトENDLICHERI☆ENDLICHERI(エンドリケリー・エンドリケリー)をEDWINとのコラボレーションで始動した。同時に2002年、2004年のソロ活動では区別されていなかったKinKi Kidsでの活動とソロでの音楽活動を分離。本人の意向により、KinKi Kidsの持つラジオ番組では楽曲を一切流さない、KinKi Kids公式サイトやファンクラブ会報誌等への活動掲載を行わない、KinKi Kids名義で出ている雑誌(アイドル雑誌など)では話題を出さない、レコード会社やコンサート事務局を事実上分社扱いにするなど、KinKi Kids名義の活動とは完全に切り離した活動を行っている。プロジェクトネームをつけるにあたり、本人は「芸術的なアプローチをする際に使う名前。今までの大切な活動を守るために分けた」と語っている。2011年10月、アルバム『Nippon』で欧州デビュー。KinKi Kidsよりも早い海外デビューとなった。※プロジェクト名や名義の"ENDLICHERI☆ENDLICHERI"は"E☆E"と表記する。※テレビドラマ、映画以外は個人での出演のみ記載。2人での出演はKinKi Kids#出演を参照。
出典:wikipedia
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