大溝藩(おおみぞはん)は、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市勝野)に存在した藩。藩庁は大溝陣屋。戦国時代、大溝は織田信長の家臣・磯野員昌や津田信澄が治めていた。元和5年(1619年)8月27日、伊勢上野藩から移封された分部光信が2万石で入部することにより、大溝藩が立藩した。光信は陣屋や武家屋敷の建設に尽力し、幕府においても大坂城本丸普請や比叡山延暦寺の造営奉行として活躍した。寛永20年(1643年)に光信が死去して子の分部嘉治が後を継いだが、明暦4年(1658年)7月9日、妻の叔父に当たる池田長重と些細なことから口論となって長重を斬殺してしまい、自分も長重によって負わされた刀傷が原因で翌日に死去してしまったのである。家督は子の分部嘉高が継いだが、嘉高は寛文7年(1667年)6月12日に20歳で嗣子無くして若死する。このため、分部氏の系統はわずか3代で断絶した。このため、第4代藩主として嘉高の母の縁戚に当たる備中松山藩から分部信政(池田長信の三男で、皮肉にも池田長重の甥に当たる)を養嗣子として迎えた。この頃から藩内ではたびたび大洪水が起こって収入が激減し、それによって藩財政は次第に悪化していった。寛文9年(1669年)には1万石、延宝4年(1676年)には1万3,000石が大洪水によって徴収できず、それによって参勤交代の免除を幕府に願い出ているほどである。また、歴代藩主の多くが大坂城加番などの役職を歴任したり、罪人の預かりを務めている。第10代藩主・分部光寧のときには探検家として有名な近藤重蔵を預かっている。藩財政は江戸時代中期頃になると火の車となり、第8代藩主・分部光賓は三宅玄章と共に財政5ヵ年計画という改革を断行したが、あまり効果は無かった。第11代藩主・分部光貞のときに幕末期の動乱を迎えたが、光貞は中風に倒れてしまったため、あまり幕末における目だった行動は見られない。光貞は版籍奉還の翌年に死去し、後を子の分部光謙が継ぐが、光謙は明治4年(1871年)7月の廃藩置県直前に藩知事を辞任し、大溝藩はここに廃藩となり、大津県に編入されることとなったのである。ちなみに、光謙は昭和19年(1944年)11月29日に死去した、江戸時代の藩主の中で最後まで生存した人物であった(但し、光謙の時代には既に版籍奉還が行われており、上総請西藩の林忠崇(戊辰戦争で幕府側について改易、昭和16年死去)か大藩であった安芸広島藩の浅野長勲(昭和12年死去)「最後の藩主」とするのが通説である)。外様。2万石。
出典:wikipedia
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