大内宿(標準語・共通語:おおうちじゅく、会津弁:おおちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある旧宿場。重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。南会津の山中にあり、全長約450mの往還()の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある()。民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。奥羽山脈山中の、1000m級の山々に囲まれた標高658m前後にある小規模な盆地の東端にあり、その東側の崖下には小野川(阿賀野川水系。新潟市で日本海に流れ出る)が南流している。日本海側気候に属し、夏はフェーン現象で暑くなり、冬は豪雪となる。旧宿場区域と高倉神社周辺の11.3haが重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、同地区および福島県道131号下郷会津本郷線との接続道周辺などを除く、他の盆地内の平地は農業振興地域に指定されている。周辺の主な山周辺の峠江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町。)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永。)、関山宿(会津美里町氷玉関山。)を経て山岳地に入り、氷玉峠()および大内峠()を越えて大内宿に入った。大内宿からは中山峠()を越えて倉谷宿()に入り、日光街道・今市宿(栃木県日光市今市。)へと至った。若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没(五十里ダム参照)。会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、すでに定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。1946年(昭和21年)11月20日、楢原村は町制施行して楢原町となるが、この年に当地にも電気が引かれ、ランプから電灯での生活に変化した。1955年(昭和30年)4月1日には楢原町・旭田村・江川村が合併して下郷町が成立。日本で高度経済成長が始まると、当地にも昭和30年代半ばにはテレビや耕運機を手に入れる世帯が見られ、昭和40年代になると簡易水道が引かれて近代化の波が押し寄せ始めた。昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織(結・講)に支えられていることが判明した。その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。1969年(昭和44年)6月26日の朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム、1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダムの補償金や建設工事の従業収入を得た。また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業・第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されたため、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否し、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所・風呂・トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。1970年代の2度のオイルショックを経て日本は安定成長期に入り、一億総中流が定着した。1980年(昭和55年)7月12日、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定。同条例に基づき決定された伝統的建造物群保存地区は1981年(昭和56年)4月18日、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。旧宿場としては長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて全国で3番目の選定である。同年5月14日には「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則」も制定された。同年9月、「大内宿保存会」が設立されて住民による町並み保存活動が始まり、「大内宿を守る住民憲章」も制定された。1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。積雪期に観光客が減少する対策として、1986年(昭和61年)より2月に「大内宿雪まつり」を開催するようになった。大内宿最寄りの会津線・湯野上温泉駅が、国鉄分割民営化に伴って1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道から東日本旅客鉄道に、さらに同年7月16日に会津鉄道(第三セクター鉄道)に承継されたが、このとき同駅舎も茅葺屋根に建て替えられ、同年12月19日に完成した。並行して、1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路の新設が行われ、1989年(平成元年)から翌年にかけて電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し、「裏配線」により旧街道の無電柱化を実現した。その後、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。すると1992年(平成4年)、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞した。1996年(平成8年)には「大内宿の自然用水」として「日本の音風景100選」に選定。1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞し、「知っていそうで知らない日本の文化の発見」として「わたしの旅100選」にも選定された。観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンでさまざまにPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。観光客の増加に伴い、周辺道路に渋滞が発生するようになったため、2009年(平成21年)2月23日に「大内宿周辺地域渋滞対策協議会」が設立された。当地は文化財保護法に基く重要伝統的建造物群保存地区として選定されているため、可燃性の茅葺屋根の民家が密集している状態が維持されているが、その分火災の発生危険度は高い。対策として1991年(平成3年)度から各戸に自動火災報知設備、屋内消火栓、放水銃等が整備されている。また、消防団、婦人消防隊、大内宿火消組(消防団OB)、下郷町立江川小学校大内分校少年消防クラブなど各年齢層などで自主防災組織が結成され、1993年(平成5年)4月1日には「下郷町大内宿防災会」が発足している。これらは平時の消防訓練の他に、子供たちが花火をしてよいのは8月15日の年に1回に限るなど、自主的な防災活動を行っている。このような活動が認められ、1999年(平成11年)には、「文化財(大内宿)を守る自主防災活動」が第4回「防災まちづくり大賞」の(財)消防科学総合センター理事長賞を受賞した。観光シーズンには福島県道329号湯野上会津高田線が渋滞し、国道にまで影響が及ぶことがある。会津若松方面からは、大内ダムを経由する福島県道131号下郷会津本郷線(大内宿こぶしライン)を選択した方が混まずに到達することができる。一般車両および観光バスなどの駐車場は大内宿の南東にあり、宿場内への車の乗り入れは規制されている。観光シーズンには、より大内宿に近い有料駐車場で駐車待ちが発生する一方、大内宿から離れている無料臨時駐車場は空いている場合がある。会津バスが大内宿を経由する路線バスを運行しているが1日数本しかなく、観光客には使い勝手が悪い。
出典:wikipedia
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