LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

リヒャルト・ワーグナー

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。日本語ではワーグナー、ワグナーと書かれることが圧倒的に多いが、専門書などではドイツ語発音のや英語発音の(英)/(米)に近いヴァーグナー、ヴァグナーとも表記される。日本語ではかつて、語尾の「-er」を母音化させない古典的な舞台ドイツ語の発音をもとにしてワグネル、ヴァーグネルとも表記された。フランス語では同言語の発音通則から外れて(ヴァグネール)と読む。1813年、ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・ワーグナーは警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。カールはリヒャルトの生後まもなく死に、母ヨハンナはカールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した。ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物であった。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。1830年10月、ベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲しマインツのショット社に刊行依頼をするも、断られる。1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも編曲版には不備も多く、出版には至らなかった。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。またこのころ、聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル)であったテオドール・ヴァインリヒに作曲指導を受けていた。翌年1832年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。1834年にマグデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナー(Minna Planer)と出会い、恋仲となる。1836年には「恋愛禁制」を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへと向かい、同地で結婚した。彼女とはのちに次第に不和となった。1837年にはドレスデン、さらにリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。1839年パリへ夜逃げ同然に移ったが相変わらず貧しかった。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いた。しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになる。一方で「リエンツィ」は1841年6月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに「リエンツィ」の初演に立ち会うためにドレスデンへと戻った。ドレスデンでの1842年10月20日の「リエンツィ」初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目されることとなった。この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された。1月には『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これはリエンツィとは違ってそれほどの評判を得られなかった。1844年にはイギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。ウェーバーを尊敬していたワーグナーは葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、さらに追悼演説を行って、多才を発揮した。1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初は不評であった。しかし上演され続けるうちに次第に評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになっていった。1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備のかいあってこの演奏は大成功に終わった。以後、『第九』は名曲としての評価を確立する。1848年には『ローエングリン』を作曲したが、上演はこの時はなされなかった。1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流する。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間を亡命者として過ごすこととなった。この亡命中にも数々の作品を生み出す。『ローエングリン』はリストの手によってワイマールで1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになる。もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を見ることができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたという。ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年のウィーンにおいてのこととなる。この時期、彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭尽くのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もあった。1851年には超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。この時期には数人の女性と交際していた。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデ(Mathilde Wesendonck)と恋に落ち、ミンナとは別居した。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲している。しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィア、ルツェルン、パリと転々とすることとなる。1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可されるようになった。1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかった。この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者ではなくなった。そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この時の再会以後二人は会うことはなかった。またこの頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。追放令が取り消された後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima, 1837年 - 1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー一派と敵対していたブラームス派に加わる。1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868年6月21日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。『ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものであるが、現在でも歌劇以外の作品として特に有名である。1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。1874年に『ニーベルングの指環』を完成。劇場は1876年に完成し、『指環』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じている(詳しくは『パルジファル』)。このころには祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的となる。彼の言行はいろいろな形で流布され、反ユダヤ主義者としても有名となったが、その一方でユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィ(Hermann Levi)に『パルジファル』の指揮を任せたりしている。1883年2月13日、ヴェネツィアにて旅行中、客死。遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった。ワーグナーの死後、祝祭劇場はコジマが運営し、1907年からコジマは引退して息子のジークフリート(Siegfried, 1869年 - 1930年)が中心となって運営した。ジークフリートは作曲家としても活動している。ワーグナーを好んだヒトラーは晩年のコジマに面会している。1930年にコジマとジークフリートが相次いで死去すると、ジークフリート夫人のヴィニフレート(イギリス出身、1897年 - 1980年)があとを継いだが、彼女はヒトラーと個人的にも親しくし(一時は結婚の噂もあったほどである)、ついに祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けることになった。なお長女フリーデリント(Friedelind, 1918年 - 1991年)は母のナチスへの協力を嫌って出奔し、アメリカへ亡命した。第二次世界大戦の敗戦後、ヴィニフレートはナチスとの協力の責任を問われて祝祭劇場への関与を禁止された。劇場は一時アメリカ軍に接収されたが、長男ヴィーラント(1917年 - 1966年)に返還。1951年、フルトヴェングラー指揮の第九でバイロイト音楽祭も再開された。ヴィーラントは戦後のバイロイトでの上演の多くを演出し、舞台装置を極端に簡略化し、照明の活用と、わずかな動きに密度の濃い意味を持たせるその演出技法は、巨匠カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに「新バイロイト様式」として高い評価を受けるとともに、ナチス時代との訣別を明確にした。なお、彼の演出にはテオドール・アドルノ、エルンスト・ブロッホらナチスとは対極的な多くの知識人の支持・支援があった。ヴィーラントの死後は弟のヴォルフガング(Wolfgang, 1919年 - 2010年 )が兄の子息たちを完全にバイロイトから追い払い、自分の子孫たちとだけ運営を引き継いだ。彼はヴィーラント時代から演出にも携わっており、兄の死後も少なからぬ作品の演出も行ってはいるが、ゲッツ・フリードリヒ、パトリス・シェロー、ハリー・クプファー等を筆頭に、外部の演出家による上演に比重が移って今日に至っている。ヴォルフガングはむしろ音楽祭の運営面での実績が顕著であるが、一方でバイロイトの兄方の子孫を無視したり、公的補助をほんの少ししか受け取らないでパトロンの金で多くを運営して人事を決める「私物化」と「商業主義化」への批判があり、優れたワーグナー指揮者・歌手・演出家が彼と対立して、音楽祭から身を引く例が少なくない。現在は、娘のエファとカタリーナが共同でヴォルフガングの跡を継いでいる。ワーグナーは、とくに中期以降の作品に於てライトモティーフ ("Leitmotiv" ) と呼ばれる機能的メロディの手法や無限旋律と呼ばれる構成上の手法を巧みに使用し、それまでの序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲がそれぞれ断片として演奏されていた歌劇の様式を、途切れのない一つの音楽作品へと発展させることに成功した。ワーグナー自身は「ライトモティーフ」という言葉は使用しておらず、「案内人」などと称した。一方、オペラの音楽ばかりでなく、劇作、歌詞、大道具、歌劇場建築にも携わり、それぞれのセクションが独立して関わってきた歌劇を、ひとつの総合芸術にまとめ上げた。これら作品は、楽劇とも呼ばれ、それはバイロイト劇場という専用舞台の建築運営へとつながってゆく。ワーグナーは指揮者としても高名で、「指揮について」などの著作もあり、指揮に対する独自の理論を打ち立て、多くの指揮者を育成した。同じく独自の音楽理論を掲げ、多くの弟子を養成したブラームスとは激しく対立し、近代以降の指揮理論の二大源流となった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。