御殿場線(ごてんばせん)は、神奈川県小田原市の国府津駅から静岡県御殿場市の御殿場駅を経て静岡県沼津市の沼津駅に至る東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(幹線)である。明治時代から昭和時代初期にかけては東海道本線の一区間であり、複線化も行われていた。だが1934年(昭和9年)12月1日の丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の御殿場線となり、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には不要不急線に指定され単線化された。しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。松田駅 - 御殿場駅間においては、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代から小田急電鉄小田原線新宿駅方面からの優等列車の乗り入れが行われ、東京都心 - 御殿場地区間のアクセスルートのひとつとなっている。JR化後の1991年3月16日には特急に格上げされ、それから2012年3月16日までの間は乗り入れ区間が沼津駅まで延長されていた。JR東海が管轄する在来線では唯一神奈川県に乗り入れている路線となっており、同社在来線の最東端の路線である。前述の歴史的経緯から東日本旅客鉄道(JR東日本)管理の国府津駅から沼津方面に向かう方が下りとなっている。2010年3月13日から御殿場駅 - 沼津駅間にIC乗車カード「TOICA」が導入された。一方、国府津駅 - 足柄駅間のTOICA導入予定は現在のところない。非導入の駅の中でもSuicaが導入されている国府津駅は、IC対応券売機での当線の乗車券購入には対応している。また、松田駅では小田急直通の特急「あさぎり」を利用する旅客専用に、運賃計算上の同一駅扱いである小田急新松田駅の入場・出場としてIC乗車カードを処理できる機器が設置されている。全線がJR東海静岡支社の管轄である。ただし国府津駅構内はJR東日本横浜支社の管轄で構内にある第一場内信号機が線路上の会社境界になっている。国府津駅から御殿場線に乗ると、東海道本線を左側に離して内陸に入り、やがて右側に曽我梅林を見ながら進み、梅林の最寄り駅となる下曽我駅に到着する。その後も酒匂川沿いの低地を北上し、小田急電鉄小田原線の上を通過すると特急「あさぎり」が運転される同線との連絡線が右側から合流し、松田駅に至る。ここからは酒匂川との距離が近くなり、東名高速道路が同線に平行して、時にはその上を越えて伸びる。カーブと急勾配は神奈川・静岡両県の県境を越えても続き、そのほぼ最高点が御殿場駅となる。同駅は沼津駅をのぞいて線内最大の駅で、観光客やビジネス客などで多くの乗降がある。ここからは黄瀬川に沿い、富士山の東麓斜面を駆け下る。車窓左側(西側)には富士山が広がり、特に御殿場駅近辺では遮るものなく、間近に迫る。この辺では丁度、宝永火口が正面に見える。25‰の勾配の途中に設けられている富士岡駅と岩波駅では、東海道本線時代に使用されていたスイッチバックの跡が残されている。裾野駅の手前で東名高速道路が右側(西側)に離れると、徐々に勾配が緩やかになり、下土狩駅の先では東海道新幹線が上を通る。愛鷹山が手前に見える頃に沼津駅に到着する。また、全線で常に左側には箱根山の外輪山を見ることになる。松田駅で小田急小田原線に連絡線経由で連絡しており、この連絡線を経由して特急「あさぎり」号が新宿駅 - 御殿場駅間で運行されている。この連絡線は小田急や箱根登山鉄道の新車を搬入する際にも使われ、JR貨物の機関車が搬入車両を牽引して普段は運用がない御殿場線に乗り入れ、連絡線を介して小田急小田原線の新松田駅まで入線する。普通列車は国府津駅 - 沼津駅間直通列車がおおむね1時間に1本、その間に御殿場駅 - 沼津駅間の区間列車が1 - 2本運行されている。国府津駅 - 山北駅・御殿場駅間の区間列車も運行されている。一部列車においてワンマン運転が行われている。沼津側では、2009年3月14日のダイヤ改正より、東海道新幹線との乗り継ぎを考慮した東海道線三島駅発着列車が朝夕を中心に上下あわせて16本設定された。2015年3月14日改正時点では三島駅発着列車は下り12本・上り7本で、このうち下りは朝に熱海行きが設定されている。富士・静岡方面との直通列車は、下りは朝に浜松行き・上りは朝に富士発・昼に島田発・夜に静岡発として各1本ずつ運行されている。また2012年3月17日のダイヤ改正前は、国府津側より東日本旅客鉄道(JR東日本)の東海道線東京駅からの直通列車があり、山北駅や御殿場駅まで運行されていた。直通列車廃止後も日光線日光駅へ向かう修学旅行列車が東京経由で山北駅まで乗り入れている。山岳地帯を走行するため、台風や大雨などで運転を見合わせることが多い。特に御殿場駅 - 松田駅間は運転見合わせが多い。普通列車は313系電車(静岡車両区所属)が主に使われる。中にはワンマン運転もある。また211系電車が朝と夕方の時間に313系と併結運用でのみ使われる。特急「あさぎり」は、小田急60000形電車「MSE」6両編成(喜多見検車区所属)で運行される。MSEにはミュージックホーンが搭載されているが、JR東海は電子警笛を認めていないため、御殿場線内では使用されない。「ワイドビュー」371系電車と小田急20000形電車「RSE」が使われていた当初、20000形は2編成製造されたが、371系は1編成のみの製造であったため、371系の検査時は「あさぎり」に限って20000形が代走した。東京 - 大阪間の幹線鉄道の一部として1889年に国府津 - 御殿場 - 沼津 - 静岡間が開通した。1896年に線路名称が制定され東海道線と命名、1909年には主な幹線を本線と称するようになり、東海道本線となった。この間の1891年の小山(現・駿河小山) - 御殿場間を皮切りに現在の御殿場線にあたる区間の複線化が進められ、1901年には国府津 - 沼津間の複線化が完成した。神奈川県側の県境駅になる山北駅には機関区が置かれ、御殿場駅は富士山への登山口として、それぞれ栄えた。また、1896年には日本陸軍初の演習が沿線に当たる富士山の東麓(後の富士岡駅近郊)で行われ、1912年には正式に富士裾野演習場として開設されたため、ここに向けての兵員・物資輸送にも活用された。しかし、箱根の外輪山の北側を迂回する「函嶺越え」の急勾配は輸送上の大きな障害で、その対策は半世紀近くにわたって大きな課題となっていた。当時の蒸気機関車は非力なため、各列車には山越えのための補助機関車(補機)を、下り列車は国府津駅、上り列車は沼津駅で停車して連結、途中御殿場駅で停車して解放した。この補助機関車には、その時代毎に最強力の機関車があてられた。明治時代には、連結器の容量が不足するため、編成の途中に補助機関車を組み込む運用を行い、急行列車に連結していた食堂車は、運転上の負担になるとして国府津駅・沼津駅で編成から切り離していたほどである。1930年から東京駅 - 神戸駅間で運転を開始した特急「燕」号は、その停車時間を切り詰めるため、国府津駅・沼津駅での補機連結停車はたった30秒、解放は御殿場駅付近を走行中に無停車で行っていた。なお機関車の走行解放は「燕」に限らず、他の特急列車・急行列車・貨物列車でも行っていた。この根本的な解決策として、1918年から熱海線の建設が始められ、国府津から小田原・熱海へと路線を延ばしていた。1934年、難工事となった丹那トンネルの完成により熱海 - 沼津間が開通すると、東海道本線は熱海線を編入して国府津 - 小田原 - 熱海 - 沼津間の短絡・平坦ルートとなり、国府津 - 御殿場 - 沼津間は御殿場線となった。この時、従来御殿場線区間にあった「三島駅」は「下土狩駅」と改称され、新規開通区間上に三島駅が設置された。駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)も国鉄との接続駅を新たな三島駅へ変更し、下土狩駅までの路線は廃止された。分離され、新たな名称を与えられることになった区間の線名は「箱根支線」・「箱根線」・「函北線」・「富士山線」など様々な候補があったというが、御殿場町(後の御殿場市)の請願によって現在の名称に決定されたといわれている。このルート変更により沿線地域は経済面で大きな打撃を被った。御殿場線分離後も御殿場駅には軍隊用ホームが設置され、多くの兵士が出征した。沿線の小学校で教師をしていた富原薫はこの光景を見て、童謡『兵隊さんの汽車』を作詞したとされている。この童謡は戦後『汽車ポッポ』と歌詞が改められている。御殿場線としての分離後もしばらく複線運転を行っていたが、第二次世界大戦時の物資不足から、1944年に山陽本線に編入された柳井線(岩国 - 柳井 - 櫛ヶ浜、この区間の山陽本線は1934年からその時まで現在の岩徳線ルートを採用)の複線化や横須賀線の横須賀 - 久里浜間の建設、樽見線の橋梁へ転用するため、片方のレールや橋梁が撤去され、1943年には単線化された。現在でも各所に旧東海道本線でもあった複線時代の名残をとどめる廃線跡が散在しており、車窓から確認できる。戦後、小田急電鉄の新松田 - 松田間の連絡線が1955年に開業し、新宿 - 御殿場間直通の準急が気動車で運転開始された。この直通準急には、本格的なものとしては日本初の2基エンジン形気動車(キハ5000形)が用いられた。また、この時期に新駅が多く設置され、キハ51形の投入に伴う普通列車の気動車化と合わせて地域内輸送により配慮されるようになった。1968年には全線で電化が完成し、小田急からの直通準急(1968年に急行化)も電車に置き換えられた。電化と同時に東京 - 御殿場間の急行「ごてんば」が運転を開始し、東京や横浜との都市間輸送が行われたが、1985年に廃止され、同線内の定期優等列車は小田急線直通急行「あさぎり」のみとなった。1987年の国鉄分割民営化では神奈川県内にかかる在来線としては唯一、JR東海の管轄となり、JR東日本の路線となった東海道本線の東京方面とは列車運行の分断が進められた。一方、1991年には「あさぎり」が特急化された上、運転区間も新宿 - 沼津間へと延長され、東京都内や小田急線沿線から伊豆半島西部(西伊豆)への観光輸送ルートとしての役割も期待されるようになった。御殿場以西に関しては御殿場 - 裾野間の各駅の交換設備の新設により、普通列車の増発も行われている。1999年からはワンマン運転が開始された。2012年3月に実施されたダイヤ改正で「あさぎり」の御殿場 - 沼津間が廃止となり、準急・急行時代と同じく小田急による片乗り入れに戻った。またJR東日本との直通運転が廃止された。括弧内は国府津駅起点の営業キロ。裾野駅、岩波駅はともにトヨタ自動車東日本(旧関東自動車工業)やキヤノンなど大企業が裾野市北部に工場を建設したことにより通勤客が激増、両駅とも利用者が大幅に増加した。このため、両駅の中間地点にある深良地区に市内で3番目の新駅を設置する構想が1965年(昭和40年)ごろから浮上し、20億円で駅舎を建設し、周辺地区17ヘクタールの開発を行う計画が浮上した。期成会は2005年(平成17年)、深良地区の住民5,000人を大幅に上回る21,000人の署名を集めて裾野市に提出、大橋俊二市長(当時)がJR東海に陳情し、大橋は2006年(平成18年)の4期目の選挙で、深良地区の新駅設置に「政治生命をかけて取り組む」と地元住民らに表明した。JR東海は市に対して「建設に運行の支障がないこと」「地域住民の乗降客が既存の駅利用者を減らすことなく2000人以上あること」「駅舎建設は全額地元負担であること」の3つの条件を提示した。このため、市は深良地区の定住人口を増加させるため、宅地化などへの開発へ区画整備の検討をしている。しかし、市街化調整区域の深良地区の開発には「市街化区域」への変更が必要であり、それも市の裁量だけで変更することはできず、国や県との調節が必要なため、2015年(平成27年)現在、新駅設置に向けた開発は進んでおらず、事実上「凍結状態」にある。
出典:wikipedia
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