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九州電気軌道

九州電気軌道(きゅうしゅうでんききどう)は、福岡県門司市・小倉市・戸畑市・八幡市(いずれも現在の北九州市)において路面電車路線を建設・運営した鉄道事業者である。略称は九軌(きゅうき)。1908年(明治41年)12月17日、北九州地区の門司 - 黒崎間を結ぶ電車路線を敷設することを目的として設立された。運営路線はのちの西鉄北九州線にあたり、法人としては現在の西日本鉄道(西鉄)の直接の前身にあたる。門司 - 黒崎間では1891年(明治24年)に九州鉄道の運営する鉄道路線が開通した。この路線は1907年(明治40年)に国有化され、現在では九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線となっている。しかし同線は九州島内の主要都市連絡を目的としており、北九州地区内のきめ細かな輸送には適していなかったため、別に路面電車の敷設が計画されたのであった。まず1905年(明治38年)10月に松方幸次郎をはじめとする関西の事業家により「門司電気鉄道」の名で門司 - 小倉間の軌道路線が出願され、続いて翌1906年(明治39年)7月には富安保太郎をはじめとする福岡県内の有力者により「八幡馬車鉄道」の名で小倉 - 黒崎間の軌道路線が出願されている。八幡馬車鉄道はその名の通り馬車鉄道として計画されたが、のちに動力を電気とする計画に変更され、社名も「八幡電気鉄道」に改めている。この2社には1907年5月1日に特許が下りたが、営業区域が接近していることから当局の強い要請により2社は統合され、九州電気軌道として設立されたのであった。松方が初代社長に、富安は取締役にそれぞれ就任している。会社設立後、間もなく路線建設にかかり、道路拡幅工事の遅れなどによる工事の遅れがあったが、まず1911年(明治44年)6月5日に当時の門司市の中心地区の東本町2丁目から小倉市中心部を通り、八幡市東部の大蔵川地区への路線が開通した。運転士・車掌は開業前に阪神電気鉄道で研修を行い、車両は当時としては大型の66人乗り11m級ボギー車を自社発注した。1911年内には黒崎まで開通した。小倉 - 黒崎間は当時存在した鉄道院大蔵線と並行していたが、大蔵線は同年内に廃線となっている。その後、1914年(大正3年)までに門司市の東本町3丁目 - 東本町6丁目間、黒崎町から折尾村に至る黒崎駅前 - 折尾間、小倉市から戸畑市中心部に至る大門 - 戸畑間の各路線が開業し、のちの北九州線本線・戸畑線にあたる区間が全通した。また1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)にかけて八幡市と戸畑市を結ぶ中央区 - 幸町間(のちの枝光線)を開業させている。このほか、北九州地区と福岡市を結ぶ高速鉄道を計画して折尾から福岡市馬場新町(現在の博多区祇園、当時の国鉄博多駅前)への路線の特許を取得し、用地取得と建設工事を行ったが、1930年(昭和5年)に二代目社長松本枩蔵(松本重太郎の養嫡子)による手形の不正発行(九軌不正手形事件)が発覚したため事業を中止し、1933年(昭和8年)に特許を返納している(詳細は筑豊電気軌道線の記事を参照)。1942年(昭和17年)には小倉市の魚町 - 北方間の路面電車を運営していた小倉電気軌道を吸収合併し、北九州地域の軌道事業の一元化を実現した。九州電気軌道は国による電力統制が実施されるまでは同社路線にも給電を行っていたほか、同社に一部資本参加・経営参加していたが、同社を系列下に置いていたわけではなかった。しかし戦時体制の影響により合併となったのであった。この小倉電気軌道の路線は北方線となり、1980年(昭和55年)まで営業した。1942年9月19日に九州鉄道(2代目・西鉄天神大牟田線の前身)・博多湾鉄道汽船・福博電車・筑前参宮鉄道を吸収合併し、その3日後の9月22日に西日本鉄道に改称された。また同時に本社を福岡市に移転している。以後の沿革は「西日本鉄道」を参照のこと。九州電気軌道は社名の通り、当初は軌道事業を目的として設立されたが、設立後の1909年(明治42年)に大阪電灯門司支店などを買収して電灯事業(電力供給事業)に参入した。1911年(明治44年)には従来の発電所に代えて小倉市鋳物師町に火力発電所を新設している。大正時代後期になると、九州電気軌道と同じく北部九州地区で電力供給事業を展開していた九州水力電気や東邦電力と事業区域が重複し、三つ巴の競合となった。九州水力電気は九州電気軌道を買収して自社の水力発電事業と九州電気軌道の火力発電事業を一元化することをもくろみ、当時の九州電気軌道社長で同社最大の株主でもあった松本枩蔵との話し合いを進め、1930年(昭和5年)には松本が保有していた九州電気軌道株35万株を額面の2倍で取得し、さらにそれとは別に松本に200万円を贈ることで社長を退任させた。これにより九州電気軌道は九州水力電気の傘下となった。その後、電力管理法が施行されたため1939年(昭和14年)には自社が保有する全発電所と変電所・送電設備の一部を日本発送電に現物出資し、翌1940年(昭和15年)1月には残った電力供給事業をすべて九州水力電気に譲渡し、九州電気軌道は交通事業専業となった。1916年(大正5年)、第一次世界大戦による輸入途絶を受け、小倉市鋳物師町に電気化学工場を開設して塩化カリウムを製造し、日本内地のほか朝鮮・満州・南洋にも販売した。第一次世界大戦中の1917年(大正6年)上期には九州電気軌道の当期利益の47.2%に及ぶ206,352円の純益金を出したが、大戦終結後の1920年(大正9年)から塩化カリウムの価格が下落し、1921年(大正10年)上期には18,000円の欠損を生じたことから事業を廃止している。文献によっては電気化学を九州電気軌道の直営ではなく、関係会社扱いしているものもある。なお、現在存在する電気化学工業とは無関係である。1929年(昭和4年)、九州電気軌道は自社電車路線と並行する門司 - 折尾間および中央区(現在の八幡東区中央町) - 戸畑間でバス事業を開始。車両はシボレー12人乗りを使用した。運賃は門司 - 折尾間を10区、中央区 - 戸畑間を2区に分け、1区10銭(市街地は半区5銭)としている。当初は運行区間内の任意の場所で乗降が可能であったが、1933年(昭和8年)には八幡市内に試験的に停留所を設置し、翌1934年(昭和9年)6月15日には全区間に停留所を設置して停留所以外での乗降が禁止された。1936年(昭和11年)に資本金200万円で九州合同バスを設立し、同社にバス事業を分離した。九州合同バスは小倉市砂津に本社を置き、北九州地区のバス事業者25社を合併したのち、西鉄成立直前の1942年(昭和17年)に再び九州電気軌道に合併された。上述のように福岡 - 北九州間の鉄道建設計画が中止となったのを受け、博多駅前に取得していた3,000坪のターミナル用地の有効活用を図るため、九州電気軌道は1932年(昭和7年)に同地に貸店舗ビルを建設し、同年8月2日に貸室49室の九軌デパートと貸室36室の九軌マーケットを開設した。しかし入居店の退去が相次いだため、翌1933年(昭和8年)に資本金20万円で九軌デパートを設立し、流通業に参入した。同年には戸畑市内にも店舗を開店させている。その後、九軌デパートは1937年(昭和12年)に小倉市内の百貨店「井筒屋」と合併し、直後に井筒屋は九州電気軌道の系列下となった。代数は西鉄へ続く。カッコ内は在任期間。

出典:wikipedia

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