エリザベス2世(、1926年4月21日 - )は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を含む、16か国の主権国家(イギリス連邦王国)の君主であり、王室属領と海外領土の元首である。また、イングランド国教会の。イギリスの君主としてはウィンザー朝の第4代女王でもある。実名はエリザベス・アレクサンドラ・メアリー()。1952年2月6日に即位してイギリス連邦に加盟する独立国家たる7か国、すなわち、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、パキスタン、セイロンの女王になる。連合王国女王のレルムに属する国家および領土の数は1956年から1992年までに独立したり共和制に移行したりしたので少しずつ変わっていく。2016年現在の今日においては、(現在まで存続している)前述の4か国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)に加え、ジャマイカ、バルバドス、バハマ、グレナダ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ベリーズ、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビスが女王を君主としている。こうしてエリザベス2世は、合計16か国の君主を兼ねている。またクック諸島など、上記の国と自由連合制をとる国や、その一部となっている国・地域の中にも女王を元首としているところが存在する。2007年12月20日、高祖母たるヴィクトリア女王を抜いて英国史上最高齢の君主になる。2015年9月9日には、在位期間が63年と216日となり、同じくヴィクトリア女王を抜いて英国史上最長在位の君主となった。2016年10月13日にはラーマ9世(タイ王国)の死去により、存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。ロンドンのメイフェアで、ヨーク公アルバート王子とエリザベス王妃の長女として誕生し、宮廷内で大切に養育された。1936年、父のアルバート王子が、兄であるエドワード8世の退位を受けて、ジョージ6世として王位に就くと、エリザベス王女は推定相続人となった。王女は、第二次世界大戦中に英国女子国防軍に属して公務に携わるようになった。1947年には、エディンバラ公爵フィリップと結婚し、チャールズ、アン、アンドルー、エドワードの4人の子女を儲ける。なお、夫(王配)のフィリップは共同君主・共同統治者ではない。1953年6月2日に執り行われた自分の戴冠式は史上初めてテレビ中継された。や、ローマ教皇との間の相互訪問など、多くの歴史的な訪問および会合を遂行しただけでなく、やカナダ憲法におけるのように、重大な憲法改正を目の当たりにしてきた。このほか、意義深い個人的な出来事としては、自らの子女の誕生と結婚、および孫の誕生、(立太子礼)、そして自身の(1977年)、(2002年)、(2012年)、それぞれの祝事を経験した。1926年4月21日午前2時40分(BST)、ロンドン市内のメイフェア地区ブルートン・ロード17番地に所在する母方の祖父の家において、ヨーク公アルバート(後のジョージ6世)と妃エリザベスとの間に、第一子として、帝王切開により生まれる。父アルバートは、国王ジョージ5世と妃メアリーの次男で、母はスコットランド貴族の第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアンの末女である。同年5月29日に、バッキンガム宮殿内のプライベート・チャペルで、のによって洗礼が施された。名前はそれぞれ母エリザベスと父方の曽祖母アレクサンドラ、同じく父方の祖母メアリーに因んで命名され、家族からは“リリベット”の愛称で呼ばれていた。ジョージ5世はエリザベスを溺愛しており、1929年に大病を患った際も、彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病の回復を早めるのに一役買ったと言われている。1930年、4歳の時に、妹マーガレットが誕生した。当時は、結婚を保証されている上流階級の娘達には教育は不必要という時代であったが、祖母メアリー王妃の方針によって、姉妹揃って家庭教師から、宮廷において、歴史、言語、文学、音楽を中心とした教育を施された。クロフォードが後に記した伝記によれば、この頃から馬や犬などの動物好きな傾向が見受けられたことや、規律正しく責任感の強い性格であったと言われている。またウィンストン・チャーチルも、当時2歳だったエリザベスに接して「子供ながら驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している。出生時における正式な称号は、"Her Royal Highness Princess Elizabeth of York"(ヨーク公エリザベス王女殿下)であり、伯父の王太子エドワード、父のヨーク公エドワードに次いで、第3位の王位継承順位にあった。エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時は、まだ若くて独身だった王太子のエドワードおよび将来的に彼が結婚することにより生まれるであろうと思われた、その子への王位継承が期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった。しかし、1936年1月のジョージ5世の死去を受けて即位したエドワード8世が、イギリスと対立しつつあった枢軸国に親近感があるような態度をとった上に、離婚経験のあるアメリカ人女性のウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかしたことを受けて、スタンリー・ボールドウィン首相らに退位を迫られ、同年12月に退位することとなる(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)。そして、エドワード8世の弟でエリザベスの父であるヨーク公が即位して、ジョージ6世となる。これを受けて、エリザベスは一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、"Her Royal Highness Princess Elizabeth"(エリザベス王女殿下)の称号を与えられた上で、王位の推定相続人となる。この時点でもしもエリザベスに弟が存在したならば、彼が王太子となり王位継承順位においてエリザベスよりも上位に位置付けられることとなり、彼女は推定相続人としての地位を逃していたであろうと考えられる。以降は、特に帝王学・法律・歴史・フランス語を中心に学んだ。一方、ガールスカウトなどに参加し、同年代の子供とも積極的に関わっていた。このように、王位継承者として息つく暇も無い日々を送り、たまの休日に田舎道を馬に乗って走ることが唯一の楽しみといった生活を送り続けていたことから、側近には「デイヴィッド(エドワード8世)伯父様が退位しなければ、田舎で馬や犬に囲まれて過ごせていたはずなのにね」とこぼすこともあったという。1939年には、カナダ政府から両親の外遊に同行するよう打診されるも、父が年齢の幼さと1ヶ月という期間の長さを理由に拒否したため、実現しなかった。1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1945年まで続いた。この間、しばしばロンドンも空襲の対象とされ、ロンドンに住む多くの子どもが疎開していった。エリザベス王女姉妹についても、より安全なカナダへと疎開させることが政府から提案されたものの、母エリザベスが「私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と述べて、これを拒否した。結局、両姉妹は1939年のクリスマスまで、スコットランドのバルモラル城で過ごすことになり、その後はノーフォークのサンドリンガム御用邸に移った。さらに1940年2月から5月まで、ウィンザーのに滞在した後、ウィンザー城へ移り住み、以後5年近くを過ごすこととなった。ウィンザー城滞在時には、軍用衣類向けのニット生地を生成する毛糸を調達していたクイーン・ウール・ファンドを支援するために、クリスマスに家族や友人たちを招待して、王室職員の子女たちとともに、パントマイムを上演したこともあった。この際、14歳のエリザベスはBBCのラジオ放送を通じて初めて演説を行い、と述べた。これ以後、王位継承者として少しずつ公務に携わるようになる。当初は、看護師となることを志望したものの、父の反対にあったことから実現しなかったが、その代わりとして、1942年に近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長となり、大戦中も国民と共に後方支援にあたった。1943年、16歳の時に、エリザベスは初めての単独での公務において、名誉連隊長としてグレナディアガーズを訪問した。以降も各地への訪問および激励を重ねた。18歳の誕生日を迎えると、法律が改正されて、父王が公務を執行できない場合や国内に不在である場合(例えば、1944年7月のイタリア訪問時)に、彼女が5人ののうちの1人として行動できるようになった。1945年2月には、英国女子国防軍に入隊し、名誉第二准大尉として、「エリザベス・ウインザー」の名および230873の認識番号において、軍用車両の整備や弾薬管理などに従事したほか、大型自動車の免許を取得し、軍用トラックの運転なども行った。それまでの女性王族は、軍などにおいて肩書きが与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、枢軸国によるイギリス本土への上陸の危機という事態を受けて、エリザベスはその慣例を打ち破り、他の学生たちと同等の訓練を受け、軍務に従事する初めてのケースとなった。エリザベスは、一般の兵士とまったく同じ待遇をされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、自分の子供たちも宮廷で学ばせるより、一般の子女たちと同じ学校に通わせることを決意したという。欧州での戦争が終結したヨーロッパ戦勝記念日には、ロンドンの街中で戦勝を祝福する一般市民の中に妹と共に匿名で混じって、真夜中まで喜びを分かち合ったという。第二次世界大戦におけるイギリスの勝利後の1947年4月には、両親に付き添って初めて外遊し、南アフリカを訪問した。外遊中、ケープタウンにて21歳の誕生日を迎えた際には、英連邦に向けたラジオ演説の中で、エリザベス王女は次のような誓いを交わした。将来の夫となるギリシャおよびデンマーク王子フィリッポス(フィリップ)とは、1939年7月にダートマス海軍兵学校で出会い、一目惚れして以降、文通を始めることとなる。また、これ以前にも1934年と1937年の二度にわたり面会している。なお、二人はクリスチャン9世とヴィクトリア女王を通して遠戚関係にある。1947年7月9日に正式に婚約が発表されたが、婚約に至るまでの経緯は決して順風満帆とは言えなかった。その要因は、フィリップが経済的に自立していなかったことや、外国生まれであることのほか、フィリップの姉がナチスとの関係を持ったドイツ系貴族と結婚していたこと等にある。同年11月20日にウェストミンスター寺院にて、かねてから交際を続けていたフィリップ王子と婚礼を挙げた。結婚後の数ヶ月間を当時英国領だったマルタで過ごした。夫妻は世界中から2500個の結婚祝い品を受け取った。戦後のイギリスにあっては、婚礼に招待するに際して、当時存命していた3人の姉を含めて、フィリップ(エディンバラ公)のドイツとの関係は受け入れ難いものだった。また、ウィンザー公(かつての国王エドワード8世)も招待されなかった。エリザベスは、1948年11月14日に第一子チャールズ王子を出産し、1950年には第二子となるアン王女が誕生した。生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態は1951年に入り悪化し、翌1952年2月6日未明、療養を兼ねて狩猟やスポーツを楽しむ為に訪れていたのサンドリンガム御用邸で、就寝中に冠状動脈血栓症により死去した(エリザベスは、オーストラリアとニュージーランド公式訪問の途上、ケニア滞在中であった)。これを受けエリザベスは即位して女王「エリザベス2世」となり、同名の母エリザベスは「エリザベス王太后」となる。翌1953年6月2日にはウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、この模様はイギリス連邦内だけでなく世界各国に当時の最新メディアであるテレビにより中継された。以来半世紀以上に亘ってイギリス女王の座にあり、「国民に親しまれる王室」を目指し、即位後は積極的にイギリス連邦諸国のみならずアメリカ合衆国、フランスなどの諸外国を訪問するほか、私生活をテレビで放送するなど新しい試みを行った。その一方で超然たる一面を持ち、マーガレット・サッチャー首相が「女王と服装を合わせたい」と希望した際には「臣下の服装に興味はありません」と一蹴したという。日本へは1975年(昭和50年)に1度だけ訪問している。5月7日に特別機で羽田空港に到着、その夜は東京都港区元赤坂にある迎賓館で昭和天皇主催の晩餐会に出席した。翌5月8日にはNHK放送センターを訪問し大河ドラマ『元禄太平記』の収録を見学、5月9日には帝国ホテルから国立劇場までの約2kmをオープンカーに乗りパレードしている。5月10日には飛行機で近畿地方へ移動し京都御所などを見学し、翌5月11日には三重県伊勢市の伊勢神宮や三重県鳥羽市の御木本真珠島を訪問。この日は鳥羽国際ホテルに宿泊した。5月12日に名古屋を経由して東海道新幹線で東京に戻り、そのまま羽田空港から離日した。2006年に80歳を迎えたが、現在も精力的に公務を行っている。2007年5月、英国植民地設立400周年を記念してアメリカを訪問した。同年11月19日には成婚60周年を祝う祝賀行事が催された。イギリスの君主で成婚60周年を迎えるのは、エリザベスが史上初である。翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問したが、1泊した後、イギリス連邦首脳会議のためウガンダへ出発した。2010年、ウィンブルドン選手権4日目(6月24日)には、1977年以来33年ぶりに、大会を観戦した。2010年12月29日、ピーター・フィリップスに女児サバンナ・フィリップスが誕生し、曾祖母となった。2011年5月17日、1911年のジョージ5世による訪問以来、100年ぶりにイギリスの君主としてアイルランドを公式訪問している。1911年当時はイギリスの植民地であったため、独立後としては初の訪問である。近年は、息子たちの離婚・再婚問題や孫ヘンリー王子のスキャンダルなどに苦悩が絶えない。一方で、そんな女王自身の人気はイギリス国内でも高く、国民も退位を望まず、「最後まで女王でいて欲しい」などの声も大きい。エリザベス2世は、イギリスを含め16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を持っている。そのうち、イギリスにおける正式称号は以下のものである。「信仰の擁護者」は、元来はマルティン・ルターに反対したヘンリー8世に対し、ローマ教皇レオ10世から与えられた称号である。1534年の国王至上法によりイングランド国教会首長の称号となった。「レルム」には君主国という意味があるが、ここでは英連邦王国を指す。領域は王室属領および海外領土を指す。またコモンウェルスには複数の意味があるが、ここではイギリス連邦を指す。法的に厳密に考えた場合、相互に反対の意見を持っている主権国家の元首としての顔を持つことになる。たとえば、2003年に勃発したイラク戦争においては、同戦争に賛成したイギリスやオーストラリアなどの元首という立場を持つ一方で、同戦争に反対したカナダの元首としての権限を行使することも可能であった(実際にはイギリスの元首として行動した)。実際にイギリス以外の国の元首として公務に携わることもある。その国に滞在している場合は本人が直接行動する場合が多いが、直接本人が行動できない場合は代理人を通じて行動することもある。公務中の地位については、カナダの公務の場合はカナダ女王、オーストラリアの公務の場合はオーストラリア女王、パプアニューギニアの公務の場合はパプアニューギニア女王というように、対象国に合わせて変動する。このような女王の公務のあり方の実例として、過去の近代オリンピックの開会宣言を挙げることができる。近代オリンピックの開会宣言はオリンピック憲章によって「開催国の国家元首がこれを行う」と定められている。エリザベス女王を国家元首に戴くイギリス連邦諸国の中では、下表の通りカナダとオーストラリアとイギリスで計6回のオリンピックが、その在位中に開催されている。うち、女王の名において行われた開会宣言は計3回あり、本人が直接開会宣言を行ったのは2回、女王の王配フィリップが女王の名代(代理人)として開会を宣言したのが1回を数え、イギリス女王、カナダ女王、オーストラリア女王の称号が用いられている。その他の大会は、事実上の国家元首である総督が自らの名のもとに開会を宣言している。またイギリス・カナダ・ニュージーランドでは国軍の最高司令官であり、英連邦諸国のいくつかの軍隊の名誉連隊長位を持つ。また公式なものではないが、行事で用いられる伝統的な称号としてはノルマンディー公、などを帯びる。近代競馬発祥の地であるイギリスにおいては、競馬を庇護・発展させる君主がしばしば現れている。エリザベス2世も競馬の熱心なパトロンである。イギリス史上初めて、スポーツ団体に勅許を与えてジョッキークラブの決定に法的基盤を付与したのはエリザベス2世である。この結果、200年以上にわたって「先例」でしかなかったジョッキークラブの裁定には法的な根拠が認められることになり、権威と権限が大幅に強化されることになった。また、ニューマーケットに英国国立牧場を移したのもエリザベス2世である。エリザベス2世は馬主・生産者として大きな成功を収めている。両親の名を冠したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの優勝馬オリオールのほか、4頭のクラシック競走優勝馬など、所有馬には数々のステークス優勝馬がいる(詳細)。1954年と1957年にはイギリスのリーディングオーナー(所有馬の獲得賞金額首位)となった。在位中にこのタイトルを複数回獲得した君主は史上にエリザベス2世のみである。所有馬に騎乗する騎手が着用する勝負服は、紫色の胴部に金ボタンと刺繍をあしらい、袖色は赤。帽子は黒のベルベット地、頭頂部に金モールをあしらったものを使用している。イギリスにおける牡馬・牝馬のクラシック競走のうち、ダービーステークスのみ所有馬の優勝がない。2011年には所有馬のカールトンハウスが1番人気となり、85歳にして初のダービー優勝馬所有なるかと競馬界を超えて広くイギリス社会の注目を集めた。女王自身もエプソム競馬場でレースを天覧したが、落鉄のアクシデントなどもあり3着に終わった。2013年6月、王室自ら開催するロイヤルアスコット開催において、所有馬のエスティメイトがゴールドカップに優勝し36年ぶりにGI制覇を達成した。ロイヤルアスコット開催時には、毎年宮殿から馬車でアスコット競馬場へ向かうのが慣例である。ロイヤルアスコット開催のレースにおける優勝馬の関係者は、エリザベス2世などが出席するイギリス王室主催の茶会に招かれる。イギリスの「クイーンエリザベス2世ステークス」、アメリカ合衆国の「クイーンエリザベス2世チャレンジカップステークス」、日本の「エリザベス女王杯」、イギリスの植民地であった香港の「クイーンエリザベス2世カップ」など、エリザベス2世の名を冠した競走が世界各地に存在している。夫エディンバラ公爵フィリップとの間には3男1女がいる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。