オペックホースとは日本の競走馬である。1980年の東京優駿(日本ダービー)に優勝したが、以後引退まで32連敗を記録し、「史上最弱のダービー馬」とも呼ばれる。1980年度優駿賞最優秀4歳牡馬。馬名は冠名の「ホース」に、石油輸出国機構の略称「OPEC(オペック)」を合わせたもの。当時経済を混乱させた第二次オイルショックを受けて、「世界を制する資源」と言われた石油の重要性にあやかった名前である。※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。1979年10月の中京開催でデビュー。初戦の3着を経て、2戦目で初勝利を挙げる。続くオープン戦では、最後方の位置から直線だけで全馬を交わして連勝。12月に迎えた関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスは牝馬ラフオンテースの4着に終わったものの、管理調教師の佐藤勇は本馬の高い素質を認識し、翌年クラシックの皐月賞が最大目標に据えられた。休養を経て、翌年3月に毎日杯から復帰して5着。続いて皐月賞への前哨戦として菜の花賞(800万下条件)に出走。鞍上はそれまでの西橋豊治から、関東所属騎手の第一人者であった郷原洋行に替わった。この競走を2着に10馬身の大差を付けて圧勝。目標とした皐月賞に有力馬の1頭として臨んだ。重賞未勝利馬であったが、当日は3番人気に支持される。当日は降雨による不良馬場の中を、中団待機から直線で先頭に立った。しかし直後に上がってきた「重馬場の鬼」ハワイアンイメージにゴール前で競り負け、クビ差の2着に終わった。続くオープン戦2着を経て、5月25日に日本ダービーを迎える。トライアル競走のNHK杯を7馬身差で圧勝したモンテプリンスが当日1番人気に支持され、オペックホースは2番人気となった。レースではサクラシンゲキが馬群を先導、モンテプリンスが4番手に付け、オペックホースは同馬をマークする形で5番手を進んだ。最後の直線では、半ばで失速したサクラシンゲキを交わしてモンテプリンスが先頭に立ったが、直後にオペックホースがこれに並び掛ける。両馬の競り合いの末、ゴール前でオペックホースがクビ差抜け出して優勝。重賞初勝利をダービーで果たした。調教師の佐藤、騎手の郷原にとっても初めてのダービー優勝であり、佐藤は1964年の天皇賞(春)以来、16年振りの八大競走制覇ともなった。この競走前、馬主の角田二郎(ホース産業社長)が死去していた。郷原はこの出来事に絡め、後年この競走を回顧して以下のように語っている。夏の休養を経て、秋はクラシック最終戦の菊花賞を目標に、10月のオープン戦から始動する。しかし牝馬のインタースマッシュから1.8秒離されての6着と大敗すると、迎えた菊花賞では7番人気と評価を落とし、結果もノースガストの10着に終わった。以降、オペックホースは連敗を重ねる。翌5歳シーズンは9戦全敗するも、朝日チャレンジカップ2着、年末の有馬記念で4着と好走は見せていた。しかし6歳シーズン以降は好走もほとんどなくなり、7歳時には日本中央競馬会の種牡馬適性試験に落ち、引退後の確たる行き場がなくなった。地方競馬転出の話も取り沙汰されたが、「ダービー馬を地方で走らせるのはかわいそう」という声が挙がり実現しなかった。佐藤は試行錯誤の末、オペックホースの障害転向を決める。練習が始められると、オペックホースは周囲が目を見張るほどの卓越した飛越能力を見せた。障害馬として「ケタが違った」能力で、佐藤は障害の最高競走・中山大障害優勝に自信を深めたが、障害転向が現実味を帯びるに連れて、ダービー馬を障害競走に出すことへの批判が高まっていった。最終的に馬主が批判に耐えきれず、障害転向は白紙撤回となった。佐藤は競馬会に対して「もし中山大障害を勝ったら、もう一度種牡馬試験を受けるので買い上げて欲しい」と陳情しており、後年この騒動を回顧し、「ゼニ金の問題と違う。あくまでも馬の一代を思い、障害でも実績を作って、種牡馬にしてやりたいという考えだった」と語っている。その後も連敗を続けたオペックホースは、1985年12月、ダート競走のウインターステークスで左繋靱帯断裂を発症し、最下位となって競走生活から退いた。ダービー以降32連敗という記録は、1959年の優勝馬コマツヒカリの14連敗を大きく更新して最多、通算41戦はダービー馬としてはハクチカラの49戦に次ぐ史上2番目(日本国内に限れば最多)の出走数であった。佐藤はダービー以降の成績について、「騎手から調教師と65年間、明けても暮れても馬と暮らしてきた僕にとっても、いまだに謎である」と語った一方、「あまり体質が丈夫でなかったのも事実で、ダービーが頂点で最高の能力を出して、それで全てが燃え尽きたのだと思う」との見解を示した。後年オペックホースに与えられた「史上最弱のダービー馬」との揶揄については、「仕方のないことだと思っている。全ては結果論。宿命だと諦めている」と語っている。引退後は谷川牧場に身元を引き受けられ、同場が北海道門別町で運営する清畠トレーニングセンターで種牡馬となった。ダービー勝利よりも32連敗のイメージが強く、当初の繋養4年間で交配数は15と、多くの相手を集めることはできなかったが、初年度唯一の産駒であるベストンダンディが北斗盃と王冠賞に優勝するなど、ホッカイドウ競馬で活躍。翌年の交配相手は20頭に増加した。この後も、京成杯2着などオープンクラスで活躍したマイネルヤマト(ナムラコクオーの兄)を送り出した。しかし同時期に内国産種牡馬・輸入種牡馬ともに有力なものが多数出現したこともあり、この2頭以外に活躍馬は出なかった。2005年10月31日、清畠トレーニングセンターで老衰のため死亡した。28歳没。
出典:wikipedia
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