マレー沖海戦(マレーおきかいせん)は、第二次世界大戦及び太平洋戦争の初期の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘である。1941年(昭和16年)後半、イギリスは極東における最大拠点シンガポールを防衛するため、キング・ジョージ5世級戦艦2番艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を基幹とする東洋艦隊を配備した。大日本帝国は、東南アジアを占領する計画(南方作戦)において重大な脅威となったイギリス東洋艦隊を、日本海軍基地航空隊(一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機)で攻撃することになった。同年12月10日、日本海軍航空隊はイギリス東洋艦隊戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス)を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の新式戦艦を航空機で沈めることはできない」との常識を覆した。当時の世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の終焉を告げる出来事として海軍史上に刻まれている。1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。幾度かの計画変更の後、1941年4月にはアメリカ・イギリス・オランダの間で協定が結ばれ、アメリカは艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、イギリスは東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する。ウィンストン・チャーチルイギリス首相・国防相はキング・ジョージ5世級戦艦デューク・オブ・ヨーク、レナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した。イギリス軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母ハーミーズ、アーク・ロイヤル、インドミタブルを送る計画であり、新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦2番艦ティルピッツの出撃に備えてイギリス本国のスカパフローから動かすつもりはなかった。これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する。チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていたという。最終的に、キング・ジョージ5世級戦艦2番艦プリンス・オブ・ウェールズ、レナウン級巡洋戦艦2番艦レパルス、空母インドミタブル、護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターからなるG部隊が編成された。プリンス・オブ・ウェールズは10月23日にスカパフローを出港し、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の太平洋戦争開戦直前の12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着した。プリンス・オブ・ウェールズはマレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されてイギリス連邦諸国民に安心感を与えた。ウェールズ到着のラジオ放送は、南方に向け航海中の第二艦隊旗艦「愛宕」でも受信していた。その後、G部隊からZ部隊に改称された。12月4日、フィリップス長官は飛行艇でマニラ(フィリピン)に移動し、米国アジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート大将と会談、12月6日の日本艦隊・輸送船団発見の報告を受けて12月7日にシンガポールに戻った。その一方、空母インドミタブルは11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった。かわりに小型空母のハーミーズの合流が決定したが、ハーミーズはダーバンで修理中のため合流できなかった。フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジ、ロイヤル・サブリン、クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日頃までに派遣するよう希望している。航空機に関してイギリス軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(イギリス軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった。これはチャーチル首相がソ連に大量の航空機を供給していたからである。日本軍はイギリス東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦辰宮丸が機雷を敷設、さらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦12隻が散開線を構成して哨戒していた。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している。実際に日本軍は松永貞市少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 元山航空隊:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけていた。12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。12月6日、日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した。一方のイギリス軍は日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった。12月7日午前9時50分、宣戦布告前にも拘らず、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBYカタリナ飛行艇を撃墜する。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に香椎と輸送船3隻、ナコン方面に占守と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧)・第12駆逐隊(叢雲、東雲、白雲)・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊旗艦)、第19駆逐隊(綾波、磯波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である。12月8日午前1時30分、日本軍はコタバル上陸を開始、イギリス軍も応戦し真珠湾攻撃より2時間前に交戦がはじまった。イギリス軍機は輸送船淡路山丸を航行不能とし、綾戸山丸、佐倉丸大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた。各方面の日本陸軍上陸作戦は成功した。第一航空部隊の松永少将はイギリス東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。元山航空隊は悪天候のため引き返したが、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投した。イギリス軍側は日本軍の兵器は時代遅れで、さらに日本人は身体的欠陥によりの夜間飛行は出来ないと錯覚していたため、日本軍の空襲に全く対応できなかった。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した。この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、アメリカの太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかった。トーマス・フィリップス提督はシンガポールの極東軍総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督は午後3時50分にプリンス・オブ・ウェールズに戻ると作戦計画を練った。東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅することで日本軍の機先を制し、日本軍が態勢を立て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てる。ところがイギリス空軍司令部はコタバル飛行場から撤退したこともあり、フィリップス提督に対し哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。プリンス・オブ・ウェールズが抜錨してまもなく、イギリス空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機による護衛不可能』と連絡している。それでもイギリス東洋艦隊は12月8日夜(午後8時25分)にシンガポールを出撃した。事前にイギリス東洋艦隊の存在があまりにも宣伝されすぎたため、また極東イギリス連邦国民に「危機になれば東洋艦隊が出撃する」と長年にわたって約束していたため、面子の関係からも出撃しないわけにはいかなかったのである。マレー半島とアナンバン諸島の間に日本軍が機雷を敷設していたためZ部隊はマレー半島沿いに北上することが出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船団に向けて進撃した。英東洋艦隊には楽観的な気運が漂っており、レパルス乗艦中のCBS記者は同艦士官たちが日本艦隊出現の情報に「だけど彼らは日本人だぜ、心配することなんか何もない」と笑っていたと記録している。また「(日本軍の)艦船は飛行機よりマシだが、日本人は近眼で射撃できない」「日中戦争に5年もかけてまだ勝てない」等の点から、情勢を楽観視していた。イギリス軍は前述のように日本軍航空機(および日本人)の性能(能力)を過小評価していたため空襲による危険は小さく、また主力艦が致命的な被害を受けることもないだろうと判断していた。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた戦艦はいなかった。もっとも、かつてプリンス・オブ・ウェールズと交戦したビスマルク級戦艦1番艦ビスマルクが、雷撃機フェアリー ソードフィッシュの魚雷攻撃によって舵とスクリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在する。またクレタ島の戦いでクイーン・エリザベス級戦艦2番艦「ウォースパイト」がドイツ空軍の空襲により大破した事もある。一方、日本海軍の戦力として、この方面には高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」を旗艦とする南方部隊本隊(指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官、参謀長白石萬隆少将)があり、南方部隊本隊の戦力は第四戦隊(愛宕《第二艦隊旗艦兼第四戦隊旗艦》〔艦長伊集院松治大佐〕、高雄〔艦長朝倉豊次大佐〕)、第三戦隊第2小隊(金剛〔艦長小柳冨次大佐〕、榛名〔艦長高間完大佐〕)、第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:第1小隊〔嵐、野分〕、第2小隊〔萩風、舞風〕)、第6駆逐隊(司令成田茂一大佐:第1小隊〔響、暁〕)、第8駆逐隊(司令阿部俊雄大佐:第1小隊〔大潮、朝潮〕、第2小隊〔満潮、荒潮〕)という編制だった。特に愛宕麾下の金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)は近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズより劣っていた。このため、戦艦プリンス・オブ・ウェールズに砲撃戦を挑むことは想定していなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時プリンス・オブ・ウェールズの主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている。他にも重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、12月8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。金剛・榛名以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することとした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。12月9日午後3時15分、潜水艦伊65(原田毫衛艦長)がZ部隊を発見、以下の電文を打電した。宇垣参謀長の「戦藻録」によれば、伊65のZ部隊発見地点はマレー半島プロコンドル島の196度225浬である。伊65は打電後も接触を続けたが、午後5時20分に一旦見失った。第二艦隊司令長官近藤信竹中将麾下の南方部隊本隊には、午後5時25分に「レパルス型戦艦2隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という情報が入った。南方部隊本隊(第二艦隊)は反転南下した。伊65は午後6時22分に再度発見したもの、上空に水上偵察機(軽巡洋艦鬼怒搭載機)が出現したため潜航したので目標を見失った。空からは、第四潜水戦隊旗艦・軽巡洋艦鬼怒と第五潜水戦隊旗艦・長良型4番艦「由良」の九四式水上偵察機、第七戦隊(司令官栗田健男少将)旗艦・最上型重巡洋艦4番艦「熊野」等の水上偵察機が日没まで触接を続け、熊野2号機が行方不明。鈴谷偵察機は不時着(生還)。さらに由良機が未帰還となった。午後5時15分に東洋艦隊発見報告を受けた小沢中将は、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令した。以下の艦艇が集結し、南下した。松永貞市少将は小沢中将を掩護すべく、悪天候を承知で陸攻隊の出撃を下令。攻撃隊3波を発進させた。陸攻部隊は爆弾を装備し、英戦艦にダメージを与えて日本軍艦隊を掩護する事が任務だったという。しかし天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。美幌空第二中隊(武田八郎大尉)は鳥海をZ部隊と誤認し、「敵艦隊見ゆ。オビ島の150度、90浬」と報告して吊光弾を投下する。仰天した小沢中将は松永少将あての電報「照明弾下にあるは味方なり」を連送信して攻撃中止と陸攻隊全機帰投を命じ、これは小沢中将が本海戦で発した数少ない命令の一つである。その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。プリンス・オブ・ウェールズのレーダーは日本軍水上偵察機を捉えていたが、フィリップス提督は船団攻撃の決意を変えず、以下の命令を出している。フィリップス提督は駆逐艦テネドスが燃料不足気味だったため、午後6時30分に艦隊から分離、単艦でシンガポールに引き返させた。その際、テネドス艦長に対し10日朝に無線封止を解除し、アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めている。その後もZ部隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、午後9時45分頃にZ部隊前方5マイルに青い閃光を確認する。これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから南東のコタバルに変更した。Z部隊と小沢艦隊の距離は23マイルに接近しており、豊田穣は「プリンス・オブ・ウェールズのレーダー(25マイル)が鳥海を捉えなかったのは不思議だ」と指摘している。午後10時30分、フィリップス提督は作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達した。12月10日午前1時、Z部隊はパリサー参謀長より日本軍がクアンタンに上陸したとの入電があり、フィリップス提督はシンガポールの帰路中に日本軍輸送船団を砲撃することを決意する。だがクアンタン日本軍上陸は誤報であり、Z部隊はかえって日本軍空襲圏内にとどまることになった。翌12月10日午前1時22分、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた伊58潜水艦が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航した。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、第三水雷戦隊が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。伊58は以後も接触を続け、午前1時45分レパルスに向けて魚雷5本を発射したがZ部隊の変針が重なり命中しなかった。伊58は浮上航走しつつZ部隊を追跡、以下の3通の電文を打電した。6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、燃料不足の懸念から近藤信竹中将(第二艦隊長官)は午前8時15分「水上部隊の追撃を断念す」と打電、小沢中将(馬来部隊指揮官)も潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった。12月10日6時25分、まず松永少将は元山空第四中隊の九六式陸上攻撃機9機(中隊長、牧野大尉)を索敵任務に投入した。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃、続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊(一式陸攻26機。全機雷装)が出撃、直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。元山航空隊の雷装九六式陸攻1機はエンジン故障のため引き返した。情勢を注視していた連合艦隊旗艦の長門型戦艦1番艦「長門」では連合艦隊幕僚が戦果を予想していた。すると山本五十六連合艦隊司令長官は三和義勇作戦参謀に対し「リナウン(レパルス)は撃沈できるが、キング・ジョージV世(プリンス・オブ・ウェールズ)は大破だろう」と発言、三和が2隻とも沈めると反論すると、山本長官は自論の正しさにビール10ダースを賭けた(三和はビール1ダース)。一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。日の出は午前7時57分(現地時間0627)、まもなくZ部隊はレーダーで4つの反応を探知して接近したが、貨物船であった。午前8時15分、Z部隊はスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させてクアンタン方面を偵察したが、同方面は平穏で日本軍は存在しなかった。駆逐艦エクスプレスも海岸を偵察したが日本軍は存在せず、誤報にふりまわされたZ部隊は午前10時30分ごろシンガポールへの帰路についた。Z部隊は機雷原を避けるため、一旦北東へ向かい、それから南東に針路をとってアナンバス諸島の東方をまわってシンガポールへ向かう。後述の帆足機が「針路60度-30度-160度」と逐次報告したのは、この艦隊運動とされる。日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。九六陸攻に比べ速力の出る一式陸攻部隊はシンガポール付近まで進出したという。11時13分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中のテネドス(Z部隊より東南東130マイル)を発見して60kg爆弾2発を投下したが命中せず、英駆逐艦の位置を発信した。午後12時14分、500kg爆弾を装備する元山航空隊第三中隊(二階堂大尉)の九六陸攻9機が戦艦レパルスと見誤って攻撃したものの命中弾は得られなかった。テネドスは負傷者1名を出したものの無傷でシンガポールに退避した。午前11時45分、3番索敵機(機長・帆足正音予備少尉)が東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した。司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。帆足は独断で索敵コースを変更しており、東洋艦隊の射撃を受けてから「敵発見」を報告するなど不手際があったが、その過失を問われることはなかった。イギリス東洋艦隊上空に最初に到達したのは、美幌航空隊の爆装隊の一部8機と元山航空隊の雷装のいずれも九六式陸攻隊だった。Z部隊は突如出現した8機の日本軍機に対空砲火を浴びせるが、効果はなかった。午後12時45分、美幌空陸攻隊8機(白井中隊)はレパルスを目標に各機2発搭載した250kg爆弾による水平爆撃を実施する。第二小隊二番機は第一弾投下直後に被弾したため第二弾を投下できず、別の1機も故障で投下ができなかったため、250kg爆弾計14発が投下された。このうち、最初の爆撃で1発がレパルスの右舷後部カタパルト付近に命中した。右舷後部飛行機格納庫甲板、海兵隊員居住区甲板を貫通し、装甲を施した下甲板で爆発した。爆風でダメージコントロール班員が多数死傷、副長は消火隊5隊を投入したが、艦内の火災は中々鎮火できなかった。飛行機格納庫ではカタパルト上の水上機1機が炎上し、海中投棄を行っている。最大の被害は、命中箇所直下の罐室で高圧蒸気管が破裂したことだった。このような事態になってもフィリップス提督はイギリス空軍に掩護を求めず、バッファロー戦闘機はシンガポールでの待機を続けた。この攻撃の後レパルスは25ノットで航行した。水平爆撃を行った美幌航空隊白井中隊が退避する中、元山航空隊九六陸攻隊16機(雷装)が東洋艦隊上空に到達する。フィリップス提督は日本軍機が雷撃を行えるとは考えておらず、プリンス・オブ・ウェールズの反応は遅れた。英軍にとって不運なことに、対空火器として期待を集めたポンポン砲は頻繁に故障を起こした。日本軍航空隊は、第一中隊(石原薫大尉)9機と第二中隊(高井貞夫大尉)6機(第二小隊一番機はエンジン故障で帰投)の二手に分かれ、それぞれプリンス・オブ・ウェールズとレパルスに雷撃を行った。第一中隊三番機は撃墜され、二番機(大竹典夫 一飛曹)はプリンス・オブ・ウェールズが転舵を止めたため目標を見失い、直後に右旋回中のレパルスを狙った。第二中隊・高井中隊長は艦型が似ている巡洋戦艦レパルスと金剛型戦艦の区別がつかず、イギリス国旗を確認してから雷撃を行った。レパルスはテナント艦長の巧みな操艦で8本の魚雷を全て回避した。午後1時14分、プリンス・オブ・ウェールズに5本の魚雷が接近、左舷後方と左舷中央に魚雷2本(英軍記録魚雷1本が左舷後方)が命中した。ロースン副長は左舷中央の魚雷は命中ではなく自爆と推測、水圧により浸水が発生したが被害は限定的だった。これに対し、左舷後方に命中した魚雷はプリンス・オブ・ウェールズに重大な損傷を与えた。魚雷命中による損傷に加え、衝撃で湾曲した左舷外側推進軸は回転する太鼓のバチの様に周囲を殴打して破壊の限りを尽くした。この時に隔壁が破壊されたためプリンス・オブ・ウェールズは早くも多量の浸水を見るにいたり、左舷に10度傾斜、右舷2軸運転となり速力は20ノットに低下した。速力を16ノットまで低下とする文献もある。艦内では推進機軸管を伝って浸水が広がり、最下層甲板中部(Y缶室、Y機関室、中央機関科指揮所、ディーゼル発電機室)などにも浸水が及んで電力供給が途絶、後部4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た。艦内電話は通じなくなり、通風が不十分となって機械室では熱射病で倒れる乗組員が続出、応急注排水装置が故障、操舵機も電力を絶たれ人力操舵となる。後部指揮所にいた士官は、たった1本の魚雷でプリンス・オブ・ウェールズが致命傷を受けたことに「誰が不沈戦艦と名づけたんだ」とぼやいていた。プリンス・オブ・ウェールズは重大な損傷を受けたにも拘らず、レパルスに被害を報告せず、レパルスのテナント艦長は旗艦の動きと傾斜から損害を推測した。この他、魚雷1本が駆逐艦エクスプレスの付近で自爆した。午後1時20分、美幌航空隊第四中隊(高橋勝作大尉)の九六式陸攻8機が戦場に到達した。第四中隊も元山航空隊と同じくレパルスと金剛の見分けがつかず、撃たれてから英軍と確信した。午後1時27分、故障で魚雷投下に失敗した高橋機を除く7機は魚雷7本を投下するもレパルスは全て回避する。高橋中隊の損害は被弾小破3機で、魚雷投下行動を2度やりなおした高橋機の損害は大きかった。第四中隊は魚雷3本命中・左舷傾斜を主張するが、実際には命中していない。午後1時28分(1157)、レパルスのテナント艦長は独断で無線封止を破り『発レパルス、宛関連全友軍艦艇。我敵機の雷爆撃を受けつつあり、至急空軍の援助を乞う、位置134NYTW22X09、時刻1158』と発信した。午後1時46分、11機のF2Aブリュースターバッファロー戦闘機がシンガポールを発進したが、到着見込みは午後2時30分以降であった。豊田穣は、午後12時30分までにイギリス空軍が出動しなければ、日本軍航空隊の空襲までにバッファローがZ部隊上空に到達できないと指摘している。午後1時37分、宮内七三少佐率いる鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機26機は積雲の切れ間から右方向に水上偵察機を発見、午後1時47-48分に雲下に出るとZ部隊を発見した。この水上機は、レパルスから発進したビル・クローザー准尉のスーパーマリン ウォーラス水上偵察機だった。『我れ航行の自由を失えり』の信号旗を掲げたプリンス・オブ・ウェールズは推進軸損傷のため20ノットで緩慢に左旋回し、レパルスは28ノットに増速すると右に急速転舵する。鹿屋航空隊第一中隊9機のうち、4機がプリンス・オブ・ウェールズを攻撃して右舷に魚雷3本・左舷1本命中を主張。5機がレパルスに向かい、左舷に魚雷1本を命中させて左舷機関室に浸水を生じさせた。続いて鹿屋航空隊第二中隊8機は、2機がプリンス・オブ・ウェールズを攻撃して右舷に魚雷1本命中を主張、6機がレパルスを攻撃し、プリンス・オブ・ウェールズに合計魚雷4-5本、レパルスに魚雷合計7-10本命中を主張している。これは魚雷命中の水柱を攻撃側が自機の戦果と誤認したものであり、鹿屋空第一中隊第二小隊長として本海戦に参加した須藤は、レパルスへの魚雷命中は5-6本程度と推測している。レパルスに乗艦していたイギリス人記者によれば、最初に左舷へ魚雷2本(機関部浸水)、次に右舷中央部に2本、最後に1本が後部に命中したと記録している。また、命中したものの不発だった魚雷も目撃されている。鹿屋空第三中隊9機はレパルスに挟撃雷撃を行い、対空砲火で2機が撃墜された。この他に11機が被弾し、3機の被害は大きかった。対水雷防御に欠ける巡洋戦艦であるレパルスは浸水が激しく、被雷から4分を経た午後2時3分(イギリス軍時間12:33)、左舷に転覆して沈没した。駆逐艦エレクトラが571名、ヴァンパイアがテナント艦長と従軍記者を含む225名を救助した。宮内少佐・鹿屋空雷撃隊総指揮官は『敵戦艦1隻撃沈、1隻は攻撃続行の要あり』と打電して帰途についた。午後2時、美幌航空隊の九六式陸上攻撃機(武田中隊8機、大平中隊9機、各機500kg通常爆弾装備)が、雷撃を受けて炎上する英戦艦2隻上空に到達した。イギリス軍によれば、最初に攻撃を行ったのは大平中隊である。大平中隊は何もない海面を誤爆して帰還したが、駆逐艦1隻を撃沈したと報告した。戦後、大平はプリンス・オブ・ウェールズを狙って水平爆撃を行おうとしたが、初陣の爆撃手のミスにより、英戦艦のかなり手前の海面に投弾したと証言している。英戦艦乗組員が安堵したのも束の間、武田中隊はプリンス・オブ・ウェールズに水平爆撃を行い、午後2時13分に後部主砲塔付近と左舷艦尾に命中を主張した(英軍によれば命中弾1、不落下弾1)。プリンス・オブ・ウェールズには午後1時50分ごろ魚雷1本が艦首右舷に命中、2本目が艦橋右舷付近に命中、3本目は後部三番砲塔右舷付近に命中、4本目は右舷外側推進器軸付近に命中し、プリンス・オブ・ウェールズの傾斜は回復したものの1軸運転・最大発揮速力8ノットとなった。武田中隊が命中させた爆弾はプリンス・オブ・ウェールズの最上甲板を貫通して艦内で炸裂、同艦の船体中央部の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出たほか、火災の煙が罐室に逆流・機関兵は退去した。武田大尉はプリンス・オブ・ウェールズがシンガポールに帰航する可能性を考慮し、日本軍潜水艦によりプリンス・オブ・ウェールズにとどめを刺すよう要請して戦場を離脱した。もっとも、爆撃により英戦艦は最後の罐室を放棄したので、航行能力を完全に失っていた。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。これには2つの理由があり、1つ目は、爆弾や魚雷を使い果たした上に燃料が少なかったことで、戦後、須藤(一式陸攻雷撃隊)から事情を聞いたプリンス・オブ・ウェールズのゴーディ機関長は落胆している。もう1つ目の理由は美幌航空隊の壱岐春記大尉のようにイギリス海軍将兵の戦いぶりに敬意を表したもので、残った機銃で機銃掃射をし、救助作業を妨害することも可能であったにもかかわらず、それをせずに帰還している。生存者の一部はシンガポールに上陸したものの、その後のシンガポール陥落時に日本軍の捕虜となってしまった。合計4-5本(日本軍主張7本、海底調査では4本)の魚雷が命中したプリンス・オブ・ウェールズは航行不能になり、左舷艦尾から沈み始めた。駆逐艦エクスプレスがカートライト艦長の判断で乗員救助のためプリンス・オブ・ウェールズの右舷に横付けし乗組員の収容を始めた。リーチ艦長は負傷者のみエクスプレスへの移乗を許可し、残る乗組員には戦闘配置につきプリンス・オブ・ウェールズをシンガポールへ回航させると演説した。後日、日本軍の捕虜となったウェールズ生存者(ポンポン砲銃兵)の証言によれば、トーマス・フィリップス提督は幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った。だが英戦艦の艦腹から海に飛び込んだ姿も数人に目撃されており、またヒラリー・ノーマン水雷中佐は救命胴衣をつけたフィリップの遺体が海面を漂うのを目撃している。「艦長が艦と運命を共にするのは無益だ」と公言していたリーチ艦長は付近の海面上で目撃されたが、生還しなかった() 。イギリス側の証言によれば、転覆時に海に投げ出されて行方不明になったという。午後2時30分、三番索敵機(帆足予備少尉機)が戦場に戻り、Z部隊の監視を行う。レパルスは既に沈没し、プリンス・オブ・ウェールズは艦中央と艦尾で火災が発生し、艦首は東を向いて惰性で動いていた。日本時間午後2時50分(現地時間13時20分)、プリンス・オブ・ウェールズは左へ転覆し艦尾から沈没した。帆足機は『レパルス型1420ごろ、キング・ジョージ型1450ごろ爆発沈没せり。駆逐艦、レパルスの救助作業につとめたるも、わずかに収容せるのみ。キング・ジョージ型は総員艦と運命をともにせり』と報告し、大本営発表もこれに準じている。実際のウェールズ戦死者は士官20名、下士官兵307名(全乗組員士官110名、下士官兵1502名)、であり、またバッファロー戦闘機隊指揮官は沈没寸前に火焔と黒煙が上がるも大爆発はなかったと証言している。午後2時45分、オーストラリア第453飛行隊のブリュースターバッファロー戦闘機11機が戦場に到着、完全に転覆し、艦尾から沈んでいくプリンス・オブ・ウェールズを目撃した。帆足機はバッファロー8機を視認して積乱雲に退避、午後9時20分にサイゴン基地に着陸して13時間の索敵任務を終えた。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。イギリス戦艦2隻撃沈の戦果は昭和天皇に報告され、天皇は「ソレハヨカッタ」と喜んだ。また「聯合艦隊航空部隊ハ敵英國東洋艦隊主力ヲ南支那海ニ殲滅シ威武ヲ中外ニ宣揚セリ 朕太タ之ヲ嘉ス」の勅語を示した。戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した。宇垣纏連合艦隊参謀長は、英国戦艦2隻を引き揚げ、修理した上で日本海軍への編入を思案したが、実現しなかった。軍令部もプリンス・オブ・ウェールズの引き揚げと調査のため、サルベージの手続きをとっている。1942年(昭和17年)4月15日、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、マレー沖海戦に参加した航空隊および隊員に感状を授与した。なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾して工廠修理2機、隊内修理25機、喪失機ふくめ21名戦死という被害を出し、2隻の対空砲火がいかに激しかったかを物語る証拠となった。また日本軍は駆逐艦1隻の撃沈を記録しているが、これは駆逐艦へ水平爆撃を行った時の至近弾を誤認したものである。イギリス東洋艦隊の2戦艦が撃沈された時点で、まだシンガポールには重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦モーリシャス、ダナイー級軽巡洋艦ダーバン、ダナイー、ドラゴン、駆逐艦ジュピター、エンカウンター、ストロングホールド、スコット、サーネット、オランダ海軍のジャワ級軽巡洋艦ジャワ、アメリカ海軍の駆逐艦ホイップル、ジョン・D・エドワーズ、エドソール、オールデンがあった。このうち4隻のアメリカ駆逐艦部隊はシンガポールを出航して戦地に向かい、帰路に就く駆逐艦エクスプレスらと遭遇した。エクスプレスは戦闘が終了したことを伝えた。アメリカ駆逐艦部隊は北上を続け、漂流者の捜索を行ったが発見できなかった。この海戦の結果、インド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。しかし、残存艦はスラバヤ(ジャワ島)に後退してABDA司令部指揮下でABDA艦隊を編成し、1月24日にはアメリカ駆逐艦部隊による攻撃(バリクパパン沖海戦)でボルネオ島上陸部隊が妨害を受けるなど予断は許されない状況であった。戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、1941年(昭和16年)8月上旬に行われた大西洋会談においてフランクリン・ローズベルト(アメリカ合衆国大統領)とウィンストン・チャーチル(イギリス首相)が乗艦し、大西洋憲章が結ばれた舞台である。当時、イギリスのウィンストン・チャーチル首相は著書の中でマレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告したという。沈没したプリンス・オブ・ウェールズは水面下68 m(223フィート)の位置で見つかり、不法ダイバーに盗まれるのを危惧したことから2002年になってベルが取り外された。ベルはリバプールの博物館(Merseyside Maritime Museum)で展示されている。レパルスはさらに浅い40メートルの海底に沈んでおり、海面から船体が視認できる状態である。双方の艦とも完全に転覆した状態で海底に横たわっている。既述の通り、マレー沖海戦は「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった。大艦巨砲主義者であった宇垣纏連合艦隊参謀長ですら『鴨がネギを背負って現れた。新鋭戦艦も無謀な行動で海の藻屑になった』と評し、真珠湾攻撃の大戦果とあわせて「日本海軍航空隊」を賞賛している。これを戦訓として、各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を、改めて大幅に増強した。航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、地上基地の航空部隊の行動圏外では戦艦を始めとする水上部隊は、敵側に航空戦力が存在する状況ではもはや空母なしで単独では行動できなくなってしまった。マレー沖海戦以後は、各国海軍は航空支援なしに戦艦を出撃させることに極めて慎重になる。だが脆弱な飛行甲板という構造上の弱点を抱え、かつ航空機用燃料や爆弾、魚雷といった可燃物を満載している空母がわずか1-2発の爆弾命中で航行不能に陥ったり沈没した事例の枚挙にいとまがない事と比較して、砲戦用の分厚い装甲を備え、水中防御も充実した戦艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた。例えば、日本海軍航空隊が沈めた航行中の戦艦は本海戦におけるプリンス・オブ・ウェールズとレパルスのみである。プリンズ・オブ・ウェールズの沈没について、ラッセル・グレンフェルイギリス海軍大佐は著書の中で『ただ、それは実際上対空防御の伴わぬ戦艦は、空襲により沈められ得るという事実を示したに過ぎなかった』と評している。アメリカ軍航空隊も大和型戦艦1番艦「大和」(坊ノ岬沖海戦)、大和型2番艦「武蔵」(レイテ沖海戦)にとどまった。この巨艦2隻の場合も、日本軍側に航空機の護衛が1機もないという特殊な事例だった。その一方、日本軍は戦闘機の護衛なしに艦隊攻撃を行う危険性を認識しなかった。もし予定通りイギリス艦隊に空母インドミタブルが随伴しているか、英空軍戦闘機がマレー半島に多数配備されていた場合、海戦の様相は変わっていた可能性がある。実際に1942年2月20日のニューギニア沖海戦では、空母レキシントン (CV-2)を攻撃した第二十四航空戦隊(第四艦隊)の一式陸上攻撃機15機がF4Fワイルドキャット戦闘機と対空砲火の迎撃で13機を撃墜されて完敗した。日本軍は『帝国海軍は開戦劈頭より英国東洋艦隊特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ、九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦出動を発見、爾後帝国海軍航空隊と緊密なる協力の下に捜索中本十日午前十一時半マレー半島東岸クアンタン沖において再び同潜水艦これを確認せるを以て帝国海軍航空部隊は機を逸せず、これに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ午後二時廿九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウエールズは忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり、ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり。』と大本営発表(昭和16年12月10日午後4時5分)を行い、英国東洋艦隊主力の撃滅を宣伝した。このようにマレー沖海戦においてイギリス海軍の最新鋭戦艦1隻と巡洋戦艦1隻が撃沈されたが、これはアヘン戦争(1840年 - 1842年)以来100年に亘るイギリス植民地主義と海軍全盛時代の「破局の序章」でもあった。シンガポールでは、プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の速報がラジオを通じてもたらされた瞬間、パニックが発生している。また、事実上イギリスの保護国であり、反イギリス気運が高まっていたイラクではプリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈の報が入ると、これを喜んだイラク人がバグダードにあるセミラミス・ホテルに飾られていた両戦艦の写真をインクで塗りつぶした。イラクでは、真珠湾攻撃やマレー沖海戦にて日本軍勝利のニュースが入るたび、日本支持のデモが起きるほどであった。イギリスはこの戦いによりマレー方面での制海権を失った。2か月後のシンガポール陥落(1942年2月15日)でイギリス陸軍は敗れ、シンガポールは日本軍に占領された。東南アジア征服の象徴・要というべきチョークポイントであるシンガポールを失うということは東南アジア支配の終焉を予感させるものとして、インドなど当時イギリスの植民地であった東南アジア各国の独立への機運に影響を与えた。イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べている。「イギリス最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおけるイギリスの力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」
出典:wikipedia
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