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竹 (松型駆逐艦)

竹 (たけ) は、大日本帝国海軍の駆逐艦。戦時量産型駆逐艦である松型(丁型)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては2代目である。戦時量産型のため「雑木林」と渾名されるなど、性能は比較的低かったが終戦まで生き残り、戦後は復員輸送艦としての任務にあたった。横須賀海軍工廠で建造。1943年(昭和18年)10月15日、起工。1944年(昭和19年)1月25日「竹」と命名される。同日附で駆逐艦一等松型に類別。3月28日、本籍を横須賀鎮守府に定められる。4月15日、日本海軍は青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」水雷長(昭和17年4月~沈没時)、若竹型駆逐艦2番艦「呉竹」艦長等を歴任した田中弘国少佐を竹艤装員長に任命する。4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始。5月6日、戦艦「山城」分隊長可兒祥男大尉が竹艤装員として着任吹雪型駆逐艦15番艦「天霧」沈没(4月23日)後、5月16日附で横須賀鎮守府附となった天霧水雷長志賀博大尉(旧姓保坂)も、5月20日附で竹艤装員に補職。6月16日、竣工。同日附で艤装員事務所を撤去。田中少佐は制式に竹駆逐艦長となる。主要幹部は、航海長高井義助中尉、砲術長可兒祥男大尉、水雷長志賀博大尉。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海で訓練の後、7月12日に門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する。7月15日附で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(梅、竹、松、桃)により第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)が、それぞれ編制される。翌7月16日、第十一水雷戦隊旗艦の長良型軽巡洋艦1番艦「長良」、高雄型重巡洋艦4番艦「摩耶」、香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」、駆逐艦複数隻(満潮型《朝雲》、不知火型《浦風》、秋月型《冬月》、夕雲型《清霜》、松型《竹》)は沖縄方面への輸送作戦『ろ号作戦』に従事することになり、中津沖を出撃。7月17日に中城湾に到着。宮古島に向かった第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった。駆逐艦3隻(冬月、清霜、竹)は南大東島への緊急輸送任務を行う。その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて19日に中城湾を出港し、20日に呉に帰投。「ロ」号作戦輸送部隊は解散した。本任務終了後の8月4日、硫黄島方面輸送作戦中の松型1番艦「松」(第二護衛船団司令官高橋一松少将旗艦。松駆逐艦長吉永源少佐《天霧沈没時艦長》)は米海軍水上艦艇と交戦、沈没した(スカベンジャー作戦)。8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は柱島泊地を出港し、8月16日にマニラに到着。8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く。米潜水艦の雷撃により沈没した長良型軽巡3番艦「名取」の救援を命じられ2日間捜索するも発見できず、8月26日夜には、ガルアングル島南西端で座礁中にアメリカ潜水艦バットフィッシュ ("USS Batfish, SS-310") の雷撃を受けて船体が切断・座礁した白露型駆逐艦6番艦「五月雨」(第27駆逐隊)の乗員を収容した。五月雨駆逐艦長大熊安之助少佐の前職は松型5番艦「桑」艤装員長であり、五月雨艦長の後は初春型駆逐艦1番艦「初春」艦長、同艦沈没後は松型14番艦「柳」艤装員長及び艦長を務めた。輸送作戦中の8月20日、第43駆逐隊は新編された第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入される。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った。8月30日からは南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将・海兵38期)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した。10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド ("USS Cod, SS-224") の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った。10月14日にミリに到着してマニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した。この船団は指揮艦である駆逐艦「春風」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。10月23日夕方、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ ("USS Sawfish, SS-276") の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「阿里山丸」には捕虜1500名が乗船していたが、米潜水艦に撃沈されてしまった。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め、また遭難者の救助に従事した。「春風」はアメリカ潜水艦シャーク ("USS Shark, SS-314") を撃沈して一矢報いた。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船曳航の命令があり、救助活動を打ち切って捜索したものの輸送船を発見できず、単艦で高雄へ向ったとしている。「竹」が作戦に従事していた9月30日と10月10日、第43駆逐隊に松型2隻(槇、桐)が編入される。最前線にいた「竹」は10月20日から始まったレイテ島の戦いに関わる事となり、三度にわたってレイテ島オルモック湾への輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった。作戦直前、田中弘国駆逐艦長が肺結核(肋膜炎とも)で退艦、11月3日に飯村忠彦少佐(海兵65期)が臨時艦長として着任する。田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府附。日本海軍は、神風型駆逐艦「旗風」航海長、吹雪型駆逐艦2隻(磯波、浦波)の水雷長等を歴任した宇那木勁少佐(当時、松型15番艦「椿」艤装員長)を「竹」駆逐艦長に任命。宇那木は軽巡「五十鈴」や松型3番艦「梅」を乗り継ぎながらマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた。11月9日未明3時、「竹」は第三次多号作戦に加わり、駆逐艦4隻(島風《第二水雷戦隊旗艦。司令官早川幹夫少将・海兵44期》、初春《駆逐艦長大熊安之助少佐》、浜波、竹)、第46号駆潜艇および第30号掃海艇と共に5隻の船団を護衛してマニラを出港した。翌10日午後、帰投中の第四次多号作戦部隊(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将。駆逐艦《霞、秋霜、潮、朝霜、長波、若月》等)の戦力から駆逐艦3隻(夕雲型2隻《長波、朝霜》、秋月型《若月》)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった。11日5時ごろに第四次多号作戦部隊と合同して18時30分にマニラに帰投した。なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、この日の空襲によって駆逐艦「朝霜」を残して全滅(島風沈没時に早川幹夫第二水雷戦隊司令官戦死)。乗組員の間では「竹」は「強運の艦」としての噂が広まった。11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母《隼鷹》、重巡《利根》、第30駆逐隊《卯月、夕月》)は同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離、代艦として白露型2番艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する。2隻(軽巡《木曾》、秋月型《霜月》)は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された。11月13日、マニラ湾は再び空襲をうけ5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる。本艦は港外に退避しており、損害はなかった。第五艦隊司令長官志摩清英司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に進言。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮《左舷一軸運転》、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した。「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)とともに南沙諸島長島に向かい、長島で南方に進出途上の第四航空戦隊(司令官松田千秋少将。戦艦伊勢、日向)などと会合。飯村駆逐艦長が退艦して宇那木少佐が新任駆逐艦長となる。本艦はアメリカ潜水艦ヘイク ("USS Hake, SS-256") の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の長良型軽巡2番艦「五十鈴」と途中ですれ違いつつ、マニラに引き返した。11月24日、「竹」は第五次多号作戦第二梯団として第6号輸送艦、第9号輸送艦および第10号輸送艦と共にマニラを出撃した。翌11月25日、「米機動部隊が接近中」との情報でマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊したが、間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没。第9号輸送艦も損傷(艦長赤木毅予備少佐。航海長戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他、ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった。レイテ島オルモック湾への突入を命じられ、高井義助航海長は『方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した。機関長は燃料流出を懸念したが、命令なら突入すると進言。砲術長は反対した。しかし、第9号輸送艦より『砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断』との報告を受け、命令違反を承知で再挙を期してマニラに引き返すこととした。生存者を救助しつつ11月26日にマニラに帰投。宇那木艦長は南西方面艦隊司令部に出頭して詫びを入れた。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった。11月30日、本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「桑」(駆逐艦長山下正倫中佐)の指揮下に入り、松型2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦という戦力でマニラを出撃した。夕刻、酸素魚雷点検中の事故により魚雷1本を誤って投棄、「竹」の残魚雷は3本となった。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。そして、三度目の作戦として ("USS Allen M. Sumner, DD-692") 、 ("USS Moale, DD-693") そしてクーパー ("USS Cooper, DD-695") がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲(水上爆撃機)に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた。「桑」側は敵戦力を軽巡洋艦3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した。「竹」は12.7cm 高角砲、25mm 機銃、酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った。オルモック湾内を24ノットで航行しながらの機動するため、座礁を懸念しながらの戦闘であった。最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ、また電気機器の故障により発射の機会を逃した。二度目の機会を得て魚雷2本を発射、四番連管は起動弁の故障で発射できなかった。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった。一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた。やがて第120駆逐群が南方へ去っていった事により、これ以上の戦闘は行われなかった。やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した。夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した。12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、竹側は「大発動艇がくるから頑張れ」と返答。すると第159号輸送艦(もしくは第140号輸送艦)が反転し、桑生存者8名を収容した。また生存者の一部はカッターボートで上陸、現地の海軍陸戦隊に合流した。途中で傾斜を回復させた「竹」は、12月4日午後にマニラに帰投した。宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった。12月5日から14日まで応急修理を行ったが、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた。「竹」は本格的な修理を受けるため12月15日にマニラを出港。この時猛烈な台風に遭遇、付近ではウィリアム・ハルゼー提督率いる第3艦隊 (アメリカ軍)が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている。12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に基隆に寄港。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団を護衛して基隆を出港。中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年(昭和20年)1月1日に門司港外に到着した。翌1月2日、「竹」は呉海軍工廠に回航。当初の予定では1月末から2月初頭、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが、予定は延びて3月15日まで修理を行った。4月16日から26日にかけての工事では、三式探信儀などが装備された。その間、2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた。3月19日の呉軍港空襲では10名余の負傷者を出した。1944年(昭和19年)末より第43駆逐隊は所属艦2隻(桃、梅)を喪失、松型11番艦「榧」を編入。また駆逐隊司令も菅間大佐から吉田正義大佐、続いて吉田から作間英邇大佐に交代していた。4月25日、第43駆逐隊に「蔦」を編入4月29日から「楓」とともに回天との訓練に参加した後、「竹」は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った。5月20日、第43駆逐隊に松型「椎」を編入。しかし、戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦(榧、槇)等とともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった。近隣には僚艦(花月、桐、蔦)も艤装繋留されていた。樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後、10月25日に除籍。本艦竣工時より竹水雷長だった志賀博(旧姓保坂)大尉は、敷設艇「巨済」艦長に転じた。戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島と浦賀間を二度往復し、次いでパラオと浦賀間を一往復、サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった。1946年に復員輸送を終え同年7月26に特別保管艦に指定され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留された。1947年(昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ、イギリスに賠償艦として引き渡され解体された。

出典:wikipedia

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