能登線(のとせん)は、石川県羽咋市の羽咋駅から同県羽咋郡富来町(現・志賀町)の三明駅の間を結んでいた北陸鉄道の鉄道路線である。もともと沿線の人口が少ない路線ではあったが、1960年代には沿線の過疎化やモータリゼーションの進行により累積赤字が膨らみ、北陸鉄道の経営合理化のため1972年(昭和47年)6月25日全線廃止となった。能登線は北陸鉄道の鉄道線で唯一の非電化路線であった。廃線後、廃線跡のほとんどの区間は自転車道(石川県道293号羽咋巌門自転車道線)として整備されている。車両基地は羽咋駅構内にあり、1969年時点で気動車5形式7両とディーゼル機関車1両が所属していた。列車は羽咋 - 三明間に14往復(1往復は急行)、羽咋 - 能登高浜間に4往復が設定されていた。ラッシュ時には2両編成が走るが、その他の時間帯は単行での運転であった。また、夏季には海水浴客のために能登高浜まで、正月には初詣客のために能登一ノ宮まで、金沢からの直通臨時列車が乗り入れていた。それに備えて、両駅のプラットホームはかなり長いものであった。北陸鉄道能登線の発祥は葛城忠寸計ほか168人が1920年6月に富山県氷見から羽咋、富来、剱地、櫛比をへて輪島にいたる鉄道建設を鉄道大臣に出願したことである。11月に免許状が下付されると総株数9万株(450万円)のうち発起人が2万3千株を引受けることとして、残りを沿線の各郷に事務所を設置して募集した。あいにく第一次大戦後の絹織物業不振が続き地元経済界も厳しい状況にあったが、募集は順調に進み1921年11月には満株に達し12月に能登鉄道株式会社を設立し社長は25000株保有した富山県上新川郡東岩瀬町の畠山小兵衛が就任した。なお株主構成は大正11年度では株主7742人平均持株11.6株。特に1株のみの株主が多数いた。また現羽咋市域の株主が17%をしめていた。1925年3月羽咋駅 - 能登高浜駅間が開業し、1927年6月能登高浜駅 - 三明駅間が開業にこぎ着けたが、その後は資金調達が進まず門前(總持寺祖院)、輪島までの計画は放棄されてしまった。駅名および所在地は廃止時点のもの。全駅石川県に所在。製造当初から客車であった車両。気動車を改造した客車を含む。鉄道の廃線により代替バスが運行され、鉄道路線が延びることはなかった旧富来町へ羽咋駅から乗り換えなしで結ばれるようになった。羽咋 - 富来を直通で結ぶ便はすべて荒屋回りである。また、羽咋 - 能登高浜・三明折り返しの便も存在する。三明から福浦・厳門回りで富来に向かう区間便も存在したが、2007年4月1日のダイヤ改正により高浜 - 赤住まで運行していた赤住線の一部が赤住 - 福浦 - 厳門を経て富来まで延伸。これにより三明 - 福浦間を走行する路線バスは事実上廃止となった。各停留所に停まる路線バスのほかに金沢駅 - 羽咋駅 - 三明 - 富来 - 門前を結ぶ門前急行・特急バスも運行している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。