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深雪 (駆逐艦)

深雪(みゆき)は大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「深雪」は吹雪型駆逐艦の4番艦。雪級の1隻。当初の艦名は第38号駆逐艦。1929年(昭和4年)6月29日に竣工後、第11駆逐隊に編入。1934年(昭和9年)6月29日、第11駆逐隊は第二水雷戦隊に所属して連合艦隊の演習に参加、本艦は吹雪型駆逐艦24番艦「電」と衝突して沈没した。1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する。第38号駆逐艦は、同年4月30日に浦賀船渠で起工。同造船所では、既に第43号駆逐艦(磯波)の建造が進んでいた。1928年(昭和3年)6月26日午前11時30分、第38号駆逐艦は無事進水。その4日後、第43号駆逐艦(磯波)は竣工して浦賀を離れた。8月1日附で第38号駆逐艦は深雪と改称。12月10日、日本海軍は睦月型駆逐艦2番艦「如月」駆逐艦長加藤仁太郎中佐を、深雪艤装員長に任命する。1929年(昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第24号潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣工予定を延期した。6月29日に竣工。艤装員事務所を撤去。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦長(初代)となる。深雪竣工後、吹雪型駆逐艦4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)は呉鎮守府所属の第11駆逐隊を編成(昭和3年12月18日附編成、駆逐隊司令千谷定衛大佐。当初司令駆逐艦「白雪」、昭和4年4月18日より「吹雪」)。第二艦隊(旗艦「榛名」)、第二水雷戦隊(旗艦「鬼怒」、第12駆逐隊《東雲、薄雲、白雲、叢雲》、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、深雪》、第23駆逐隊《菊月、三日月、望月、夕月》)に所属した。「深雪」編入と共に、第11駆逐隊司令駆逐艦は「吹雪」から「初雪」に変わった。第11駆逐隊編入から間もない1929年(昭和4年)8月2日午後9時、山口県油谷湾で第12駆逐隊の射撃訓練に協力中の「深雪」(曳的艦)は、流れ弾2発が命中して小破。負傷者4名。舞鶴要港部工作部で修理を実施した。11月1日、第11駆逐隊司令駆逐艦は「初雪」から「深雪」に変更された。11月30日、千谷大佐(第11駆逐隊司令)は標的艦「摂津」特務艦長へ転任。軽巡洋艦「夕張」艦長森田重房大佐が後任の第11駆逐隊司令となる。1930年(昭和5年)11月20日、加藤(深雪駆逐艦長)は第28駆逐隊司令に補職され、天津風型駆逐艦3番艦「浜風」駆逐艦長安富芳介中佐が後任の深雪駆逐艦長となる。12月1日、第11駆逐隊司令は森田大佐から、川内型軽巡2番艦「那珂」艦長南雲忠一大佐に交代する。1931年(昭和6年)10月10日、南雲大佐(第11駆逐隊司令)は軍令部参謀へ転任、後任の第11駆逐隊司令は小沢治三郎大佐となる。同月、本艦は呉工廠で缶用乙型1号噴燃器の換装等の工事に着手。12月1日第二予備艦となった。同日附で安富(深雪艦長)は姉妹艦「朝霧」駆逐艦長に任命される。同時に姉妹艦「初雪」艦長河原金之輔中佐も「綾波」駆逐艦長に補職。海軍は、直塚八郎中佐(当事室戸運用長)に、深雪・初雪駆逐艦長兼務を命じた。さらに小沢大佐(第11駆逐隊司令)は海軍大学校教官を命じられて退任、後任の第11駆逐隊司令は第28駆逐隊司令加藤仁太郎大佐(深雪初代艦長)となる。さらに艦隊の再編により吹雪型3隻(東雲、吹雪、磯波)で第20駆逐隊が編制され、第11駆逐隊は3隻編制(白雪、初雪、深雪)となった。1932年(昭和7年)1月11日、直塚中佐は大湊防備隊副長へ転任。天津風型駆逐艦2隻(天津風、浜風)艦長を兼務していた金桝義夫中佐が、新たな深雪・初雪駆逐艦長となる。5月16日附で金桝(深雪・初雪)艦長は吹雪型姉妹艦「天霧」駆逐艦長に補職される(後日、金桝は軽巡「大井」艦長、給油艦「風早」艦長等を歴任。りおでじゃねろ丸指揮官としてトラック島空襲における同船沈没時に戦死)。吹雪型2番艦「白雪」駆逐艦長中原達平中佐は、吹雪型3隻(深雪、初雪、白雪)艦長を兼務する。7月1日、山口次平中佐が初雪駆逐艦長に補職される。これにともない、中原中佐の艦長兼務は2隻(深雪、白雪)となった。7月8日に工事を完了。12月1日、第二水雷戦隊に復帰。当時の第二艦隊は、第四戦隊(高雄、愛宕、摩耶、鳥海)、第五戦隊(衣笠、加古、青葉)、第二水雷戦隊(神通、第7駆逐隊《曙、潮、朧》、第8駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧》、第11駆逐隊《白雪、初雪、深雪》、第12駆逐隊《叢雲、薄雲、白雲》)、第二潜水戦隊(球磨、第18・第19潜水隊)で編制されていた。同日附で、中原(深雪、白雪)艦長は姉妹艦「敷波」駆逐艦長へ転任。吹雪型1番艦「吹雪」駆逐艦長大森正直中佐が深雪駆逐艦長に補職される。金桝義夫中佐(天霧艦長)は「白雪」駆逐艦長に補職された。また第11駆逐隊司令も、加藤仁太郎大佐(深雪初代艦長)から後藤英次大佐に交代する。1938年(昭和8年)11月15日、第11駆逐隊司令後藤英次大佐は川内型軽巡洋艦2番艦「那珂」艦長に補職。後任の11駆司令は、第20駆逐隊司令と姉妹艦「磯波」艦長を兼務していた横山茂大佐となる。第二水雷戦隊旗艦も川内型軽巡洋艦2番艦「神通」から同型3番艦「那珂」に交代した。当時の第二艦隊は、第四戦隊(高雄、愛宕、摩耶、鳥海)、第六戦隊(古鷹、衣笠、青葉)、第二水雷戦隊、第二潜水戦隊(由良、迅鯨、第19、第29、第30潜水隊)で編制されていた。当時の第二艦隊司令部は、司令長官高橋三吉中将、参謀長有地十五郎少将、首席参謀大西新蔵中佐等だった。1934年(昭和9年)当事の第11駆逐隊は、引続き吹雪型3隻(深雪、初雪、白雪)で編成されていた。さらに第11駆逐隊、第6駆逐隊(電、雷、響)、第10駆逐隊(暁、狭霧、漣)、第12駆逐隊(白雲、叢雲、薄雲)、川内型軽巡3番艦「那珂」で第二水雷戦隊を編成している。他の吹雪型姉妹艦は、呉警備戦隊(旗艦《阿武隈》、第13駆逐隊《呉竹、若竹、早苗》、第19駆逐隊《敷波、綾波、浦波》、第20駆逐隊《東雲、磯波、吹雪》)等に所属していた。6月下旬、連合艦隊は済州島南方沖で演習を実施。6月28日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦「鳥海」)指揮下の、第二水雷戦隊(司令官阿武清少将:旗艦《那珂》、第6駆逐隊《電、雷、響》、第10駆逐隊《暁、狭霧、漣》、第11駆逐隊《深雪、白雪、初雪》、第12駆逐隊《白雲、叢雲、薄雲》)、第四戦隊第1小隊(鳥海《第二艦隊旗艦》、摩耶)、第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)、第二潜水戦隊《軽巡由良、潜水母艦迅鯨、潜水艦部隊)、第一戦隊(扶桑、日向)、および龍驤航空部隊は乙軍を編成。これに対し、連合艦隊司令長官末次信正中将(旗艦「金剛」)指揮下の金剛型戦艦2隻(金剛、霧島)、第四戦隊第2小隊(高雄、愛宕)、第七戦隊(長良、五十鈴、名取)、第一水雷戦隊(旗艦「川内」、第30駆逐隊《睦月、卯月、弥生、如月》、第5駆逐隊《松風、春風、旗風、朝風》、第23駆逐隊《菊月、夕月、望月、三日月》、第29駆逐隊《疾風、追風、朝凪、夕凪》)、第一航空戦隊(空母《赤城》、第2駆逐隊《澤風、沖風》)、第一潜水戦隊、補給部隊(鳴戸、間宮)等も甲軍を編成。甲軍(第一艦隊基幹)、乙軍(第二艦隊基幹)はそれぞれ佐世保を出撃した。6月29日午後1時、第四回連合艦隊基本演習(第一水雷戦隊、第二水雷戦隊の昼間襲撃)がはじまる。午後5時頃より本格的な交戦がはじまるが、狭隘海面に多数の艦艇がひしめき、さらに天候と煙幕のため視界は極めて悪かった(約10-12km)。鳥海座乗の第二艦隊参謀大西新蔵中佐(当時)は、演習条件(視界狭少、大部隊の襲撃)に多少無理があったが「これ位の無理はこの時に限ったことではなかった」と回想している。午後6時頃、乙軍の第11駆逐隊(1番艦深雪、2番艦初雪、3番艦白雪)は甲軍(仮想敵)の第四戦隊第2小隊(高雄、愛宕)に対し雷撃を敢行し、続いて煙幕(軽巡洋艦「由良」展開、もしくは甲軍飛行機隊展開)を転舵で避け、たまたま発見した「衣笠」(乙軍)に続航しようとしていた。直後、煙幕の中から乙軍の第6駆逐隊(1番艦電、2番艦響、3番艦雷)が出現、回避できず「電」(第6駆逐隊司令駆逐艦)が「深雪」(第11駆逐隊司令駆逐艦)の左舷に衝突する。「深雪」の船体は艦橋直下の46番ビーム付近で断裂。後部船体に「那珂」が横付し、那珂・愛宕乗組員の応援を得て排水を試みたものの浸水が止まらず、第二水雷戦隊司令官阿部清少将(那珂座乗)は深雪乗組員の退去を命じた。深雪乗組員は「那珂」に移動。軽傷者は金剛型戦艦1番艦「金剛」(連合艦隊旗艦)に収容された。総員退去の後、「那珂」は「深雪」への横付を離す。午後9時53分、もしくは地点で沈没した。深雪艦首部分は駆逐艦2隻(初雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された。また「鳥海」(第二艦隊旗艦)も現場に残留し、翌朝には水上偵察機を投入して捜索に従事したが、深雪艦首を発見することは出来なかった。深雪水兵2名と機関兵1名の3名が死亡、水兵2名が行方不明、電乗組員1名が行方不明となった。扶桑型戦艦1番艦「扶桑」分隊長として衝突を目撃した高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)は『もっと早く「日向」位が横抱きすればよかった』と評している。このあと艦首を喪失した「電」は吹雪型8番艦「白雲」に曳航され、6月30日朝以降は「那珂」に曳航され、「響」や曳船の応援を得て7月1日午後3時、佐世保に帰投した。7月3日、第11駆逐隊司令駆逐艦は「深雪」から「初雪」に、第6駆逐隊司令駆逐艦は「電」から「響」に変更。同日附で深雪残務整理事務所を設置する。7月5日、第11駆逐隊より除かれ、同隊は吹雪型2隻(白雪、初雪)となる。7月22日、事務所撤去。同年8月15日に除籍された。美保関事件に続く本艦沈没は艦隊乗組員に衝撃を与えたが、訓練は一層激しくなったという。「深雪」は吹雪型(特型)駆逐艦以降の日本海軍在籍駆逐艦の中で第二次世界大戦に参戦していない唯一の駆逐艦であり、また、日本の駆逐艦同士の衝突で沈没した唯一の駆逐艦である。大藤正直中佐(本艦沈没時の艦長)は太平洋戦争において給糧艦「間宮」特務艦長や標的艦「摂津」特務艦長等を歴任した。また深雪沈没の要因となった「電」駆逐艦長平塚四郎中佐(深雪沈没当時)は、軽巡「球磨」艦長、空母3隻(雲鷹、葛城、天城)艦長等を歴任して終戦を迎えた。

出典:wikipedia

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