EF71形は、日本国有鉄道(国鉄)が製造した交流電気機関車である。1968年の奥羽本線米沢 - 山形間交流電化ならびに既存の直流電化区間であった福島 - 米沢間の交流電化切替に伴い、急勾配を有する板谷峠での牽引定数を極力確保する必要から、EF70形に続く動軸6軸の「F形」として開発された形式が本形式である。板谷峠は約33‰の平均勾配を有し、碓氷峠・瀬野八と並ぶ急勾配区間である。同区間は1949年より直流電化され、当初はEF15形、1951年からはEF15形に回生ブレーキを追設改造したEF16形、1964年からは抑速発電ブレーキを装備したEF64形が運用されてきた。しかし、1959年に東北本線黒磯駅以北が交流電化され、福島で分岐する奥羽本線も既存直流電化区間である同区間も1968年10月1日のダイヤ改正で奥羽本線の米沢 - 山形間が交流電化されるのにあわせ交流電化への切替が決定したことから、対応型の勾配区間用交流電気機関車が計画され、サイリスタ位相制御・交流回生ブレーキを搭載した試作機ED94 1(後のED78 901)で試験が行われた。同区間は貨物列車も多数運転されており、牽引定数を極力確保する必要があった。連結器の強度と勾配条件から列車重量は最大650tを想定したが、ED78形のみの重連運転では連続回生ブレーキ時の熱容量不足であること、また33‰区間での力行時に均衡電流が570A(一時間定格)を上回る懸念からF形機の開発・製造が求められた。ED75形やED76形500番台などと同一の意匠で、重連運転を恒常的に行うため正面に貫通路を設けたほか、冬期の窓ガラス破損を防ぐため正面窓上部にはツララ切り、窓の周囲にはプロテクターを取り付けるボルトを備える。全長は18,500mmに達し、側面の通風口は片側7組を備える。主電動機は国鉄新性能電気機関車の標準形式である直流直巻電動機MT52形の電機子絶縁強化タイプとなるMT52A形を6基搭載する。交流専用のため端子電圧が上げられ、1基あたりの1時間定格定格出力は450kW・総定格出力2,700kWとなり、これは国鉄交流電気機関車の最大値ではある。もっとも出力向上でなく主電動機熱容量に余裕を持たせるのがそもそもの目的であり、直流機同然の主電動機回路構成から当初から空転が頻発し、死重搭載による自重増加も試みられたが根本的な解決にはならず、一部で言われるような「最強」イメージとは実態は程遠い。制御方式はED78形と共通のサイリスタ位相制御で電力回生ブレーキも試作車ED94 1の実績を基に界磁電流制御を拡大したものとなったが、主電動機の接続は6軸を全並列接続とした場合ED78形に対して2.25倍のサイリスタを必要とするなど変圧器・整流器が大型化して機関車重量増や価格の高騰を招くことから直流機同様の2個直列3並列の固定接続になり、ED78形と同数に抑えたサイリスタ素子で6軸を制御する関係上サイリスタ素子自体の耐圧を強化、主変圧器の2次側を6分割として6組のサイリスタブリッジを配置する回路構成を採用、弱め界磁とその関連機器も設けられていない。また動軸には電気子電圧を自動で調整する空転検出装置を備えている。列車暖房用電源は主変圧器の3次巻線から供給される。台車は前後のものはED78形とほぼ同一の仮想心皿方式を採用し後述する保安装置を備えたDT129M形およびN形を、中間台車は車体と台車側受の間にコロを挿入して曲線区間での横動を許容したDT137形を採用した。板谷峠の厳しい線路・気象条件に対応する保安装置としては、停電や故障によって電力回生ブレーキが使用不能になった場合自動的に非常ブレーキを作動させる機能を持たせたほか、EF63形と同じく下り勾配での暴走を防ぐ過速度検知装置や勾配上での長時間停車を想定し空気ブレーキをかけた状態でロックする転動防止装置と主電動機回路の短絡による非常ブレーキ装置を備える。また、耐寒設備としては冬期の架線凍結に備え前位側のパンタグラフを必要に応じ上昇させられるような構造とし、高圧機器類も北海道向けに試作されていたED75 501に準じ全て車内に搭載している。ED78形とは機器の共通化がなされ、KE77形ジャンパ連結器2基を通し両形式相互の重連総括制御が可能である。なお、本形式とED78形の板谷峠における牽引定数は以下のとおりであった。1968年から1970年にかけて製造された1次形と、1973年に製造された2次形に分類される。各製造次別の製造メーカー・名目・予算は下記表を参照。また製造年次により以下で解説する変更点がある。1968年の製造後7月から8月に東北本線・磐越西線でED78形とともに試運転や性能試験を実施、さらに先行して交流電化工事を完成した置賜 - 蔵王間で乗務員の訓練運転を行い、1968年10月1日のダイヤ改正を前にした9月22日に交流への切替工事が完了した福島 - 米沢間で本格的な運用を開始し、翌9月23日からは山形まで運用範囲を拡大した。全機が福島機関区に配置され「津軽」に代表される急行列車や普通列車・貨物列車のほか、1970年夏から運転を開始した寝台特急「あけぼの」の牽引など広汎に使用された。当初はED78形牽引列車の補機として福島 - 米沢間での運用が大半であったが、仙山線の使用電機をED78形に統一した1970年以降は機関車運用が変更され旅客列車を中心に本形式の単機ないし重連で福島 - 山形間を直通運転することも多くなり、編成重量の関係から特に重連運転を必要とした一部の列車を除くと本務機と補機の区別が曖昧なものとなった。本形式の純粋な補機としての運用例としては、キハ80系を使用していた特急「つばさ」への投入がある。同列車での補機運用は1970年に大出力機関搭載のキハ181系に車種変更されたことで一旦は解消されたが、連続勾配下や高速運転での過負荷運用によりキハ181系の機関過熱や故障が多発し列車の遅延や運休が続出したため、1973年以降は負荷軽減のため再度本形式による補機運用が再開された。当該運用は1975年11月の奥羽本線全線電化完成による「つばさ」485系電車化で終了した。また、1970年に運転開始した寝台特急「あけぼの」も運転当初は20系客車13両編成の編成重量が書類上410tと牽引定数内に収まっていたことから本形式が単機で牽引したが、1972年以降工事が進められた20系客車の不燃化対策および汚物処理装置取り付けによる重量増加により冬季を中心に空転が頻発、臨時に補機を連結する運用が常態化したため1977年には本格的に空転問題の調査を実施、同年10月からは「あけぼの」の編成重量を13両編成470t、季節によっては2両減車の11両編成410tと変更、運転安定化のため本形式、もしくはED78形の補機連結が正式化された。1978年10月ダイヤ改正では「あけぼの1・4号」は改正前と同じ13両編成をED78形重連で牽引、「あけぼの2・3号」は11両編成に減車のうえ本形式の単機牽引と定めたが、冬季は空転対策上本形式とED78形の重連にするといった臨時の運用変更が行われたことから、結果的に「あけぼの」全列車を24系客車(12両編成、440t)へ置き換えた1980年10月ダイヤ改正に際して粘着係数に気を使ったED78 12・13号機が増備される原因となり、同改正直後は福島 - 山形間はED78形重連の限定運用になったことで一時的に本形式は「あけぼの」運用から外されたが、その後1982年の「津軽」格上げによる「あけぼの」増発や国鉄末期の列車編成見直しによる減車、1988年の「北斗星」新設による「あけぼの」削減等により通常の運用では11両以下に牽引定数が減少したことからも機関車運用は変更され、後述する1990年の奥羽本線改軌工事までの間は「あけぼの」は本形式同士、本形式とED78形、あるいはED78形同士による重連運転が行われた。国鉄分割民営化時には1を除いた全機が福島運転所(旧・福島機関区)所属のまま東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継。引き続きED78形とともに運用され、1988年の8月末から9月初旬には東北本線が岩手県内で不通になったことで奥羽本線を迂回した「北斗星」をED78形と重連で牽引したが、客車夜行列車の統廃合や福島 - 山形間を経由する貨物列車の削減などで運用は狭まっており、末期まで残った板谷峠越え普通列車運用では、わずか2・3両ほどの短編成客車列車を牽引するという事態も見られた。1990年より福島 - 山形間標準軌化による山形新幹線建設工事が始まり、8月31日には福島 - 米沢間の単線化に伴い定期夜行列車での運用が消滅、以後も残った普通列車と貨物列車(山形 - 漆山間)、臨時列車などの運用も1991年8月26日をもって終了した。一部は東北本線で臨時運用に投入されたが、一般区間に適応しない特殊設計であるがゆえに他線区への転用が難しく、1993年までに全車が除籍され形式消滅した。1号機が唯一現存し、それ以外は全て廃車後、解体廃棄された。 『レイル』1983年春の号 1983年4月
出典:wikipedia
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