鉄道連絡船(てつどうれんらくせん)とは、鉄道輸送において、本土・離島連絡など海洋、湖沼などの水面によって隔絶され鉄道軌道を設置することが困難である場合に、両端を連絡する目的で当該水面上に設けられた航路に就航する船である。当該航路自体をさすこともある。広義には、鉄道会社ないしは、その関連会社が管理・運航するものを指し、狭義には、鉄道輸送と一体となって効率的な輸送を行うために、鉄道軌道を船内に設置した船舶(車載客船、車両渡船)を特に建造して鉄道車両を輸送するものをいう。世界的には、車両航送を行うものを指してtrain ferryと呼ぶことが多い。また日本では、旧国鉄が運航した航路全般を指すことが多い。過去の海難事故より、車載客船は、自動車用フェリー(カーフェリー)同様の安全装備、接客設備等が義務づけられる。車載客船では、並行して自動車航送を行っている場合が多い。日本でも宮島連絡船が自動車航送を行っており、過去の青函連絡船、大島連絡船でも行っていた。なお、アメリカ合衆国では、1950年代まで鉄道連絡船のことをカーフェリーと称していた。今日ではカーフェリーという言葉では日本と同じく自動車用のフェリーを指す。1833年にイギリス、スコットランドのモンクランド・アンド・キルキンティロック鉄道 () がフォース・アンド・クライド運河 () で車両を搭載する船を運航した。1836年4月にはアメリカで最初の鉄道連絡船、サスケハナ号(the Susquehanna)がメリーランド州のハバー・ド・グラース () とペリービル () の間のサスケハナ川に就航した。最初の近代的な設計のフェリーであるリバイアサン号 (the Leviathan) は、1849年にトーマス・グレンジャー (Thomas Grainger) により、スコットランドのグラントン () とバーンティスランド () の間でフォース湾を横断するためにエジンバラ・パース・アンド・ダンディー鉄道 (Edinburgh, Perth and Dundee Railway) 向けに設計された。この連絡船は、鉄橋が建設されるまでの一時的な連絡手段として考えられていたが、トーマス・バウチ () が設計したテイ橋の崩落事故の影響を受けて建設が遅れ、開通したのは1890年のことになった。バウチはまた、連絡船への積み込み機構の設計も行っている。車両航送とは鉄道連絡船において航路を挟んだ鉄道同士の輸送を円滑に行うために鉄道車両ごと連絡船を使用して運搬する方法のことである。このためには、船体(甲板)に軌道を有した船を使用し、また岸壁では船に接岸する際に軌道を連絡させるように「角折れ」に対応した特殊な桟橋を使用するなど、高度な技術を持つ必要がある。ヨーロッパの例では、自動車航送を並行するために車両甲板を鉄道、自動車併用にしている例もある(日本では別途設置されていた)。しかし、鉄道車両ごと乗客・貨物の移動が可能であることから、貨物については積み込み作業の効率化に繋がり、旅客の場合、列車と船の乗り換えや手荷物の移動などの手間が省ける。鉄道車両の航送を行う船舶のことを車両渡船と呼び、車両渡船のうち、旅客設備のあるものは客載車両渡船と呼ぶ。また、客載車両渡船のうち、車両航送よりも旅客輸送に重点をおいたものを車載客船と呼ぶ。車両航送は、輸送する車両区別により貨車航送と客車航送とに区分される。ヨーロッパでは客車航送が現在でも行われているが、日本では1948年12月 - 1955年5月11日までのごく短期間に行われたに過ぎない。当初は、1946年2月21日より運行を開始した連合軍専用列車「1101・1102列車」で開始され、一般の日本人が利用できるようになったのは1950年の急行列車「みちのく」からとされるが、1954年9月の青函連絡船の洞爺丸事故、1955年5月11日の宇高連絡船の紫雲丸事故により、相次いで廃止された。また、カーフェリーでも航海中は車両甲板に立ち入ることが出来なくなった。貨物輸送については、日本の場合関門連絡船において始めたのが最初といわれ、後に、青函連絡船・宇高連絡船まで拡大、共に通常運行終了まで行われた。これは、旅客とは異なり鉄道貨物の場合、鉄道事業者である国営・公社であった日本国有鉄道のみが独占的に取扱ってきたことや、郵便物の輸送等で、輸送量そのものが本土四島を結ぶため膨大であったことが挙げられる。車両航送に用いる鉄道連絡船では、船の中のあるデッキ(車両甲板)に線路が敷かれており、前部または後部またはその両方に扉を備えており、桟橋と接続して車両の出し入れができるようになっている。桟橋には可動橋が備えられており、潮の満ち引きにより水位が上昇・下降するのに合わせて適切に地上の線路と船を接続するようになっている。通常の船の甲板や船倉に鉄道車両を搭載することもできるが、専用に建造された鉄道連絡船は車両の積み降ろしがより速くでき、何両もの車両を一度に積み降ろせるという利点がある。ノルウェーの1965年に建造された鉄道連絡船、スカゲラック号(Skagerak)は、1966年9月7日にノルウェーのクリスチャンサンとデンマークのヒァツハルス () を結ぶ航海の途中に、荒れた海によって後ろ側の車両甲板扉を破壊された後、強風によって沈没した。1人の乗客が負傷が元で後に死亡し、6両の貨車と多数の自動車が船と共に海に沈んだ。同様の事故は、1970年4月19日に、ケープ・ブレトン島の北東岸沖で沈んだトロール船の捜索救難活動に参加していたカナダの鉄道連絡船パトリック・モリス号(Patrick Morris)が沈んだ際にも起きている。9メートルを超える波により後部扉をもぎ取られて、船体を守るために位置を維持しようとしているところであった。30分以内に沈没して何両かの車両と4人の乗務員がカボット海峡の底へと沈んだ。生存者は47人であった。日本の洞爺丸事故では、車両甲板扉自体を設置しておらず、ここから海水が船内に侵入した。侵入した海水は船の復原力を奪うほどの量ではなかったものの、漏水で機関が停止して操船が不可能になり、暴風雨の中で沈没につながることとなった。鉄道連絡船は鉄道車両をレールに載せたまま輸送するという特性に関連した以下のような弱点を持っている。ミシガン州のアン・アーバー鉄道 () が、他の多くの会社でも採用された車両固定方法を開発した。スクリュージャッキが貨車の四隅に据え付けられ、貨車を若干持ち上げて車輪に掛かる荷重を減らす。チェーンとターンバックルで車両の台枠とレールが結ばれてきつく締められる。さらに輪止めを車輪にかます。担当の甲板員が航海中常に点検を行い、ターンバックルを締めなおす。この方法により、荒天下でも車両を効果的に固定しておくことができた。五大湖では、SSミルウォーキー () 、SSペレ・マルケット18 (SS Pere Marquette 18) 、SSマルケット・アンド・ベッセマー第2(SS Marquette & Bessemer No.2)が失われている。これらの沈没事故は、原因が不確定なものも残るものの、船の後部の車両搭載口が保護されておらず、激しい嵐により水が浸入したことと関係している。結果として、新造船では搭載口の扉が義務付けられ、古い船にも改造して取り付けることになった。これに加えて、五大湖では木造の鉄道連絡船2隻が火災を起こしている。可動橋を使って搭載作業を行っている時にも事故が発生している。これは安定性が主な問題点である。鉄道連絡船は、船内の線路の片側に車両を積載していない状態で反対側の線路に重い車両を載せる時にしばしば傾く。標準の搭載作業は、片方の線路にまず半分の車両を搭載し、もう片方の線路に一杯に車両を搭載した後に、最初の線路に残り半分を搭載する。この手順が守られないと、結果は悲惨なものとなることがある。1909年、SSアン・アーバー第4(SS Ann Arbor No.4)がミシガン州マニスチーク () の桟橋で、左舷側の線路に8両の鉄鉱石を積載した車両を搭載した際に転覆した。乗組員は命を失うことなく脱出に成功したが、引上げ作業は費用も時間も掛かるものとなった。1907年から1990年まで9隻の鉄道連絡船が使われてきたが、川を横断する橋が架けられて廃止になった。Lucía Carbó、the María Parera、the Mercedes Lacrozeの3隻は、ブエノスアイレス州北東部にあるパラナ川を、とIbicuyの間で横断していた。1913年に外輪船のRoque Saenz PeñaとJavier Ramos Mejíaがミシオネス州の南西側でやはりパラナ川を横断する航路に加わり、の港を利用した。1928年、Delfina Mitre、Dolores de Urquiza、Carmen Avellanedaの3隻が建造されてZárate-Ibicuy間航路の3隻を置き換えた。最初の2隻は貨物船との衝突事故で沈没した。新しい方の3隻のうちの2隻は今でもZárate地方で浮き桟橋として使われており、残りは売却されて艀やスクラップとなった。Posadasの2隻の連絡船はいまでも残っており、うち1隻は内部を鉄道博物館にしている。これらの8隻の連絡船は、グラスゴーのポイントハウス (Pointhouse) にあるJ.A.イングリス (J.A. Inglis) が建造し、アルゼンチンのEntre Rios Railwaysによって運用された。9番目の連絡船、Tabareはアルゼンチンで1966年にAstarsa (ASTilleros ARgentinos S.A.) によりブエノスアイレス南方のラプラタそばのリオ・サンティアゴ (Rio Santiago) 造船所で建造された。今でも存在しているが運航されておらず、ブエノスアイレスの古いドックにいる。車両航送艀 (railbarge) は、タグボートが牽く艀に車両を載せたもので、鉄道連絡船の一種である。注意: キューバとアメリカ合衆国を結ぶカーフェリー、鉄道連絡船は全てアメリカ合衆国による対キューバ封鎖政策により運航が中断されている。車両航送をするフェリーではないが、エジプトの1,435mmゲージ区間とスーダンの1,067mmゲージ区間を連絡している。どちらの航路も、フェッロヴィーエ・デッロ・スタート(イタリア国鉄)の傘下の管理会社RFI()のさらに子会社のBluviaが運航している。現在、本土とシチリア島を結ぶ便は頻繁に定期運航がなされているが、本土とサルデーニャ島を結ぶ便は本数が少なく、実際の交通需要に応じて日々運航されている。イタリアの鉄道連絡船に関して、非公式のページであるが このページ で詳細を見られる。Caspian Shipping Company(Kaspar)は7隻の鉄道連絡船を所有し、さらに2隻を建造している。#イランの項目も参照。必ずしも鉄道車両航送ではないが、連絡船がインドとスリランカを狭い海峡を横断して結んでいる。必ずしも鉄道車両航送ではないが、連絡船がエジプトの1,435mm軌間とスーダンの1,067mm軌間の区間をナイル川経由で結んでいる。他に、スーダン南部のジュバとウガンダのをナイル川に沿って結ぶ連絡船が運航されている。これらの航路は全て貨物列車と、一部では自動車を積載するのみである。ただし、マルメとドイツのベルリンを結ぶ夜行旅客列車がトレレボルイ - ムクランの連絡船を使用している。日本では、旧国鉄が運航した航路全般を指すことが多い。国鉄が運航した航路には、鉄道間を連絡するために開設した航路の他に、鉄道会社が運航していた航路を買収後引き続き運航したものも含まれるため、宮島航路などのように、鉄道間連絡という性質が全くない航路もあったが、それらも一括して鉄道連絡船と称する。国鉄時代、すべての船舶は船籍港を東京港としていたが、分割民営化後青函航路は函館港、宇高航路は高松港、宮島航路は広島港が船籍港となった。これら3航路は、それぞれ関門鉄道トンネル、瀬戸大橋、青函トンネルが完成したため、使命を終えて廃止となった。鉄道連絡船の多くは、鉄道路線の延長、太平洋戦争敗戦による領土の喪失、トンネル及び橋の完成、利用客の減少などといった理由で廃止され、観光色の強い宮島航路のみが残った。なお現在、稚泊航路に相当する稚内 - コルサコフ間にはハートランドフェリーのサハリン航路が、関釜航路に相当する下関 - 釜山間には関釜フェリーが、博釜航路に相当する博多 - 釜山間にはカメリアライン、JR九州高速船の「ビートル」、韓国の未来高速の「コビー」が運航されている。また青函フェリー・宇高国道フェリーなどのように、国鉄 - JRによる航路が廃止された後でも、同区間に車輸送や地元の便を図った民間の航路が存在する区間は数多く存在する。しかし、これら路線は広大な車両待機所を確保するために、港の位置が鉄道の駅から離れていることが多く、鉄道連絡船とは言いがたい。観光色の強い箱根観光船の場合は、箱根登山鉄道・箱根ロープウェイとの間に相互連絡協定があるものの、普通は鉄道連絡船とはいわない。同じように、鉄道事業者の系列会社が観光地などへ航路を運行している例はいくつか見られるが、上記の宮島航路や南海フェリーなどを除いては、鉄道連絡船とみなさないのが一般的である。利用可能な区間は下記である。アジア横断鉄道の構想ではいくつかの鉄道連絡船が含まれている。鉄道連絡船の反対が連水鉄道(ポーテッジ・レールウェイ、)である。鉄道連絡船が陸路のない場所を結ぶのに対して、連水鉄道は川や海などの航海可能な場所がないところを鉄道で代行するものである。例えば、パナマ運河ができるまでの間パナマ地峡鉄道が大西洋と太平洋を結ぶ役割を果たしていた。
出典:wikipedia
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